第008話 心の距離
2008年4月。森田 周平(当時15歳)が吹奏楽部のポスターをジッと見ていると、突然後ろから「ねぇ!」と声を掛けられたので彼は驚いて後ろを振り向いた。
「あんた、吹奏楽に興味あんの!?」
異様に馴れ馴れしい言葉遣いに周平は少し違和感を覚えたが、名札のバッジの色を見てすぐに同学年と分かり、警戒心を解いた。
「うん。中学校からオレ、サックス吹いてるから高校でも続けようって思ってたから」
「そうなんやー! あ、あたし4組の後藤 未樹! あたしも吹奏楽、中学からやっててな~。チューバやねんけど! ホンマは友達連れて行こうかなぁって思ってたけど、なんか行かへんって言うからどないしょーって思っててんよ」
間髪いれずにしゃべり続ける未樹に少し戸惑いながら、周平は相槌を打った。
「ほんでさぁ、せっかくやねんから、一緒に見学行かへん?」
「へ?」
周平は目を丸くした。
「せやからぁ! 見学、一緒に行こうって!」
「あ……でもいきなりそんなん」
「いきなりでも全然問題ないって! だって、自由に見学来てくださいって書いてあるやん!」
「そういう問題やなくって」
周平が言いたいのは、男女がいきなり一緒に部活見学に来ると何だか妙な勘違いをされそうな気がするということだったのだが、未樹はまったく聞く耳持たずだ。
仕方なく、未樹に引っ張られる形で吹奏楽部の見学に行くことになった。
「すみませーん!」
未樹の大声が音楽室中に響いた。すると、当時の部長であった女子生徒が「はーい!」と元気な顔をヒョコッと音楽室の扉から出した。
「見学に来ました、1年4組の後藤 未樹と……あんた、名前は?」
「は?」
「は?やなくて、名前!」
周平はこの後藤という女子が自分の名前も知らずにいきなり話し掛けてきたのかと思うと、不思議で仕方がなかった。ひとまず、周平は戸惑いながらも部長に挨拶をする。
「1年2組の、森田 周平です」
「……ふーん」
冷めた声と表情に周平はドキッとした。嫌な感じが背中をなぞっていく。しかし、未樹は全然そんな冷めた気配を感じず、「頑張りますのでお願いします!」と早くも入部意志を見せていた。
周平のいやな予感はズバリ、的中した。
周平が入部した当時、部員数は周平たち1年生を含めて96名にもなっていた。当然、コンクールに1年生が出られるはずもなく、日々パート練習で厳しい指導を受け、下級生なのだから当然とばかりに部室や音楽室の掃除、参加もしない合奏の準備と片付けに追われていた。とてもこれでは普通に練習することもできない。
そうした状況で鬱憤が1年生の間に積もっていったのだ。そして、挙句の果てにそれらに耐え切れなくなり、34名も入部した周平たちの学年も、徐々に退部する者が増えていった。
それらの鬱憤を爆発させたのが、周平と未樹だったのだ。自分たちも対等に部活に参加したいと顧問と部長、パートリーダーに訴えた。しかし、顧問は「運営も基本的にお前らに任せてるから」の一点張り。仕方なく、周平と未樹は部長、副部長、パートリーダーに現在の状況を改善してほしい、と訴えたがこうだったのだ。
「なんなん? 部の方針に従われへんわけ?」
驚いて周平と未樹は目を丸くした。しかし、部長は続ける。
「聞いとん? 人の話……」
「聞いてます」
未樹がハッキリと続けた。
「せやけど、おかしいもんはおかしいと思うんです。それを直してほしいって、意見を述べさせていただいたんです」
すると、それまで黙って状況を聞いていたチューバのパートリーダーが立ち上がり「後藤さん、ちょっといい?」と彼女を連れてパート練習部屋に行ってしまった。
それは周平も同じだった。そして、耐え難い時間が始まった。
「どういうつもりなん?」
「部の雰囲気を……変えたくて。エヘヘ」
「笑わんといてくれる!?」
ビクッと周平は体を震わせた。
「こっちは真剣やねん」
「すいません……」
先輩は面倒そうな表情で言った。
「中学の時は自由気ままにできたかもしれへんけど。ウチの吹奏楽部は伝統ってのがあるんよ。わかる?」
「……。」
「わ・か・る?」
先輩の強い口調に周平は少しひるみそうになった。しかし、部の雰囲気や方針が古いので、何とか変えたいと思う周平はこのまま負けるわけにはいかないと考え、さらに答える。
「……わかります。でも、いつまでもずっと同じままじゃきっとよぉないと思うんです。やから、ちょっとでも状況変えたいと思うんです。1年が何言うとんねんって思われるかもしれませんけど」
「わかってんねやったら、1年が部のことにギャーギャー口出さんといて」
「……。」
「返事は!?」
「……はい」
周平はかなり渋々返事をした。そして追い出されるようにパート練習の部屋を出ると、先ほどほぼ同時に呼び出された未樹がトボトボと廊下を歩いていた。
「よぉ、後藤」
「あぁ……」
「どないやった? 俺はなんか部の方針やねんから、この雰囲気をぶち壊すようなことせんといてくれって言われてさ~」
「森田くん」
未樹の落ち着いた声に周平は思わず喋るのをやめた。
「うん?」
「あたし……森田くんのこと、手伝われへんようになった」
「は?」
周平は未樹の言葉をまったく理解できなかった。
「ちょ、ちょお待てや後藤。なに言うとん?」
「森田くんのこと、手伝われへんようになった……」
未樹は同じことを小声で繰り返した。
「な、なんで……?」
「……。」
未樹は俯いたまま答えない。
「先輩に、言われたからか?」
ビクッと未樹の体が反応する。かなりの間を開けて、未樹は小さくうなずいた。
「は……そうでっか」
周平は大きくため息を漏らした。
「いいですよ。いいですよ。そうですね。先輩との関係、大事ですよね」
未樹はハッと気づいたようにフォローを入れる。
「で、でもあたしに手伝えるコトあったら」
「今さらさぁ、何言うてんの? 今さっき、俺のこと手伝われへんようになった言うたんちゃうん?」
未樹は戸惑いつつ「そうは言うたけど、でも、陰ながら手伝えることがあるかなぁって思って」と答えた。その言葉に周平はますます苛立ちをあらわにした。
「あのさぁ! 手伝われへんようになったんやろ!?」
「……。」
未樹は俯いて小さくうなずいた。
「鬱陶しいねん! 手伝われへんようになったのに、陰ながら手伝いたいとか! あれやろ。どうせ先輩とか同級生とかに悪く思われるんが嫌なんやろ? そうやんな。敵なんか作って部活しとぉないわな! そうですね~そうですね~!」
「ま、待って森田くん」
「馴れ馴れしく呼ばんといてくれますか? 後藤さん」
「……。」
周平は自分でも最低なことを言っているのはわかっていた。しかし、味方だと思っていた人物がこうも呆気なく味方でなくなってしまうのは、もの凄い空虚感を生み出してしまう。周平は胸が苦しくなり、涙が出そうになった。
「もうえぇわ」
吐き捨てるように周平は言った。
「なかったことにしよ」
「……。」
未樹は泣きそうな顔をして周平を見つめる。その表情を見て周平の心が一瞬グラついたが、彼の決心はなんとか揺るがなかった。
「俺とアンタはもう、まぁちょっと心の距離がある、ただの部員同士。そういうわけで、よろしく。まぁ、必要最低限の会話だけできればえぇんちゃう?」
味方だと思っていた人物の謀反は、いつもの周平の優しさや明るさを一瞬で奪っていき、卑屈な考えと言葉を次々と溢れ出させた。
「もうえぇよ。一緒におったらおかしいやん。練習戻ろう」
周平は踵を返してパート練習の部屋に戻り始めた。しかし、これだけは言っておきたかった。
「俺は」
未樹がハッと顔を上げる。
「この部をこのままにしとくつもりはない。独りになっても、絶対意地でもこの部を変える。やから、部活を辞めるつもりもない。ただの掃除係になろうが、ワザとコンクールメンバーから外されようが、絶対に辞めるつもりはない」
これは自分への宣言でもあった。絶対にそうするとこの瞬間、周平は誓ったのだ。
そしてこの日以来、未樹と接触することは皆無に等しかった。事務的な会話すらない、すれ違いの日々。お互いの苗字を呼ぶことも月数回というような異常事態だった。
気づけば、そんな状態のまま最高学年になっていた。周平は最高学年である今年2010年が、最後のチャンスだと考えていた。
部を変える最後のチャンス。
そして、もうひとつのチャンスはこの2010年しかないと、彼は確信していた。