「ご予約ありがとうございます、貴女のかつての婚約者です」「チェンジで」
予約名簿の中から『ベアトリス』という名を見つけたときは、ただの偶然だろうと思った。
ここは故郷から二つ国境を越えた先にある、湖畔の保養都市リューベル。温泉と歌劇場が評判で、春から秋にかけては各国の金持ちが押し寄せてくる。
そんな観光地にある会員制紳士紹介所で、俺はフローレンと名乗っている。聞き慣れない商売だろうが、やることはそう難しくない。観劇や食事、買い物に付き添う男を女が時間単位で雇う店だ。
旅先で一人では味気ないという夫人もいれば、夫より話の合う相手と芝居を見たいという客もいる。亡き夫と毎年訪れていた店に一人で入りたくないという老婦人を案内したこともあった。
理由はそれぞれだ。金で買われた時間のあいだ、俺たちは彼女たちの紳士役を務める。
故郷を離れてから二十年近く。商会で慣れない下働きをし、家庭教師で子どもに振り回され、護衛まがいの仕事まで経験した。その末に《ヴィ・ゼニア》へ流れ着いて四年。入れ替わりの激しいこの商売では、いつの間にか俺も古株になっていた。
「フローレン、次のお客様がお待ちよ。さっさと行ってちょうだい」
支配人に急かされ、予約名簿を閉じる。
「今行く。客の名前を見ていただけだ」
「事前に確認くらいしておきなさいよ。それと、眉間に皺を寄せるのはやめて頂戴。あなたは難しい顔をしていると借金取りみたいなのよ」
「ハッ、実際には俺が借金を返している立場だがな」
「だったら早く完済できるようにさっさと支度なさい」
急かすように追い立てられ、鏡の前で上着を整えた。
——ベアトリスという名前には覚えがある。
だが、彼女のはずがない。こんな店に来るような性格ではなかったし、そもそも彼女には旦那がいる。
だから同名の別人だろうと。そう思いながら扉の前に立ったのだが——。
「お待たせいたしました。本日はご予約いただきありがとうございま——」
挨拶と同時に窓辺にいた女が振り返る。その顔を見た瞬間に、用意していた言葉の続きが喉の奥で詰まった。
栗色の髪は最後に後姿を見送った時よりも短く、低い位置で上品にまとめられている。少女の頃にはまだ丸みのあった頬も細くなり、目元には年相応の線があった。
それでもこちらを見る青色の瞳だけは記憶の中と大して変わらない。昔、俺が余計なことを言うたびに少しだけ細くなった目だ。
「……ローレンス?」
二十年ぶりだというのにその呼び方まで変わらない。ほんの少し、声が低くなったか。
俺は一度だけ目を閉じ、仕事用の笑顔を作った。
「お久しぶりです、ベアトリス様。まさかこんなところでお会いできるとは思いませんでした」
彼女は何も言わずに俺の頭の先から靴までをゆっくり眺める。
店の規定に沿った黒のジャケットに、胸元には皺ひとつないハンカチーフ。光沢のあるブーツは新入りによる靴磨きの成果だ。
彼女は最後にもう一度俺の顔へ視線を戻すと、表情をみるみるうちに強張らせて——。
「チェンジで」
「……お気持ちはよく分かります。が、本日はほかの者はすべて出払っております。別日への変更でしたら承れますよ」
「そう。なら今日は帰るわ。せっかく旅先で少し羽を伸ばそうと思ったのに、よりによってあなたが出てくるなんて聞いていないもの」
「こっちだって君が来るなんて思いもしなかったよ。というか——」
取り繕う余裕も無く口調が崩れてしまう。ついでに相手が客だということも忘れ、気になっていたことが口をついて出ていた。
「君、こんなところに来て大丈夫なのか。ウィンスレットは知ってるのか?」
「エドガー? どうしてあの人の許可がいるの?」
「どうしてって、旦那だろう。既婚の客も利用する店ではあるが、君までそういう遊びをするとは思わなかった」
ベアトリスは一瞬きょとんとしたあと、ようやく何を気にしているのか理解したように鼻で笑った。
「ああ。あの人とは別れたわよ」
「……なんだって?」
「半年前に離縁したの。今は独り身ってこと。だから誰とどこで何をしようが私の勝手でしょう?」
あまりにも軽く言われたものだから返事が遅れてしまった。客に向けるには少々不躾な顔をしたらしい。ベアトリスが不服そうに眉を上げる。
「そんなに驚くこと? 二十年も夫婦をやったんだもの。もう十分でしょう?」
「十分って……いったい何があったんだ」
「別に何も。詳しい話をあなたに説明する義理もないし、今日はもう帰るわ。キャンセル料は受付でいいのよね? 次に来るときは、あなた以外をお願いしておくから」
一人で話を勝手に済ませたかと思えば椅子に置いていた鞄を持ち上げ、扉へ手を掛けたところでベアトリスが振り返った。
「フローレンだったかしら。随分と気障な名前になったのね」
「うるさいな、利用しないなら早く帰れ」
「言われなくても帰るわよ」
扉が乾いた音を立てて閉まる。
二十年ぶりに再会したというのに。
場所も立場も状況も、まったく期待していないものだった。
*
俺とベアトリスが婚約していたのは、もう二十年以上前になる。
当時の俺は二十二歳。彼女は十八歳になったばかり。親同士が決めた縁ではあったが仲は悪くなかった。
嫡男として父の跡を継ぎ、家業を守り、その隣にはベアトリスがいる。
それが俺の未来だと信じて疑わなかった。
ただ、当時の俺はなんとも自分勝手な男だった。
『他に好きな女ができた。君とはもう結婚できない』
彼女の顔を見ることもなく、俺は窓の外から視線を外さずにそう言い捨てた。
『それに、君は少し我が強すぎる。妻にするなら、もっと俺に従ってくれる女のほうがいい』
彼女の言葉を遮るように、さらに酷いことまで付け加えた。
半年後に彼女が他家へ嫁いだと聞いたときには、これでよかったのだと思うことにした。
俺たちの縁はぷっつりと切れたのだ。もう二度と繋がることもないだろう。
——そのはず、だったのだが。
予想だにしなかった再会から十日後。
店の受付の前にはベアトリスが立っていた。
薄い紫色のショールを羽織る彼女の対面では、指名を受けたらしい男が「ご指名ありがとうございます、ベアトリス様」と恭しく頭を下げている。
懲りずにまた予約を入れていたのか。しかも俺とはまるで違うタイプの男じゃないか。
言いたいことは山ほどあったが、考えるより先に足が向いた。
「君、まさか今日もベアトリスで予約したのか。前回は初めてだったから仕方ないとして、少しは考えたほうがいいぞ」
「あら、ごきげんようフローレンさん。会って早々お説教だなんて、人ってそう簡単には変わらないのね」
「説教じゃない。忠告だ。君が高貴な家の夫人だったことを知っている人間はこの街にだっているかもしれない。離縁したばかりの女がこんな所に通っていると知られたら、明日には街中に噂が広まるぞ」
「別に悪いことをしているわけではないもの。言わせたい人には勝手に言わせておけばいいじゃない」
「だからといって自分から触れ回る必要はないだろう。少なくとも店では仮の名にしておけ」
そこまで言うと、ベアトリスがじっとこちらを見る。そして渋々、といった様子でふぅと溜息を吐いた。
「分かったわ。それならリズにしておいてちょうだい」
「……嫌味か?」
「なによ、まだ文句でもあるの?」
「違う。昔、俺がそう呼んでいただろ」
婚約していた頃。人前ではベアトリス、二人きりのときには時折リズと呼んでいた。最初にそう呼んだのがいつだったかまでは覚えていないが、その響きだけは今でも耳に残っている。
ベアトリスは少し考えたあと、これ見よがしに肩を竦めた。
「だから何よ。ベアトリスから取っただけでしょう? 仮の名前くらい好きなものを選ばせてちょうだい」
「ほかにもあるだろう」
「今さらあなたに名前まで選んでもらう気はないわ。昔はドレスの色まで決められたけれど、今はもう婚約者でもないんですもの」
そう言って、ベアトリスは今日の担当の腕へ軽く手を添えた。
「もう行きましょう。フローレンさんにこれ以上捕まっていると予約時間が終わってしまうもの」
「はは、フローレンさん、すみません。今日は私にお嬢様のエスコートを任せてください」
「気をつけてな、リズ様。そいつは俺より口が上手いから余計なものまで買わされるなよ」
「まだ口出しするつもり?」
「……今のもただの忠告だ」
「そう。昔も散々いただいたものね」
扉が閉じるまで見送ったところで、ひとつ溜息を吐く。
「フローレンさん、ご指名いただいてますよ」
「分かってる。今行く」
受付に促され、自分の支度を進める。
最後まで締め終えたところでボタンを掛け違えていることに気が付いて、思わず舌打ちをしてしまった。
それから『リズ』という名は予約名簿に時折現れるようになった。
週に一回、指名する相手は毎回違う。店の若い連中から「リズ様は話しやすい」「食事も気前よく奢ってくれる」などと聞かされることも増えた。
……離縁したからといって、少し羽目を外し過ぎなんじゃないだろうか。
縁の切れた彼女が誰を選ぼうと自由ではあるが、なんだか気になって仕方がない。
そんなある晩、俺は新規の客を伴って歌劇場へ出向いていた。
今日の相手はまだ社交界に出て数年といったところの若い令嬢だ。母親から贈られたという真珠の髪飾りを何度も気にしながら、休憩時間になると今夜の客席に誰がいたのかを楽しそうに教えてくれる。
俺には半分も分からない名前だったが、客が楽しんでいるのなら口を挟む必要もない。
「……あら。あの方、また違う殿方と一緒だわ」
令嬢の視線を追った先、二階席へ続く階段の下に見覚えのある葡萄色の帽子があった。
——ベアトリスだ。
今日はまた別の男を伴っているらしい。何か面白いことでも言われたのか、扇の陰で笑っている。
「以前もお見かけしたことがあるの。もしかしたらあの人もあなたのお店のお客様?」
「他のお客様のことは話せませんよ、お嬢様」
「ふふ、それもそうよね」
くすくすと笑った令嬢は声を落とし、俺の腕に手を添えながら小さく呟いた。
「でもあのお歳になってまで男の方を買うなんて。私ならちょっと恥ずかしいかも」
悪意があるというよりも、単純に自分とは違う側の人間だと思っているのだろう。今日彼女が店を利用したのだって、同伴相手から突然のキャンセルを受けてチケットが勿体ないという理由からだった。
……まあ、確かにそうだよな。俺だって二十かそこらの頃には自分が四十になる日がくるなんて想像もつかなかったものだ。
「そうでしょうか」
俺はベアトリスから視線を外し、いつも通りの笑顔を客へ向けた。
「俺としては五年後も十年後も、できれば五十年後までお嬢様からご指名をいただける男でいたいと思っていますよ」
「……五十年後?」
令嬢が目を丸くする。
「ええ。その頃にも観劇がお好きでしたら、ぜひ。ひとりで見る観劇も乙ですが、相手がいればまた違った楽しみ方が増えるでしょう?」
「その頃には、私だってお婆さんよ?」
「年齢だけで楽しみを狭める方が勿体ないじゃありませんか」
それだけ答えると、令嬢は何か考えるように口を閉ざした。
やがて次の幕を知らせる鐘が鳴り、俺たちは客席へ戻る。
振り返らなかったからベアトリスがどこへ行ったのかは分からない。
ただ、第二幕が始まるまでの間、あの葡萄色だけが目に残っていた。
——それから数週間後、ベアトリスが予約を入れていた男が熱を出した。
「フローレン。午後、空いていたわよね。悪いけれど代わってちょうだい」
支配人から名前を聞く前に嫌な予感がした。
「誰の?」
「リズ様。観劇と夕食だから、あなたなら問題ないでしょう」
「本人が嫌がる。初回で切られたのを忘れたのか」
「去年まで指名数一位だった男が何を弱気になってるの。あなた、二度目につなげるのは得意でしょう?」
いつもなら執事上がりの男あたりが残っている時間なのだが、今日は珍しく出払っているらしい。
結局押し切られ、待ち合わせの部屋へ向かった。
葡萄色の帽子を被ったベアトリスは、俺を見るなり眉間に皺を寄せた。
「チェンジで」
「その台詞、気に入ったのか? 今日は言っても代わりはいないぞ。担当が熱を出したからな」
「そんなに酷いの? 観劇ならほとんど座っているだけでしょう」
「熱のある人間を連れ出す気か。途中で倒れたら君が介抱することになるぞ」
ベアトリスはしばらく考える素振りを見せて、鞄を持って立ち上がる。
また帰るつもりなのかと思いきや、彼女は俺へと振り返った。
「……仕方ないわね。今日はフローレンで我慢してあげる」
「随分な言われようだな。俺だってこの店でそこそこ指名を取ってるんだぞ」
「だから余計に不思議なのよ。世の中には物好きな女性が多いのね」
そうは言いながらも、今日は帰らなかっただけ進歩なのかもしれない。
綻びかけた口元を隠すように、俺は改めて恭しく一礼した。
「お時間を頂きありがとうございます。それでは今日は私にエスコートをさせてくださいませ、リズ様」
「気持ち悪いわ。いつもの調子でお願い」
「……了解」
二十年という時の流れは残酷だ。
彼女から可愛げというものを完全に奪い取ってしまったのだから。
劇場までは歩いて十五分ほど。大通りには菓子や花を売る露店が並び、ベアトリスはそのたびに足を緩める。
俺もそれに合わせて歩幅を緩めていると、彼女がこちらを見上げた。
「そんなにゆっくり歩くなんて、どうしたの?」
「いや、相手に合わせるのは当然だろ」
「あら、覚えていないの? 私はいつも後ろで早足になっていたわよ。足が長いのを自慢してるんだと思っていたわ」
「……そこまで性格が悪かった覚えはないな」
「無意識ならもっと悪いわね」
言われてしまえば返す言葉もない。
彼女はついと前を向いたが、どこか機嫌は良さそうに見えた。
芝居を見終えたあとは湖を望む店で夕食を取った。
ベアトリスは相変わらずよく喋る。今日の演目について最後まで好きに話させていると、はたと気付いたように彼女はスプーンを運ぶ手を止めた。
「……あなた、本当に人の話を聞けるようになったのね」
「君こそそんなに喋る女だとは思わなかった。お互い様だろう」
「あなたが喋らせなかったんじゃないの。昔なら私が半分も話さないうちに、『いや、あそこはこういう意味だ』なんて演説を始めていたもの」
「今の仕事でそれをやったら翌月から指名がなくなるからな」
ベアトリスが吹き出したのにつられ、俺も少し笑う。
ふと、椅子の脇に置かれた葡萄色の帽子へ目がいった。
「……その帽子、似合ってるな」
ベアトリスが、小さく目を見張る。
「……それだけ?」
「なんだ、もっと褒めたほうが良かったのか?」
「もっと暗い色のほうがいいとか、飾りが派手だとか。昔のあなたならもう一言くらい余計なことを言ったでしょう」
「……そんなに酷かったか、俺は」
「無自覚だったんだから本当に性質が悪いわ」
彼女が夜会に赤いドレスを着たいと言えば、青のほうが似合うと勝手に変えさせたことを思い出す。
ベアトリスは帽子の飾りへ指を伸ばし、それ以上は何も言わなかった。
帰りの馬車へ乗せるとき、差し出した手にベアトリスの指先が重なった。
「今日はありがとう、フローレン。急な代役にしてはなかなか悪くなかったわ」
「お褒めいただき光栄です、リズ様。次回は最初から俺を指名していただければ、もう少し愛想よくできますよ」
「調子に乗らないの。次はもう決めているわ」
「……そうか」
自分でも驚くほどつまらない返事が出た。
ベアトリスは何か言いたそうにこちらを見たが、結局そのまま馬車へ乗り込む。
扉を閉め、馬車が動き出してから、彼女の次の予約が誰なのかを気にしている自分に気づいた。
*
満を持してとでもいうべきなのか、次に彼女が選んだのはカシアンだった。
店で一番の指名数を誇る男で、年は二十三。自信に満ちあふれ、顔立ちも華やかで、何より女が何を言われたがっているのかを読むのが異様に上手い。
「リズ様の今度のお相手、僕なんですよ。フローレンさんも気になるでしょう?」
そして支度部屋でわざわざこんなことを言ってくる程度には、性格もよろしくない。
「別に。客が誰を選ぼうと自由だ」
「へえ。昔の婚約者なんでしょう? もう少し妬くかと思いましたけど」
「……誰から聞いた」
「この店で二十年ぶりに再会して即座にチェンジされた男がいるって、もう全員知ってますよ」
受付から支配人に話が漏れたのだろう。それか俺が没落貴族だということは知られているから、勝手に察したのかもしれない。
カシアンは愉快そうに笑いながら、鏡の前で髪を整えた。
「まあ安心してください。僕、一度指名されたお客には大体また選んでもらえるんで。リズ様にも楽しんでもらいますよ」
「さすが、《ヴィ・ゼニア》一の人気者は言うことが違うな」
「すみませんね、先輩の座を奪ってしまって。フローレンさんももうちょっと愛想よくしたらどうです?」
余計なお世話だと返したところで、迎えが来たカシアンは上機嫌で部屋を出ていった。
腹の立つ男ではあるが、仕事はできる。
それに客との会話に踏み込む距離の測り方は俺より巧い。恋人のように振る舞いながらも本当に恋人になったつもりにはさせない。その匙加減に長けているからこそ、若い客から年配の客まで幅広く指名を集めているのだろう。
……ただし、少々やりすぎるところもある。
この店が提供するのはあくまで同伴者だ。観劇や食事、買い物や散策。それ以上を客が求めても断ることになっているし、従業員側から店外で個人的な関係を持ちかけることも禁じられている。
ところがカシアンには以前から、営業時間を過ぎたあとにも客と会っているらしい、という噂があった。
本人に確認しても「偶然会っただけ」「相談に乗っただけ」と笑って躱すし、客側から苦情が出たこともない。支配人から何度か釘は刺されていたようだが、それ以上踏み込める材料がなかった。
そんな男の予約欄に『リズ』の名が一度入り、翌週にもまた入った。
三度目には、カシアンのほうから空いている日を聞いていたそうだ。
「随分熱心だな」
支度部屋で声を掛けると、鏡越しにカシアンと目が合った。
「何がです?」
「今まで自分から予定を空けることなんてなかっただろ」
「僕にだって気に入った客くらいできますよ。そうなったら少しでも会いたくなるものでしょう?」
「客に入れ込むな。仕事だと割り切れと講習で何度も言われたのを忘れたか?」
「……フローレンさん、本当に面倒臭いですね。僕の父親ですか?」
鼻で笑われた。こんな糞生意気な子どもを作った覚えはない。
「リズ様は話が面白いんですよ。こっちが何を言っても簡単には乗ってこないし、褒めても『ありがとう、よく出来た営業ね』で終わる。ああいう客、僕には珍しいんです」
「つまり、落とせないから意地になってるだけだろ」
「……そのつもり、だったんですけどね」
一瞬だけ、カシアンの表情からいつもの軽さが消えた。
それ以上は何も言わず、すぐにまた鏡へ視線を戻す。
妙な引っ掛かりと胸騒ぎが残る。
数日後、見覚えのある二人を見つけたのは、夕食を終えた客を宿まで送り届け、店へ戻る途中だった。
大通りから一本外れたところ。——カシアンとベアトリスだ。
予約時間はとっくに終わっている。しかも二人が向かっている先は、観光客向けの酒場や劇場が並ぶ区画ではない。小ぢんまりとした宿が軒を連ねる通りだ。
まさかと思って足を速めると、ちょうどカシアンが一軒の宿の前で立ち止まった。
「リズ様。もう少しだけ僕と一緒にいてくれませんか」
普段、客に聞かせている甘い声とは少し違う。知らず、歩幅が大きくなる。
「ここなら静かですし、誰にも邪魔されません。ここからは個人的な時間として過ごしたいんです」
「カシアン」
割って入ると、二人が同時にこちらを見る。
ベアトリスは驚いただけだったが、カシアンは露骨に顔をしかめた。
「……なんですか、フローレンさん」
「それはこっちの台詞だ。予約時間は終わってるだろ。客を宿へ連れ込むのは店の規則違反だ」
「連れ込むって言い方はやめてもらえません? それにプライベートな時間にまで口を出される筋合いはありませんよ」
「一度でも客になった相手と店を通さずに会うのも違反だ。規則くらい知ってるだろ」
「勤務時間外まで先輩面ですか。リズ様が嫌だと言ったなら帰りますよ。でも、本人の返事も聞かずにあなたが決めることじゃないでしょう」
……腹は立つが、カシアンの言うとおりだった。
俺はベアトリスへ視線を移す。
「……君は行くのか?」
彼女は俺とカシアンを交互に見たあと、呆れたように息を吐いた。
「宿の看板くらい読めるわよ。私もそろそろお断りしようと思っていたところ」
「そんな、僕の何が駄目なんですか」
カシアンの顔に、ほんの少し焦りが浮かんだ。
「いつもの営業で誘ってるわけじゃないんです。リズ様ならもう分かってるでしょう?」
「何を?」
「……本気だってことです」
今度は俺まで黙った。カシアンは苛立ったように前髪を掻き上げる。
「最初は仕事でしたよ。でも、今は違います。店を辞めたって構わない。あなたがこの街を出るなら、一緒に行ったっていいと思ってる。だから——」
ベアトリスはしばらく黙って聞いていた。
やがて、困ったように眉尻を下げる。
「ごめんなさいね、カシアン。私、坊やには興味がないの」
「……僕、二十三ですけど」
カシアンが不満げに言葉を絞り出す。
「知っているわ。だから言っているの」
「二十三は子どもじゃないでしょう!」
「私から見れば十分若いわ。それともあなた、自分がこの店で一番人気だから、女性なら誰でも自分を選ぶと思っている?」
「いや、そんなことは——」
「そういうところも含めて子どもなのよ。あなたと話すのは楽しかったけれど、恋人になりたいと思ったことは一度もなかったわ。……なんて、十五も年上の女が偉そうに言うことでもないけれど」
カシアンが完全に言葉を失った。
店でどんな女を相手にしても余裕を崩さない男が、初めてまともに振られた顔をしている。
「……じゃあ、リズ様はフローレンさんみたいな年上が好みなんですか?」
「そうねぇ……」
ベアトリスが俺を一瞥する。
「別に年上だからいいわけじゃないわよ。昔のこの人なんてただただ面倒な人だったもの。自分が正しいと思えば人の話なんて聞かないし、何でも勝手に決めるし。そのくせ妙なところで意地を張る、本当に可愛げのない子どもだったわ」
「……随分な言われようだな」
「事実でしょう? ただ、久しぶりに会ったら少しは人の話を聞けるようになっていたし……まあ、比較的ましな年の取り方はしたんじゃない?」
褒められた気はまるでしなかったが、カシアンはもっと釈然としない顔をしていた。
「……それなら、僕もあと十年くらい経てばいいってことですか?」
「だから、そういうところよ」
今度こそカシアンは黙り込み、口元をきつく引き結んだあと、俺たちに背を向ける。
カシアンの姿が通りの向こうへ消えるまで、俺たちはその場に立っていた。
しばらくしてベアトリスが小さく息を吐き、宿とは反対の方角へ踵を返す。
俺も無言でその隣に並んだが、特に文句は言われなかった。
翌日、この一件は俺から支配人へ報告した。
今回は俺が宿へ誘っているところを実際に見ている。支配人もさすがに見過ごすことはできず、改めて本人を問い詰めたところ、以前にも何度か似たようなことをしていたと認めたらしい。
カシアンにはしばらくの謹慎が言い渡された。
本人は辞めると言い張ったらしいが、支配人に「女に振られたくらいで仕事まで捨てるな」と一喝され、結局そのまま残った。
謹慎している間に指名数も落ち、二位との差がかなり縮まったらしい。少しはいい薬になっただろう。
そして不思議なことに、その一件以降、ベアトリスは俺を指名することが増えた。月に一度だったのが二度になり、ときには翌週にも予約が入る。
「ほかの男はもういいのか」
「何よ。別の人を指名してほしいの?」
「そうは言ってないだろう。ただ、これまで一人に絞ることはなかったじゃないか」
「どうせなら色々と試してみたかったのよ。あんまりピンとこなかったけれど」
旅はどうするのかと聞けば、この街が思いのほか気に入ったからしばらく滞在すると言う。金があるから予定などいくらでも変えられるらしい。
彼女の希望で郊外の庭園へ出かけた日、薔薇の季節にはまだ少し早く、枝の先には固い蕾がいくつもついていた。
ベアトリスはその一つを覗き込みながら、来月なら見頃かしらと呟く。
「そういえば、本当にどうして離縁したんだ。二十年続いた夫婦が『そろそろいいでしょう』だけで別れるものなのか?」
「まだ気になっていたの? あなた、人の結婚生活に随分興味があるのね」
「……君は俺の婚約者だった人だ。気にするのは当然だろう」
「あなたから捨てたくせに。そういうところだけは素直になったのね」
ベアトリスは蕾から視線を外し、遊歩道を歩き出す。昔は弾むように石畳を踏んでいたのに、今はその足取りもすっかり落ち着いたものだった。
「最初から普通の夫婦ではなかったのよ。私たち、白い結婚だったの」
「……白い結婚?」
「エドガーには昔から想っている女性がいたの。私は夫人として家を取り仕切る。夫婦の寝室を共にする必要もない。その代わり、私の立場と生活はきちんと保証する。……最初からそういう約束だったわ」
「二十年、ずっと?」
「ずっとよ」
「その……一度も?」
「野暮なことを何度も確認するの、やめてくれる?」
呆れているような声色だったが、ようやくこちらを見た顔はどこか落ち着いたものだった。
「別に不幸ではなかったわ。エドガーは私を妻として尊重してくれたし、家のことは好きに任せてくれた。跡継ぎで揉めることもなかったし、二十年経って互いの役目を終えたからそろそろ好きに生きましょうという話になっただけよ」
「それで、使い切れないほどの財産を?」
「二十年間あの人の妻として働いた分だそうよ。私も多すぎると言ったけれど、あの人はそういうところも律儀だったの」
何と返せばいいのか分からず、足元の石畳へ目を落とした。
俺は二十年間、彼女が穏やかに暮らしているはずだと思い込んでいた。
俺と結婚するよりずっといい。少なくともその判断だけは間違っていなかったはずだ——と。
「ローレンス」
不意に本名で呼ばれ、顔を上げる。
「私の人生を勝手に悲劇にしないでちょうだい。どうせ今、頭の中で『俺が捨てたせいで二十年も愛のない結婚を』とか考えていたでしょう」
「……そこまでは考えてない」
「それならいいんだけれど。私は不幸じゃなかったし、あなたと結婚していたからといって幸せだったとも限らないでしょう? むしろ昔のあなたと二十年暮らしていたら、今の私はもっと性格が悪くなっていたかもしれないわ」
「そんなに俺は酷かったか?」
「自覚がないとは言わせないわよ?」
さらりと言われてしまえば、反論する気も失せた。
しばらく、石畳を踏む靴音だけが続く。
ベアトリスは前を向いたまま歩いていたが、やがて少しだけ歩調を緩めた。
「……それより、あなたのことも聞かせて」
俺が隣を見る。けれど、彼女はこちらを見なかった。
「あの婚約破棄。……借金が理由だったんでしょう?」
その一言で、俺の足が止まる。
ベアトリスだけが二歩ほど先へ進み、ようやくこちらを振り返った。
「……いつから知ってた」
「結婚して数年後には。あなたの家が傾いた時期を考えればだいたい分かるわ。それに、他に好きな女がいるって言ってた割にいつまでたっても結婚の話は聞かなかったし」
「ハッ、設定が甘かったか」
「嘘が下手なのよ。それで? 私に話せばそれでも結婚すると言うと思ったから、何も言わずに切ったの?」
「……ああ。正直に話せば君なら実家にまで頼んだことだろう。それが一番嫌だった」
「本当に、そういうところよ」
ベアトリスが呆れたように息を吐く。
「自分が嫌だからって、私がどうしたいかまで勝手に決めるところ。赤いドレスの頃から何も変わっていなかったのね」
「あの頃は、君の持参金まで父の借金に食われるのかと思うと嫌で仕方なかったんだ。それにエインズワース家に金を出してもらってまで生き延びるくらいなら、全部なくしたほうがましだ」
「でしょうね。あなたならそう言うと思ったわ。でもね、そのために『我が強いから妻には向かない』なんて言われた私は、本当に傷ついたのよ」
「……悪かった。あれは、君が二度と戻ってこないように言った」
「大成功だったわよ」
責めるでもない、穏やかな声。
だから余計にもう何も誤魔化せないのだと悟った。
「すまなかった」
二十年越しの謝罪。ベアトリスが少し目を見開く。
「……随分と素直になったのね」
「何度も他人に頭を下げてきたんだ。謝るくらいできるようになる」
「それなら、プライドもなくなった?」
「そこまで落ちぶれたつもりはない。この仕事にだって誇りを持っている」
「安心したわ。全部なくなっていたら、それはそれであなたじゃないもの」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
庭園を出て湖畔へ戻る途中、ベアトリスが何でもないことのように尋ねてくる。
「……借金、まだ残っているの?」
「残ってる。もう終わりは見えてるがな」
「私が払ってあげましょうか。お金なら本当に余っているのよ」
真っ直ぐに突き刺さる青い瞳。
今度はもう逸らすことはしなかった。
「断る。二十年前に巻き込まないため別れた女から今さら金を出してもらったら、この二十年が無駄になる」
「それは、プライドが邪魔をしているのかしら?」
「プライドの問題じゃない。これは俺のけじめだ。だいたい君、俺が断ると分かっていて言ってるだろ」
「一応よ。人の話を聞けるようになったから、年相応に少しは丸くなったのかと思ったの」
「人の金で借金を返せるまで丸くなったら、もはや俺じゃないだろう?」
「そこだけは変わらないのね。逆に安心するわ」
酷い言われようだが、不思議と悪い気はしなかった。
「あと五年くらいだ。今の調子なら、その頃には全部返せる」
「五年……」
ベアトリスが湖畔の向こうへ目を向ける。
風が吹き、葡萄色の帽子についた飾りが揺れた。
「じゃあ、それまで私がお客さんになってあげる」
「……冗談でも言ってるのか?」
「指名が入れば給金が増えるのでしょう? 私は使い切れないほどお金がある。あなたは借金を返したい。直接渡すのは嫌でも働いた分なら受け取れるなら、実に健全な取引じゃない」
「五年だぞ。そんなに俺と顔を合わせるつもりなのか?」
「嫌なら別の人にするけれど」
「それはやめろ」
考えるより先に首を振ってしまう。
ベアトリスの眉がゆっくり上がった。
「どうして?」
「……従業員にも色んな奴がいる。カシアンみたいなのにまた目をつけられても面倒だろう? だったら、俺にしておけ」
「そこはもう少し素直になればいいのに。俺以外の男に目を向けるなって」
「うるさいな。素直になったらなったで気持ち悪がるくせに」
「そうね、本当にそのとおりだわ」
そう言いながら、ベアトリスは笑っていた。
宿へ戻る馬車の前でいつものように手を差し出すと、ベアトリスも迷わず掌を重ねる。
その仕草は二十年前と変わらぬものだった。
彼女が腰を下ろしたのを見届けて、扉を閉めようとすると内側から手が伸びて止められた。
「ねぇ。私の予約表。担当はずっとフローレンにしておいてちょうだい」
「本当にいいのか?」
「いちいち予約をするのも面倒なのよ。隔週で、決まった時間でお願いね」
口元に微笑を湛えながら、彼女は澄まし顔で言う。
あの頃には決して見られなかったような、そんな顔で。
「分かったよ、リズ様。ご予約ありがとうございます」
「こちらこそよろしく、フローレン」
扉を閉めると、馬車はゆっくりと走り出した。
次の予約は二週間後。
行き先まではまだ決めていない。
いつもなら先に観劇の席か食事の店まで押さえてしまうところだが、予約帳の行き先欄はひとまず空けておくことにした。
そのくらいは、当日にリズへ聞けばいいのだから。




