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利益確定

その夜、私は母の形見である、あの青いベルベットのドレスを纏った。以前、ヴィンセントのために着ようとした、あのドレスだ。


(非合理的だ。もっと新しい、流行のドレスをユージン様に用意してもらうべきだった)

(いいえ。これでいい。これは、過去との決別であり、お母様への誓い。そして、(アデリーナ)わたし(レイナ)として戦うための、『戦装束』だ)


私は鏡に映る自分を見つめた。そこにはもう、怯えて俯く令嬢はいなかった。


王宮の大広間は、千の蝋燭が燃えるシャンデリアに照らされ、目も眩むほどだった。継母が好きだった茶会とは比べ物にならない、本物の貴族社会。甘い花の香りと、高価な香水、そして人々の好奇と憶測の匂いが渦巻いている。私が、ユージン・クローフォード公爵のエスコートで姿を現した瞬間、会場の空気が一瞬で凍りついた。


「あれは……ミルフォード家の……」

「クローフォード公爵と? どういうことだ?」


人々は、私を「噂の冷血令嬢」として、遠巻きに値踏みしている。


そして、案の定、彼らがやってきた。ヴィンセント・エアハルトと、その腕に守られるように寄り添う、アンナだ。アンナは、以前よりやつれた(ように見せかけた)様子で、今にも倒れそうなか弱い仕草をしている。


「アデリーナ! よくも……!」


ヴィンセントが、私とユージン様の前に立ちはだかり、公衆の面前で私を弾劾した。


「よくも我々の前に姿を見せられたな! 病弱な妹の治療費を横領し、その金で得体の知れない商売を始めるとは! ミルフォード家の名を汚す、薄情者め!」


会場が「やはり噂は本当だったのか」「なんて酷い姉だ」と、ヴィンセントに同調する空気で満たされる。アンナが、ヴィンセントの陰で「お姉様、お金を返して……私の薬代を……」と、か細い声で泣き真似を始めた。


(……茶番はここまで)


私は静かに、彼らの価値のない演説が終わるのを待った。


「『情報開示(ディスクロージャー)』いたしましょうか?」


(アデリーナ)の声は、王宮の大広間に静かに、しかし重く響き渡った。あれほど騒がしかった会場が、水を打ったように静まり返る。オーケストラも、演奏を止めていた。シャンデリアの蝋燭が揺れる。私を弾劾しようと息巻いていたヴィンセントは「じょ、じょうほう……?」と間抜けな声を漏らし、アンナは「何を……何を言うの、お姉様……」と、その顔から血の気を失わせ始めていた。


(さあ、一世一代のプレゼンテーションの始まりよ)


私は、ユージン様に合図を送り、彼が控させていた従者に「証拠」の書類の束を持ってこさせた。集まった貴族たち――私を「冷血令嬢」と呼んだオーディエンス――に、私はその束から一枚の紙を抜き出し、高く掲げた。


「まずはこちらを。皆様、アンナは『病弱』で、高価な『治療薬』が必要だと聞いていらっしゃいましたよね?」


私は、例の薬剤師から確保した「請求書」を、ヴィンセントの父であるエアハルト侯爵に突きつけた。


「これは、その『治療薬』の請求書ですわ。ですが、ご覧ください。品目には『高濃度美容薬。媚薬成分含む』と記載されております」

「び、びやく……!?」


侯爵が絶句する。周囲の貴族たちが「なんですって?」「治療薬ではなかったと?」「仮病だったというのか……!?」と騒然となった。


「ち、違う! あれは、本当に……!」


アンナが叫ぶが、その顔はすでに真っ青だった。


(第一段階、事実(ファクト)の開示。アンナの『病弱』という虚偽のブランドイメージ)は、これで完全に崩壊したわね)


「お父様」


私は次に、会場の隅で震えていた父、ミルフォード伯爵を睨みつけた。


「あなたはこの『高価な美容薬』の代金を、どこから捻出していましたの?」


私は、第二の証拠――ミルフォード商会の「帳簿の写し」を、今度は王家の財務官に差し出した。


「ミルフォード商会の帳簿です。ご覧になれば分かりますわ。父は、(アデリーナ)の亡き母の遺産である商会の資産を、長年にわたり『横領』し、義妹(アンナ)の『美容代』に充てておりました」


(これが、あなた方が「家族愛」と呼んだものの実態ですわ)


「……これは、明白な横領ですな。伯爵、弁解の余地はありますまい」


同席していた財務官が冷たく呟く。父は、その場にくずおれた。継母は「そんな……」と口を覆って、もはやアンナを見ることすらできない。


そして。私は、真っ青な顔で立ち尽くす元婚約者に向き直った。


「ヴィンセント・エアハルト様」

「ひっ……!」

「あなたは、私という婚約者がいながら、病弱と偽る義妹と密会を重ねていらっしゃいましたわね」


私は、第三の証拠――ユージン様の情報網を借りて掴んだ、二人の密会の詳細な記録――を、大広間の床に叩きつけた。


「婚約者である私を欺き、その財産であるミルフォード商会を横領する義妹(アンナ)と不貞を働く……これは『インサイダー取引』ならぬ『不貞取引』とでも呼びましょうか?」

「こ、こんな……こんな紙切れが証拠だと!? 私は侯爵家の跡継ぎだぞ! 公爵、あなたもこの女に騙されている!」


ヴィンセントが虚勢を張って叫んだ、その時。ユージン様が、冷たく一言、付け加えた。


「その記録は、我が公爵家の情報網が精査したものだが、エアハルト侯爵家は、それに異議を唱えると?」


ヴィンセントは、公爵の言葉に、絶望の表情でわなわなと震えるだけだった。


(最後の仕上げ。共犯関係の暴露……ヴィンセント、あなたは見抜けなかった。私という優良資産(婚約者)の価値も、アンナという不良債権(詐欺師)のリスクも)


すべての証拠が、白日の下に晒された。会場の貴族たちは、ようやく「真実」を理解した。


「なんてことだ、我々は騙されていた」

「ミルフォード嬢こそが被害者だったとは」

「あのアンナとかいう娘、悪魔だわ」


今まで「可哀想な病弱の妹」と見ていたアンナが、実は仮病を使って姉の資産を食い物にする強欲な女であったこと。「薄情な姉」と見ていたアデリーナこそが、家族全員から虐げられ、すべてを奪われ続けてきた、唯一の被害者であったこと。その劇的な「認識の逆転」に、会場は驚愕と、そしてアンナたちへの侮蔑の視線で満たされた。


「ミルフォード伯爵家は、商会資産横領の罪で、爵位剥奪も免れまい」

「エアハルト侯爵家も終わりだ。あんな破廉恥な跡継ぎでは……」


ミルフォード家とヴィンセントの家の社会的信用は、この瞬間、完全に失墜し、その没落が決定した。


(……ふう)


わたし(レイナ)は小さく息をついた。これで、私の人生(ポートフォリオ)を汚染し続けていた、すべての不良債権の処理が完了した。


「不良債権の処理、これにて完了ですわ」


私の小さな宣言は、静まり返った会場に、不思議なほどよく響いた。


その時だった。ずっと私の傍らで静観していたユージン様が、一歩前に進み出た。彼は、没落の未来を決定づけられた家族たちには一瞥もくれず、私の前に進み出ると、その場に、スッと跪いた。


「……ユージン、様?」


公爵家当主の、ありえない行動に、貴族たちが再び息を呑む。


(これは……計算外だ。彼の行動は、合理的な投資家のそれではない。これは……)


わたし(レイナ)の思考が、初めて「感情」によって揺らぐ。


(この行動(パフォーマンス)による、(公爵)へのリターンは? (アデリーナ)への信用補完? いや、それだけではない。この熱を帯びた目は……)


彼は、私の手を取り、その甲に恭しく口づけをした。


「アデリーナ嬢。その見事な経営の手腕、確かに拝見した」


彼は、私だけを見上げ、情熱的な眼差しで、こう言った。


「ついては、私という『最優良資産』と、未来永劫のパートナーシップ……つまりは、婚約を結んでいただくことは可能だろうか?」


不良債権をすべて処理し、最優良資産からの、最高の合併(M&A)の提案。投資家(レイナ)として、これ以上の「利益確定(ハッピーエンド)」があるだろうか。


私は、アデリーナ・ミルフォードとして、今、人生で初めて、心からの笑みを浮かべた。


「――喜んで、ユージン様」


◇ ◇ ◇


それから、数年後。ミルフォード商会は、公爵家の後ろ盾とわたし(レイナ)の経営手腕により、「クローフォード=ミルフォード商会」として、大陸でも有数の大商会へと成長していた。私は公爵夫人として、そして大商人として、多忙な日々を送っている。


「アデリーナ、また帳簿か。少しは私のことも見てくれないと、嫉妬で暴走するかもわからんぞ?」

「あら、ユージン様。あなたは私にとって『安全資産(リスクゼロ)』ですから、放っておいても大丈夫ですわ」

「それはどういう意味だ!」


拗ねながらもどこか楽しそうな彼に、私はそっと寄り添う。


「ですが、私にとって最も価値のある『中核資産(コア・アセット)』ですわ。誰にも渡しません」


私を世界で一番愛してくれる夫をあしらうのは、もはや日課になっていた。


一方。没落した父、継母、アンナ、そしてヴィンセントは。爵位も家も失い、今は王都の片隅にある小さな家で、細々と暮らしている。いまだに「お前のせいだ」「いや、お前が悪い」と互いを罵り合っていると聞く。彼らが最低限の生活を送れているのは、私が「施し」を与えているからだ。だが、それは情けや家族愛などではない。


(彼らを生かす維持費(コスト)と、彼らの逆恨み(リスク)を比較衡量した、合理的な判断)


彼らは、私にとって、二度と利益を生むことのない「塩漬け資産」なのだから。私は、過去という名の不良債権を振り返ることなく、未来の利益だけを見つめて、今日も新しい事業計画書にペンを走らせるのだった。

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逆恨みをする塩漬けなんか損切り(物理)でいいのでは。獣でも野盗でも、いくらでも処分出来るでしょうに。 ところで横領の返還、不貞の慰謝料はしっかりぶんどったのかな? 商会の資産で揃えた趣味の品も、処分し…
>「クローフォード=ミルフォード商会」 長ったらしいから共通部分を取って素直に「フォード商会」にすればよかったのにー。 あと公爵様に婚約者や妻がいないのはちょっとご都合主義だなと思いました。
損切りじゃなく、塩漬けになったのか。 まぁ、しゃーなし
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