悪評と風評被害
ミルフォード商会の黒字転換は、わたしの計算通り、順調に進んでいた。だが、その流れを堰き止めたのは、市場の合理性ではなく、貴族社会という閉鎖的なコミュニティ特有の「非合理な感情」だった。
「アデリーナ嬢が、病弱な妹アンナ様の治療費を横領した」
「その汚れた金を元手に、商売を始めたらしい」
「家族愛も知らない冷血令嬢の作る商品など、不愉快だわ」
アンナとヴィンセントが仕掛けた「悪評」は、瞬く間に貴族社会を駆け巡った。彼らにとって、噂の真偽などどうでもいい。必要なのは「分かりやすい悪役」と「可哀想な犠牲者」という構図だけだ。
(……なるほど。これが風評被害か)
わたしは冷静に状況を分析する。信用こそがビジネスの根幹である貴族社会において、これは最も効果的な攻撃手段の一つだ。
(非合理的だが、影響は大きい。キャッシュフローが悪化する前に、対策を打たねば)
案の定、影響はすぐに出た。あれだけ活気のあった商会から、客足がぱったりと途絶えた。届くのは、注文書ではなく、キャンセルを告げる手紙の束。
「ミルフォード商会のクリームだが、妻が使うのを嫌がってね。悪いが、注文はキャンセルさせてくれ」
「うちもだ。あんな噂のある商会と取引していると、こちらまで悪く言われかねん」
昨日まで絶賛の声を寄せていた貴族たちが、手のひらを返したように取引の停止を申し入れてくる。
静まり返った店内で、番頭が深いため息をついている。
「お嬢様……せっかく、ここまで来たというのに……」
一度希望を知ってしまった分、従業員たちの絶望は、以前よりも深かった。
「お嬢様、どうかなさるのですか!?」
「このままでは、またあの頃に……!」
職人たちが、不安げに私に詰め寄る。
(次の手をどう打つか。噂の出所を直接叩くか? いや、逆効果か……)
私が対策案を練っていた、その時だった。ユージン・クローフォード氏が、何の予告もなく商会を訪れた。
「……アデリーナ嬢。少し、厄介なことになっているようだね」
彼はすでに事情を把握しているようだった。彼は私を伴うと、王都の商人ギルド――彼が取引している大口の商人たちが集まる会合――へと向かった。
会合の場で、商人たちの一部がユージンに不安を訴えた。そこは貴族のサロンとは違い、葉巻の煙と、男たちの欲望の匂いで満ちていた。
「クローフォード様。例のミルフォード商会の件ですが……我々も取引を見直した方がよろしいのでは?」
「貴族様方を敵に回しては、商売が……」
ユージンは、その不安を一蹴するように、静かに、しかしはっきりと公言した。
「諸君。我々は商人だ。憶測や感情で判断を誤ってはならない」
彼は集まった商人たちを見渡し、告げた。
「ミルフォード商会の新商品は『優良』だ。そして、アデリーナ嬢は類稀なる才覚を持っている……くだらない噂を信じて、その優良な取引先を失うのは、経営判断として『悪手』ですよ。私は、彼女への投資を引き続き拡大する」
(見事なマーケットコントロール。噂を遮断し、自身の信用を担保に、市場のパニックを鎮静化させた)
王都随一の大商人であるユージンが、自らアデリーナの信用を「担保」すると宣言したのだ。商人たちは顔を見合わせ、すぐにそろばんを弾き直した。貴族の噂と、ユージンとの関係悪化。後者の方が、彼らにとっては遥かに致命的だ。商人たちの間のパニックは、ユージンの鶴の一声で、ひとまず鎮火された。
商会への帰り道。私は馬車の中で、ユージンに礼を述べた。車内には、彼の纏う、異国の革と香辛料の落ち着いた香りが満ちている。
「……ありがとうございます、クローフォード様。あなたまで、悪評に巻き込むところでした」
「礼には及ばん。私は合理的に投資判断をしたまでだ」
彼はそう言うと、私を真正面から見つめた。
「それより、アデリーナ嬢。一つ、不思議に思わなかったかね?」
「と、申しますと?」
「なぜ私が、あの怪しげな薬剤師――アンナ嬢の『美容薬』の仕入れ先――の存在を、知っていたか」
(……!)
確かに。それは、私も疑問に思っていた。一介の商人が知り得るには、あまりに込み入った情報だ。
彼は、王都の夜景を眺めながら、静かに告白した。
「『大商人ユージン・クローフォード』は、私の表向きの顔だ」
「……え?」
「私の本来の肩書きは、ユージン・クローフォード公爵――王家の次に、この国で広範な情報網を持つ家の当主だ」
――公爵。
私は息を呑んだ。彼がただの大富豪ではなく、この国の最高権力者の一人だったとは。
(どうりで……。初対面の伯爵令嬢である私に対しても、あの堂々とした態度だったわけだ……公爵。なるほど、最大のリスク要因に対する、最大の安全資産か)
すべてが腑に落ちた。
ユージン――いえ、ユージン様は、私に向き直ると、悪戯っぽく笑った。
「君という『最優良投資先』を、悪質な風評被害ごときで失うわけにはいかない……私が、全力で君を守る」
初めて聞く、強い言葉。アデリーナとしての心が、一瞬、戸惑うように揺れた。
(……いや、これは取引だ。彼は私という投資先の価値を守ろうとしているだけだ)
わたしの思考が、即座に感傷を打ち消す。
(だが、なぜだろう。彼の言葉は、父やヴィンセントのそれとは、全く違う気がする……)
私の感傷が、消しきれずに燻っている。
彼は、一通の招待状を私に差し出した。王家の紋章が入った、重厚なものだ。
「数日後、王家主催の夜会が開かれる。噂の震源地だ。アデリーナ嬢、私と一緒に出席していただけるかな?」
それは、単なるエスコートの申し出ではない。公爵家当主が、私を公の場で「庇護する」と宣言するに等しい。
(……最大の後ろ盾を得た。これで、戦う舞台は整った)
わたしは即座に損得を計算し、完璧な淑女の笑みでそれを受け取った。
「光栄ですわ、ユージン様。ですが、これは『防衛』ではありません」
「ほう?」
「積極的な『反撃』ですわ」




