新規事業と黒字転換
ユージン・クローフォード氏──最大債権者かつ、現時点での最重要ビジネスパートナー──からの「条件」を受け、私は即座に行動を開始した。彼が指摘した「怪しげな薬剤師」の店は、商会からほど近い、人通りの少ない裏路地にあった。陽が差し込まない薄暗い路地には、生ゴミの腐ったような匂いと、何の匂いともつかぬ酸っぱい悪臭が微かに漂っている。
(……なるほど。人目を忍んで取引するには最適な立地ね。逆に言えば、真っ当な商売をしているとは到底思えない)
私がミルフォード商会の──唯一残っていた、最も古い──馬車から降り立つと、薄汚れた店の奥から、痩せた中年男が胡散臭そうに顔を出した。薬草を煮詰めたような、甘ったるい匂いがする。
「おや、これはご立派な馬車で。どちら様……」
「ミルフォード商会の取引先ですね。アデリーナ・ミルフォードと申します」
私が商会主として名乗ると、薬剤師はギョッとした顔をした。脂汗が額に浮かんでいる。
「ミ、ミルフォード商会といえば、伯爵様が……」
「父は隠居いたしました。本日付で、私が新しい商会主です」
私は単刀直入に本題を切り出した。
「つきましては、本日をもって、あなたとの取引は一切を停止させていただきます」
「なっ……!?」
薬剤師の顔が、一瞬で青ざめた。ミルフォード伯爵家は、彼にとって最大の「大口顧客」だったのだろう。
「お、お待ちください、お嬢様! そ、そんな急な……! では、あのお薬は!? アンナ様がご病気だと……! まさか、あ、あの薬は、治療薬ではない、と……!?」
――今、言ったわね。わたしはその致命的な失言を逃さなかった。アデリーナとしての淑女の笑みを貼り付けたまま、投資家としての凍るような威圧感を込めて、一歩、彼に詰め寄った。
「……治療薬では、ない? 一体どういう意味ですの?」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「ひっ……! い、いえ、それは……その、言葉のあやで……」
「すべて『情報開示』していただきましょうか。あなたには『守秘義務』がございますが、商会主である私に開示するのは当然の『義務』ですわよね?」
わたしが前世で何度も使ったその言葉に、薬剤師は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。観念した彼が、店の奥から震える手で持ってきたのは、小さな小瓶だった。請求書には「アンナ様の特効薬」と書かれていた、その中身。
「こ、これは……その、高価な美容薬でして……」
「美容薬?」
「は、はい。肌の艶を良くし、血色を良く見せ……その、ご婦人によっては、媚薬のような効果もあると……」
(……なるほど。そういうこと)
これで、全ての「点」が「線」で繋がった。アンナの病弱は「仮病」。父は商会の金を横領し、義妹の「美容と色香」のために、この高価な薬──という名の媚薬──を買い与えていたのだ。あの不自然な高額計上も、アンナの薬に対する私の微かな疑問も、すべてが解決した。
(くだらない。実に非合理的な「詐欺」だわ)
私はアデリーナとしての怒りよりも、レイナとしての呆れと軽蔑を強く感じていた。
「……分かりました。では、『証拠』をいただきましょう」
「えっ?」
「あなた、今、重大な『守秘義務違反』をしましたわね? 私がこれを父、ミルフォード伯爵に告げ口したら、あなたは王都で商売ができなくなりますが」
「そ、それはご勘弁を!」
「であれば、これまでのミルフォード商会との全取引記録……父が『何』を『いくらで』購入したかの全記録を、今すぐこちらへお渡しなさい。それが、あなたの『リスクヘッジ』ですわ」
薬剤師は真っ青になりながら、店の奥へと走り、埃まみれの台帳を私に差し出した。私はそれをひったくると、馬車に乗り込み、商会へと戻った。
(これで『父の横領』と『アンナの詐称』の物的証拠は揃った。交渉材料としては十分すぎる)
商会に戻った私は、即座に改革を断行した。まずは、キャッシュフローの確保だ。
「この壺も、あの絨毯も、こちらの使途不明な装飾品も、すべて売却します」
「お、お嬢様! そ、それは伯爵様がご趣味で集められた……!」
番頭が、長年の癖で父を庇おうとする。
「『父の道楽品』ですね。分かっています。新興商人に『ミルフォード伯爵家・御用達(訳あり品)』として高値で売り捌きます。彼らは『伝統』に飢えていますから」
次に、新規事業の立ち上げだ。
(この世界の衛生観念は低い。石鹸はあるが、獣脂の匂いがきつく、大きなかたまりを切り分けて使うスタイルで、持ち運びにも不便……)
私は前世の化学の知識──学校で学んだ程度であり専門家ではないが、この世界の技術レベルと比べれば大きなアドバンテージだ──を使い、商会の職人たちに指示を出した。
「番頭、職人を全員集めて。実演します」
職人たちは、埃っぽい作業場で、ご令嬢の「道楽」が始まったと、冷めた目で私を見ていた。専門家でないからと、なめないでもらいたい。石鹸のハンドメイドは、わたしが前世で入れ込んだ趣味の一つだ。
「温度管理をあと5度下げて。香料はこの比率で配合を。ラードではなく、オリーブ油を基材にします」
「お嬢様、何を馬鹿な! 石鹸は獣脂で作るもんです! オリーブ油なんてもったいない!」
一番古株の職人が、露骨に反発する。
「あなたの経験則は貴重ですわ。ですが、この配合比率と、私の計算が導き出す結果を見てから判断しても、遅くはありませんわよね?」
「……な、なんだ、そりゃ……」
「コスト計算と、最適な化学反応式です。あなたの経験則は、私の計算に勝てますの?」
最初は「ご令嬢の道楽だ」と懐疑的だった職人たちが、私の的確な指示と、試作品の質の高さに「お嬢様、これは……!」「すごい、香りが全く違う!」「泡立ちが、別物だ……」と目を輝かせ始めた。彼らの目に、諦めではない、「誇り」の光が戻ってくる。
私たちは、携帯可能で、香りの良い「固形石鹸」。そして、薬剤師から(脅して)聞き出した美容薬のレシピを参考に、不純物を取り除いた、高品質な「美容クリーム」を開発した。
それらをユージン・クローフォード氏の販路に乗せてもらうと、新商品は瞬く間に王都の女性たちの心を掴んだ。
「ミルフォード商会の石鹸は、香りが良くて手が荒れない!」
「あのクリームを使ったら、肌が見違えるようだわ!」
口コミは広がり、商会は活気を取り戻した。埃っぽい店は磨き上げられ、従業員たちの声も明るくなった。
「お嬢様! 材料の仕入れが、追いつきません!」
番頭が、涙ぐみながら嬉しい悲鳴を上げた。あれほど傾いていた商会は、わずか一ヶ月で、見事に黒字転換を果たしたのだった。
◇ ◇ ◇
一方。その頃、ミルフォード伯爵家は、急速に困窮していた。アデリーナという「財布」、そして商会からの「横領金」が途絶え、アンナの高価なドレスも、父の道楽品も、継母の開く贅沢な茶会も、すべてが維持できなくなったのだ。暖炉にくべる薪さえ節約し、屋敷は凍えるように寒々しい。
「どういうことなの、お兄様! あのアデリーナが、私のお金を持って逃げるなんて!」
アンナは、もはや仮病を演じる余裕もなく、ヒステリックに叫んでいた。その隣で、ヴィンセント・エアハルト侯爵子息も、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
彼は、聞いていた。自分が「損切り」と訳の分からない言葉で捨てたアデリーナが、今や「ミルフォード商会の若き女主人」として、王都中の噂になっていることを。そして何より、あの王都一の大富豪、ユージン・クローフォードが、公私にわたって彼女の後ろ盾となっていることを。
(あの女が……あの、私に「待て」とだけ言わせていた、地味で、何の取り柄もない女が、クローフォード氏の覚えめでたいだと……!? なぜだ? 私が気づかなかった『価値』が、あの女にあったとでもいうのか?)
嫉妬と、自分が「優良な資産」を手放してしまったという、耐え難い後悔が、ヴィンセントの胸を焼いていた。
「このままじゃダメよ、お兄様!」
追い詰められたアンナが、ヴィンセントに泣きつく。
「あのお金は、もともと病弱な『私』のために使われるはずだったもの! アデリーナ姉様が、妹の治療費を横領したのよ!」
その言葉に、ヴィンセントはハッとした。
「……そうだ、アンナ。それだ」
(それだ! アデリーナは『家族愛のない冷酷な女』ということにすればいい。世間は、病弱な妹より、冷たい姉を叩くものだ)
二人は、互いの顔を見合わせ、卑劣な笑みを浮かべた。
「アデリーナが、病気の妹の治療費を横領し、その金で悪質な商売を始めた」
――その悪評を貴族社会に流せば、アデリーナの信用は失墜し、商会もろとも社会的に潰せるはずだ。彼らは、自分たちの失地回復のため、共謀して動き出した。




