新規投資先との出会い
ヴィンセントをその場に放置し、夜明け前の王都を私は馬車で駆けていた。古い馬車だ。ミルフォード伯爵家の紋章は入っているが、私が家を出ることを唯一手伝ってくれたあの老侍女が、馬丁にこっそり頼んで用意してくれた、裏口用の荷馬車に近いものだった。それでも、私にとっては公爵家の立派な馬車より価値があった。
石畳を叩く馬蹄の音だけが、静かな街に響いている。ガス灯の明かりが消え始め、東の空が白み始めていた。パン屋から漂う焼きたての小麦の香りが、昨日までの伯爵家の淀んだ空気――古い家具の埃と、継母の香水と、父の葉巻の匂いが混じった、あの息苦しい空気とはまったく違う、新しい世界の匂いのように感じられた。
(これが、自由)
アデリーナとしての私は、夜明けの冷たい空気に、小さく身を震わせた。
(違う。これは『独立』だ。感傷に浸るな。これからが本番だ。戦場は待ってはくれないぞ、アデリーナ)
レイナの思考が、即座に感傷を補正する。
向かう先は、母の唯一の遺産、「ミルフォード商会」。伯爵家を「損切り」した今、私に残された唯一の「資産」だ。
王都の外れ、商人地区の一角。貴族街の整然とした美しさとは無縁の、活気と、埃と、家畜の匂いが混じり合う場所。久しぶりに訪れたミルフォード商会は、私の記憶にあるよりもずっと寂れていた。看板の「ミルフォード」の文字は掠れ、ショーウィンドウには埃が積もっている。父の放漫経営の「成果」が一目でわかった。
重い木製の扉を開けると、キィ、と錆びた蝶番が悲鳴を上げた。カビ臭い空気と、古い木材の匂い、そして染料の微かな酸っぱい匂いが混じり合って、鼻をつく。
(……ひどい有様。典型的な経営不振ね。だが、立地は悪くない。建物自体もしっかりしている。技術さえ残っていれば……)
私が重い扉を開けると、カウンターの奥で居眠りをしていた古参の番頭が、飛び起きた。「ひゃあ!……あ、アデリーナお嬢様? このような朝早くに、一体……」番頭は、怪訝な顔で私を迎える。その目には、長年の疲労と、すべてを諦めたような濁った色が染み付いていた。他に数人いる従業員たちも、覇気がなく、死んだ魚のような目をしている。
私はトランクを床に置くと、彼らに向かって、投資家としてではなく、新しい経営者として、静かに宣言した。
「皆様、おはようございます。本日付で、私がこのミルフォード商会の新しい商会主となりました、アデリーナ・ミルフォードです」
しん、と空気が凍りついた。番頭は、私の言葉の意味を理解した瞬間、絶望に顔を歪めた。
(ああ、終わった。伯爵様の道楽経営が、今度はご令嬢に代わっただけだ。もう、この商会も終わりだ……)
――彼の心の声が、聞こえるようだった。他の従業員たちも、深いため息をつき、露骨に顔を伏せた。
(当然の反応ね。信用はゼロからのスタート……いえ、マイナスからのスタートだわ)
私は動じない。
「まずは現状の資産と負債を正確に把握します。番頭、在庫リストと直近の取引先台帳を」
「は、はあ……しかし、お嬢様……」
「今すぐ」
私の冷たい声に、番頭は怯えたように肩をすくめ、埃だらけの台帳を持ってきた。私が父の帳簿と突き合わせを開始しようとした、その時だった。
ガラン!と、店の扉が、今度は先ほどよりずっと乱暴に開けられた。
「ごめんする。ミルフォード商会の主はいるかな?」
まるで嵐のように入ってきたのは、上質な黒のコートを羽織った、長身の男だった。精悍な顔立ち。鋭いが、どこか余裕を感じさせる瞳。上質なウールのコートからは、微かに異国の革と、高価な香辛料の匂いがした。番頭が「ひっ」と息を呑み、慌てて駆け寄った。
「ク、クローフォード様! これはご自ら……! あ、あの、お支払いの件でしたら、今、伯爵様が……」
(クローフォード?)
その名前に、わたしの記憶が反応する。帳簿で何度も見た名前だ。ユージン・クローフォード。王都で今最も羽振りの良い大商人であり、同時に、このミルフォード商会にとっての「最大債権者」だ。
(まずいタイミング。最大の債権者が、経営者交代を嗅ぎつけて、債権回収に来たわね)
私は即座に臨戦態勢に入った。
ユージンと名乗った男は、怯える番頭を値踏みするように一瞥すると、私を見て、冷ややかに口の端を吊り上げた。
「……ほう。新しい商会主とは、伯爵令嬢ご本人でしたか。父上の放漫経営の尻拭いを、今度はお嬢様が道楽で?」
その冷たい声が、埃っぽい店内に響く。彼は私に一歩近づくと、一枚の紙――請求書を突きつけた。
「単刀直入に言いましょう。ミルフォード商会が抱えている当方への買掛金、その全額の即時返済を要求します」
番頭が「そ、そんな……!」と青ざめる。従業員たちも「もはやこれまでだ」と顔を覆った。倒産寸前のこの商会に、そんな資金があるはずもない。
だが、わたしは動じなかった。この程度の資金ショートなど、前世で何度も経験している。
「クローフォード様、とおっしゃいましたか」
私は彼から請求書を受け取ると、冷静に数字を検め、そして言い放った。
「即時返済は、お断りします……いえ、正確には、債権者であるあなたにとっても、それは『悪手』ですわ」
「……何?」
ユージンの眉がピクリと動いた。私は、父の帳簿と、今しがた手に入れた在庫リストを、彼の眼前に広げてみせる。
「ご覧ください。この商会は確かに『赤字』です。ですが、それは『キャッシュフローの問題』であって、『資産価値の問題』ではありません」
私は、前世の知識を、この世界の言葉に置き換えて、即興で「事業再生計画」をプレゼンしてみせる。
「まず、こちらの不良在庫。父の道楽品である壺や絨毯ですね。これらは、従来の貴族ルートではなく、箔が欲しい成り上がりの新興商人にマーケットを変えて即時処分します」
「ほほう?」
「次に、この帳簿の不明瞭な支出――例えば、この『アンナの薬代』は、即刻カットします」
「なるほど……」
「そして、この商会の持つ染色と縫製の技術。これこそが、この商会の『中核資産』です。この技術を応用し、従来の貴族令嬢向けではなく、一般富裕層に向けた実用的な新商品を開発します」
私は淑女の笑みを浮かべ、わたしは投資家の目で彼を射抜いた。
「私に三ヶ月の猶予を。そうすれば、この商会は黒字転換し、あなたの債権は全額、利子をつけて回収可能となります……しかし、今ここでこの商会を潰せば、あなたは債権の十分の一も回収できませんが? それは、あなたほどの商人が望む『リターン』とは思えませんわ」
ユージンは、目を丸くして私を見ていた。彼が驚いているのは、再建案そのものよりも、この世界の貴族令嬢が決して口にしないような経営理論と、大商人である彼を前にしても一歩も引かない私の胆力に対してだろう。彼の目に、私を「世間知らずの伯爵令嬢」としてではなく、「取引相手」として見る光が宿る。
やがて、彼は喉の奥で、くつくつと笑い出した。
「……面白い。実に、面白い」
彼の瞳から、先ほどの冷ややかな色が消え、まるで極上の宝石でも見つけたかのような、熱を帯びた光が宿っていた。
「いいだろう。アデリーナ嬢。君という『投資先』に、私は賭けてみよう」
彼は再建案を承認すると、帳簿の一点を、長い指でトン、と叩いた。
「ただし、条件がある」
彼の指が示していたのは、父が「アンナの薬代」として異常な高額支出を続けていた、あの取引先だった。
(……なぜ彼が、父の帳簿にしか載っていないはずの、一介の薬剤師の存在を? 情報源は?)
私は微かな疑問を抱きながら、彼の次の言葉を待った。
「この怪しげな薬剤師との取引を、即刻停止しろ。あれは碌なものではない」




