覚醒と損切り
(――評価損。典型的な不良債権だ)
頭に響いた冷徹な声。それは誰のものでもなかった。それは、私だ。アデリーナ・ミルフォードではない、前世の私。
――霧島レイナ。二十一世紀の日本で、冷徹無比な敏腕投資家と呼ばれた女。その記憶が、濁流のように私の中へ流れ込んでくる。
ガラス張りの高層ビル。無数の数字が点滅するモニター。スマートフォンに叩きつける指先。株主総会での罵詈雑言。「結果がすべてだ!」。胃に流し込む、苦いだけのコーヒー。睡眠不足の常態化した頭痛。そして、あらゆるものを「価値」と「リスク」と「リターン」で判断する、鋼鉄の思考。
私は絶望で震え、わたしは「秒で」状況を分析する。
激しい頭痛と眩暈。二つの人格が、一つの器の中でぶつかり合い、火花を散らす。
(やめて、そんな、お父様なのに、家族なのに)
アデリーナの心が、悲鳴を上げる。
(甘ったれるな。その感傷が、お前の人生をゴミ同然にしている)
レイナの思考が、即座にそれを一蹴する。
(母の形見? 違う。それはお前に遺された唯一の『資産』だ。それを感情論で手放すなど、投資家として万死に値する)
(でも、アンナは病気で……)
(それがどうした? 『病弱』という定性的な情報に惑わされるな。あの女がこの家にもたらしているのは、キャッシュの流出だけだ──家族という名の『しがらみ』が、お前の資産を食い潰しているんだ。これは『家族』ではない。『負債』だ)
混乱は、一秒では収束しなかった。アデリーナの十八年分の忍耐と、レイナの三十年分の冷徹な理性が、激しくぶつかり合い、私の意識を焼き切ろうとする。だが、決着は明らかだった。アデリーナの柔らかな感情は、レイナの冷徹な理性に飲み込まれ、そして融合した。悲しみや絶望は消えない。だが、それはもはや私を縛る鎖ではなく、行動の「原動力」へと変換された。
(目の前で感情的に怒鳴り続けるこの男は「父」ではない。合理的な対話が不可能な「負債だ。病弱を盾にコストだけを垂れ流す義妹は「家族」ではない。即刻切り捨てるべき「不良資産」だ。わたしを「待たせて」おきながら、義妹に現を抜かす婚約者は「恋人」ではない。リターンが一切見込めない「リスク要因」だ)
やることは、一つ。損切り。これ以上、私の価値ある資産を、この赤字垂れ流しの連中によって毀損させるわけにはいかない。
「アデリーナ! 聞いているのか! 姉のお前が!」
父がまだ何か喚いている。私はゆっくりと顔を上げ、彼の言葉を、氷のように冷たい声で遮った。それは、アデリーナが一度も出したことのない、低く、静かで、揺るぎない声だった。
「お静かになさってください、お父様」
父の金切り声が、ピタリと止まった。彼は、まるで見たこともない怪物でも見るかのように、目を白黒させている。暖炉の炎がパチリと爆ぜる音だけが、異様な静寂に響いた。
「……な、なんだ、その口の利き方は。アデリーナ、お前、どうかしたのか」
「その件、お断りします」
私は即答した。
「『ミルフォード商会』を担保に入れることは、このアデリーナ・ミルフォードが許可しません」
「なっ……お、お前ごときに許可など! 親である私が決めればいいことだ!」
「必要です」
私は一歩も引かない。前世の記憶が、私に確固たる「根拠」を与えてくれていた。
「母の遺言状は、王家の書庫に公正証書として保管されております。その内容は『ミルフォード商会の全権は、長女アデリーナが成人した時点で、その一切を譲渡する』というもの」
父の顔が、怒りから驚愕に、そして絶望へと変わっていく。
「私は今年で成人。つまり、あの商会の所有権は、法的に、完全に、私にあります。お父様には担保にする権利も、ましてや経営権も、一切ございません。確認なさいますか?」
父は「あ、あ……」と口をパクパクさせている。
(感情論で法的根拠を覆せると考える。典型的な、リテラシーの低い経営者の末路ね)
私は彼に、投資家が債務不履行寸前の相手に向ける、冷たい視線を送った。
「つきましては、即時、商会の帳簿と鍵を、こちらへお渡しください」
「き、貴様あっ! この恩知らずが!」
父は激怒し、書斎の重いインク壺を掴んだ。紫色のインクが、中でタプンと揺れる。だが、わたしは動じない。
(インク壺……無駄ね。彼は投げられない。投擲する胆力より、高価なインク壺を失う損失を恐れるタイプだ)
前世では、逆恨みした投資先の社長にナイフを向けられたことすらあるのだ。それに比べれば、インク壺など文房具にすぎない。私が一歩も引かぬ気迫で彼を睨めつけると、父は「ひっ」と短く喉を鳴らし、振り上げた腕を、力なく下ろした。
彼は私を睨みつけながらも、不承不承、書斎の金庫から分厚い帳簿数冊と、古めかしい鍵束を私に投げ渡した。私はそれを礼も言わずに受け取ると、自室に戻った。この家はもう「破綻」している。一刻も早く脱出しなければ、私もろとも共倒れだ。
北向きの寒い自室で、私は侍女に手伝わせるのももどかしく、自分でトランクを開いた。あの古い侍女は、私の豹変ぶりに戸惑いながらも、そのテキパキとした指示に従ってくれた。
「お嬢様、どちらへ……?」
「新しい『職場』よ。もう、ここにはいない」
「ですが……!」
「大丈夫。あなたは、私が必ず迎えに来ます。わたしは、有用な資産を決して見捨てない」
「お、お嬢様……?」
戸惑う彼女に「必ず」とだけ重ねて、私は荷造りを続けた。
クローゼットに並ぶ、色とりどりのドレス。アンナが来てから、父にねだって買ってもらったフリルの多いピンクのドレス。
(似合わないと知っていた。けれど、父が「アンナとお揃いだ」と喜ぶから、無理に笑って「ありがとう」と言った)
(劣悪なシルク。デザインも稚拙。資産価値、ゼロ。廃棄)
あの観劇のために用意した、母の形見の青いベルベットのドレス。
(これを着て、ヴィンセント様と……もう、あの人との約束は、ないのね……)
(最高級のベルベット。仕立ても良い。だが、今は不要。売却してキャッシュ化すべきだが……)
冷たい銀の感触が指に伝わった時、アデリーナの心が「お母様……」と小さく震えた。
(……非合理的な感傷。だが、現時点での精神的安定の維持コストとしては許容範囲内か。これは持っていく)
最低限の着替えと、実母の小さなペンダントだけを詰める。そして、先ほど確保した商会の帳簿を開いた。インクとかびの匂いがする古いページを、レイナの目で高速でめくっていく。
(……ひどい。典型的なドンブリ勘定だわ)
父の放漫経営の痕跡が一目でわかる。仕入れと支出のバランスが、明らかに崩壊している。そして、私はある項目に目を留めた。支出の欄に、ここ数年、毎月のように続く「アンナの薬代」という記載。そのどれもが、異常な高額で計上されている。
(……おかしい。同じ薬剤師から、毎月、ほぼ同額。まるで定期購入だ。本当に病状に合わせて処方しているなら、薬の種類や金額は変動するはず。これは……)
わたしの口元が、皮肉な笑みに歪んだ。
(なるほど。これは典型的な『架空経費』ね……商会の金を横領して、義妹に貢いでいた、というところかしら)
不良債権どころではない。これは「犯罪」だ。
私は帳簿をトランクに詰め、最小限の荷物だけを持って部屋を出た。もう、一秒たりとも、この負債だらけの家にいるつもりはなかった。
屋敷の広大な玄関ホール。夜のしじまに、大理石の床に私のブーツの音だけが響く。正面の扉を開けようとした、その時だった。
「待て、アデリーナ!」
背後から、私を呼び止める焦った声。振り向くと、そこにはヴィンセント・エアハルト侯爵子息が、血相を変えて立っていた。アンナが泣きついて、私を引き止めるよう頼んだのだろう。
「何を考えている! その荷物はなんだ!」
彼は、私を詰問する権利が自分にあると信じて疑っていない。
「アンナが、君のせいで悲しんでいる! 今すぐ部屋に戻って、あの子に謝罪しろ!」
(……ああ、そうだ。最後の不良債権の処理が残っていた。わたしが、なぜ第三者の感情コストまで負担せねばならない? 不合理にもほどがある)
私は彼を、値踏みするように一瞥した。家柄は良い。顔も良い。だが、中身は空っぽだ。義妹の涙という感情論に振り回され、私という婚約者の価値を見抜けなかった、愚かな男。投資価値、ゼロ。
私は、アデリーナ・ミルフォードとして、淑女の完璧な笑みを深く、深く、浮かべた。
「ヴィンセント様。ごきげんよう」
「な、なんだ……? こんな夜更けに、ふざけているのか!」
私の冷徹なまでの落ち着きに、彼は戸惑いを隠せないでいる。
「いいえ、ふざけてなど。ただ、最後の『業務報告』をと思いまして」
「業務報告……?」
「あなたとの婚約も、本日をもって『損切り』させていただきますわ」
「……は? そん、ぎり?」
彼がその言葉の意味を理解する前に、私は彼に背を向けた。
「待て! アデリーナ! 何を言って……!」
彼が私の腕を掴もうと手を伸ばす。私はそれを振り向きもせずに躱し、冷たく言い放った。
「『損切り』ですわ。これ以上、あなたという『価値下落資産』を持ち続けるのは、私にとってリスクでしかありませんので」
「か、価値……? 資産……?」
呆然と立ち尽くす元婚約者を置き去りにして、私はミルフォード伯爵家の重い扉を、自らの手で開けた。
ひやり、と冷たい夜気が、私の頬を撫でる。それは、あの息苦しい屋敷の空気とは全く違う、自由の匂いがした。私は外の世界へと、確かな一歩を踏み出した。




