不良債権の顕在化
「アデリーナ、アンナの薬湯が冷めてしまうわ。何をぐずぐずしているの。早く運んでちょうだい」
「アデリーナ、アンナが退屈しているようよ。お前の刺繍など後にして、何かお話を読んであげて」
「アデリーナ、アンナが少し肌寒いと言っているわ。お前のショールを持ってきて」
ミルフォード伯爵令嬢である私、アデリーナ・ミルフォードの日常は、義妹アンナのために「我慢」し、「待つ」ことで構成されている。私の時間は、私のものですらない。病弱だという義妹がこの家に来てから、父と継母の愛はすべてアンナに注がれた。私は「お姉様」なのだから、すべてを譲り、耐え忍ぶことが当然とされてきた。
それは、もう何年になるだろう。アンナがこの家に来たのは、私が十歳の時。実の母が亡くなって二年、父が後妻として継母を迎え、その連れ子としてアンナはやってきた。最初は、私も「妹」ができることが嬉しかった。だが、継母は言った。
「アンナは身体が弱いの。お姉様のアデリーナが、守ってあげてね」
その言葉は、呪いになった。
窓辺の席。それが、この広大な屋敷の中で唯一、私に許された「私の場所」だった。北向きの廊下の突き当たりにある、誰も使わない小さな出窓。冷たい窓ガラスに額を寄せると、庭園の芝生を刈る匂いが、微かに風に乗って届く。
ようやく開くことができた、重い植物図鑑のページ。緻密なインクで描かれた薬草のスケッチを指でなぞる、この瞬間だけが私自身の時間だった。指先に残る、乾いたインクと古い紙の匂い。柱時計がカチ、コチ、と無感動に時を刻む音だけが、私の話し相手だ。
私は、アンナのために淹れた薬湯が、銀のトレイの上で静かに冷めていくのを、ただ見つめていた。もう、何度淹れ直しただろう。今朝だけで、三度目か、四度目か。
「……はい、ただいま」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、誰の耳にも届かない。返事を期待されているわけではない。私は静かに図鑑を閉じ、立ち上がった。継母に言われた通り、自室からショールを取ってアンナの部屋へと向かう。自室と言っても、アンナが来てからは、陽当たりの良い主室はアンナに明け渡し、私は北向きの物置同然の部屋を使っているのだが。
冷たい廊下を歩きながら、私は無意識に自分の肩を抱いた。寒い。この屋敷は、いつも私にとって寒い。
今日も今日とて、アンナの「看病」という名の雑用に追われ、陽が傾きかけた頃。玄関ホールがにわかに華やいだ。高い天井に反響する、耳慣れた馬車の音。玄関で馬が「ブルルッ」と鼻を鳴らす音。そして、使用人たちの慌ただしい足音と、継母の弾むような声。
「まあ、ヴィンセント様! ようこそいらっしゃいました! アンナもきっと喜びますわ!」
普段の私に対するものとは十オクターブは違う、媚びるような甘い声。
その名前に、私の心臓が、義務のように小さく、そして愚かにも期待を込めて、トクン、と跳ねた。
ヴィンセント・エアハルト侯爵子息。私の、婚約者だ。
私は慌てて廊下に出た。使い古したエプロンを外し、乱れた髪を手櫛で整える。彼が来たのなら、挨拶をしなければ。
(今日こそは。今日こそは、私と……)
胸に秘めた淡い期待が、冷え切った身体に微かな熱を灯す。
ホールに続く大階段の途中で、私は彼と目が合った。冬の空気を纏って入ってきた彼は、今日も非の打ち所なく整った装いをしている。上質なウールのコート。磨き上げられた乗馬ブーツ。その整った眉が、私を認めた瞬間、不快そうに僅かに寄せられた。彼は私を一瞥すると、すぐに視線を外した。まるで、そこに置かれた埃っぽい調度品か、壁のシミでも見るかのように。
その一瞬で、私の中に灯った微かな熱は、冷たい水でかき消された。
「ごきげんよう、奥様……それで、アンナの様子は?」
彼の声は、焦燥と、隠しきれない心配の色に満ちている。ああ、まただ。息を切らして駆けつけた私への労いも、婚約者としての挨拶もない。彼の焦がれるような視線は、私を常に素通りする。私は、握りしめたショールが手汗でじっとりと湿っていくのを感じながら、一歩一歩、音を立てないように階段を降りた。大理石の床の冷たさが、薄い靴底を通して伝わってくる。
「……ヴィンセント様。ごきげんよう」
彼は、私の声にはっとしたように振り向き、ああ、君か、と言いたげな、迷惑そうな顔を隠そうともしなかった。
「アデリーナか。ちょうどよかった。アンナの様子は? 今日は一日、酷く塞ぎ込んでいると手紙にあってね」
「アンナなら、今はお昼寝を……」
「そうか。起こさないようにしないとな」
彼は私の言葉を遮ると、私という存在を再び透明なものとして扱い、足音を忍ばせてアンナが休んでいる(はずの)隣室へと向かう。私が彼のために用意していた挨拶も、天気の話も、そして、たった一言、「お会いできて嬉しいですわ」という言葉も、すべては彼の広い背中に吸い込まれて消えた。
その背中に、私は何度飲み込んだか分からない言葉を、また喉の奥に押し戻した。
(今日は、二人で観劇に行く、約束の日だったはず)
この数ヶ月、アンナの体調不良を理由に何度も、何度も延期され、ようやく漕ぎ着けた約束の日。私は、今朝、どれほど心躍らせてクローゼットの前に立ったことだろう。母が遺してくれた、深い青色のベルベットのドレス。彼が以前、一度だけ、「君には落ち着いた色が似合う」と言ってくれたから。その一言を、私はどれだけ大切に胸に抱いてきたことか。
それを着ていくのだと、唯一、私の味方でいてくれる侍女と二人で、昨日のうちから準備していたというのに。その侍女は、私と同じように両親から冷遇されている、年老いた女性だ。
「きっとお似合いですわ、お嬢様。旦那様も、見惚れてくださいますとも」
彼女は、皺くちゃの手で私の髪を梳きながら、私以上に喜んでくれていた。
「このドレスは、亡き奥様が、お嬢様のためにあつらえたものですから。奥様も、きっと天でお喜びですわ」
だというのに、彼は私との約束の時刻に、アンナの見舞いのために屋敷を訪れたのだ。私との約束を、忘れたかのように。
やがて、アンナの部屋から「ヴィンセントお兄様!」という甘ったるい声と、わざとらしい咳払いが聞こえてきた……それ、起きていたではないか。私の胸の奥が、チリリと小さく焦げる。
すぐにヴィンセントが部屋から戻ってくる。その顔には、案の定、私に対する「諦めろ」という、うんざりするほど見慣れた色が浮かんでいた。
「すまない、アデリーナ。アンナが、少し咳をしているようだ。私がいなくては不安だと言う」
「……いいえ、ヴィンセント様。アンナは、先ほどまでとても元気に」
「医者がそうは言わなかった。君は医者よりアンナの身体が分かるのか?」
彼は、私の反論を、冷たい正論で捩じ伏せる。
「観劇はまた今度にしよう。可哀想なアンナを放ってはおけないだろう?」
彼は、私が何かを言い返す前に、決定事項として通告する。彼は一度も、私の目を見なかった。彼の視線は、私の頭上、遠くの壁、あるいは床。私という人間を、意図的に視界から排除している。
「君は姉なのだから、待っていればいいだろう?」
――また、だ。
私は姉だから、待つだけでいい。私は姉だから、我慢するのが当然だ。ヴィンセントも、両親も、アンナでさえも、私にその言葉を呪いのように投げかける。私が何も言い返せないことを、彼らは全員知っている。
唇を噛み締め、俯く私を一瞥もせず、ヴィンセントはアンナの部屋へと戻っていった。扉が閉まる直前、アンナの「ありがとう、お兄様! 大好き!」という、鈴を転がすような声が聞こえた。残されたのは、虚しく壁に反響する柱時計の音と、手の中の湿ったショールと、私のどうしようもない惨めさだけだった。
◇ ◇ ◇
その夜。ヴィンセントがアンナに付きっきりで、結局観劇の約束が反故にされた後、私は父であるミルフォード伯爵に書斎へと呼び出された。重いマホガニーの扉を開けると、革製品と古い紙の匂い、そして父の吸う葉巻の苦い香りが鼻をついた。暖炉の火が、父の顔に陰鬱な影を落としている。彼は、分厚い帳簿を前に、唸り声を上げていた。「アデリーナか。入れ」父は、私を一度も見ずに、そう言った。
「アデリーナ……苦しい話なのだが」
父は、まるで債権者に追い詰められたかのような苦虫を噛み潰した顔で、重々しく切り出した。その手元には、ブランデーのグラスが握られている。琥珀色の液体が、父の手の震えに合わせて小さく揺れている。
「アンナの、新しい治療薬のことだ。南の大陸から取り寄せる特別なもので、これまでの薬とは比べ物にならんほど高額でな」
父が差し出した請求書を恐る恐る受け取る。その紙の重さ以上に、記載された数字が私の手に重くのしかかった。ゼロの数が、私の知っている薬の値段とは明らかに違っていた。伯爵家の家計を圧迫しているのが一目で分かるほどの金額だった。
(本当に、こんな高価な薬が治療に必要なのかしら……? 以前の薬と、一体何が違うというの……?)
私の胸に、ほんの微かな、しかし合理的な疑問が浮かぶ。アンナは、高価な薬を飲み始めてから、むしろ顔色が一層良くなっているようにさえ見える。肌艶も、以前より格段に良い。病弱な人間特有の翳りが、彼女からは微塵も感じられない。だが、それを口にすることは許されない。アンナの病状を疑うことは、この家では最大の罪だからだ。
「そこで、だ。お前の亡き母上の、あの……『ミルフォード商会』だが」
父の口から出た言葉に、私は息を呑んだ。ミルフォード商会。それは、商才に長けていた私の実母が、私のためだけに遺してくれた、唯一無二の形見だった。病弱だった母が、私に「自分の足で立てるように。女だからと誰かに依存せず、自分の才覚で生きられるように」と、最後の力を振り絞って設立してくれた、私の最後の砦。
「あの商会を担保に、王都の商人から金を借りようと思う」
その瞬間、私の頭の中で何かが切れる音がした。足元が崩れ落ちるような感覚。血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。
「それだけは……! お待ちください、お父様!」
今まで、どんな理不尽も「はい」と頷いてきた私が、生まれて初めて、父にはっきりと異を唱えた。
「母の……母の遺した商会だけは、どうか……! あれは、私に、私に遺してくださったものだと……!」
その必死の懇願に対し、父は忌々しげに顔を歪め、ブランデーグラスを強く机に叩きつけた。ガシャン、と鈍い音が響き、高価な酒が帳簿の上に飛び散った。
「うるさい! 病弱なアンナのためだ! お前も姉なら、妹のためにそれくらい差し出せんのか!」
「ですが、あれは!」
「これ以外に方法がないだろう!」
ゴウ、と音を立てて、書斎の暖炉の炎が揺れる。父の怒声が、私の鼓膜を突き刺す。
「姉のお前が我慢しろ! いつもそうしてきたように、お前が黙って耐えれば、すべて丸く収まるんだ!」
――ああ、まただ。
婚約者は私に「待て」と言い、父は私に「我慢しろ」と一喝する。彼らは私のすべてを奪っていく。私の時間も、婚約者も、そして今や、亡き母との最後の繋がりさえも。アンナ、アンナ、アンナ。すべて、あの義妹のために。
絶望が、冷たい水のように足元から私を飲み込もうとした、その瞬間。カチ、コチ、と柱時計の音だけが、やけに大きく響く。父の怒声が、まるで水の中にいるかのように遠く、くぐもって聞こえる。目の前が、暗くなっていく。もう、何もかも、どうでもいい。
キーン、と耳鳴りのような静寂の中で。私の頭の中に、冷たく、明瞭で、まったく聞き覚えのない「声」が響いた。
(――評価損。典型的な不良債権だ)
「……え?」
私は、ゆっくりと顔を上げた。父が、まだ何かを怒鳴っている。だが、その声はもう、私の耳には届かなかった。私の瞳から、長年こびりついていた諦観と忍耐の色が、スッと消えていく。
(待つのは、もう、終わり)




