第8章「黒い水面」
崖の風は、昼の温かさをきれいに落として、冷たい刃だけを残していた。海はくすんだ灰色で、細い泡を吐きながら岩肌を舐めている。私たちは一列になって、足場の悪い斜面を下った。誰も口を開かない。石が転がる音だけが、後ろへ落ちていく。
「足もと、気をつけて」
香月さんが短く言った。彼は足運びが軽い。崖の縁を測るみたいに歩くと、波打ち際で立ち止まり、何かを見つけてしゃがみ込む。濡れた砂の上に、黒い靴が片方だけ、貝殻と一緒に寝転んでいた。
「……これ、野々村さんの?」
私が声を出す前に、香月さんは首を横に振った。
「サイズが違う。野々村のは二十六。これは二十四だ。形も別だ」
彼は靴底に指を入れて、砂をこそげ落とす。その動きがあまりにも迷いがなくて、まるで靴のほうが自分から身の内を見せにきたみたいだった。
「まだここにいない人の靴、ってこと」
瑞貴が言った。冷たい声だった。風より冷ややかで、砂より乾いている。私たちの間の空気が、音もなく固まる。誰かが息を飲んだ気配がした。崖の上でカモメが鳴いて、私たちの肩に影を落とす。
「戻ろう。潮が満ちる」
柴田さんが腕時計を見る。彼の声は落ち着いていて、それでも焦りが縁に出ていた。私たちは来た道を戻りはじめた。足場は同じなのに、さっきより急に感じる。砂利が靴底に食いつき、滑り、膝が笑う。
そのとき、零司が立ち止まった。
「ちょっと待って。沖合、あれ、見える?」
彼はポケットから小さなカメラを取り出し、ズームを回す。私たちも海へ目を細めた。波の向こう、夕焼けの帯の手前に、黒いものが浮かんでいる。最初は岩だと思った。けれど、輪郭が変だ。角が多い。海に浮かぶには角が多すぎる。零司は夢中でシャッターを押し続けた。
「なに、あれ」
「反転した……」
瑞貴がつぶやく。
「館の影」
言葉が小さく落ちた。黒い塊は、揺れる。波と一緒に上下しながら、角のひとつ、またひとつが水面から顔を出す。十三角形。ここにある館の、あの奇妙な外形とよく似ていた。けれど、海に映る影にしては、濃すぎた。沈まない墨汁みたいに、光を吸い込んでいる。
「蜃気楼、みたいなものだろう」
柴田さんが言った。言い切ったものの、その声には迷いがあった。私たちはそれ以上誰も返事をしなかった。零司は最後にもう一度、長めにシャッターを切った。
館に戻る頃には、空は紫と群青の境目にいた。庭の草むらから、冷たい匂いが立ち上る。窓という窓に、夕焼けの残り火が四角く貼りついている。十三角の壁は、やがて夜に飲み込まれて、黒曜石の板みたいに光を失った。
食堂に集まると、ランプの明かりがテーブルクロスの模様を浮かび上がらせた。皿は重ねられ、誰も何も乗せていない。その空っぽが、かえって皿の白さを濃くする。
「皆さん」
柴田さんが両掌をテーブルに置いた。指の関節が白い。
「ここは、連帯して動くべきだ。ひとりで勝手に行動しない。情報は全員で共有する。疑いより先に、信頼を選ぶ」
言葉だけなら正しい。けれど、私たちの目は冷たかった。誰かが椅子の脚を引きずる音が長く続き、それで意見は切り替わらない。野々村さんは戻らない。沖合の黒い影は意味不明。打ち上がった靴は、ここにいない誰かのもの。信頼をぶらさげるには、土台がない。
「録音、聞いてみる?」
久遠が立ち上がった。彼は昨夜からずっと首から小さなレコーダーを下げている。暴風で眠れなかった時間、何か役に立つかと思って、ずっと回していたのだと言った。
「ただの風の音でしょ」
誰かが言った。久遠は頷いた。
「そう思うよ。でも、気になるところがある」
久遠は再生ボタンを押す。小さなスピーカーから、波の音と風の縄がほどけるような唸りが流れる。窓がわずかに鳴る音、廊下を風が抜ける音、壁が軋む音。身体の内側で同じ音が鳴り出す。聞き覚えのある夜。
そして、そこに混じっていた。
コツ、コツ。
靴音。ゆっくり階段を上がってくる。踊り場で一拍止まり、また上がってくる。レコーダー越しでも分かる。固くて、少し薄い靴底の音。
「あの時間帯、誰か階段使った?」
柴田さんが全員の顔を見た。誰も手を挙げない。
「カメラのログは?」
瑞貴が答える。
「廊下は無人を示していた。二階の角のカメラも、階段の踊り場も、通過した人影はない」
「矛盾だね」
久遠は言った。言った後で、少し震えたように肩をすくめた。自分で矛盾をテーブルに置いたのに、さわるのがこわい、という仕草だった。
「カメラは盲点を作れる」
堀内が静かに口を開いた。彼は部屋の隅の椅子に腰かけ、ずっと黙っていた。メガネのレンズにランプの光が乗って、目の動きが見えない。
「画角の問題。ここは鏡面の壁が多い。適当に貼ったわけじゃない。設計した人間は、たぶん、反射を計算している。画面に映っているのが『実際の廊下』じゃなく、『廊下の像』のときがある。像は嘘をつかない。けれど、像は、もう一つ別の本物を隠すことができる」
「どういうこと?」
「例えば、鏡面に映った廊下がカメラの視界いっぱいに広がっている映像を想像して。そこに誰かが立つと、その人は『像の中』にいる。カメラはそれを『廊下』と信じて映す。その間、カメラのすぐ横の、本物の廊下の隅は死角になる。踊り場の角度と壁の角度がぴったり合えば、かなり広い範囲が隠れる」
堀内は紙ナプキンとボールペンを取り、ざっと見取り図を描いた。十三角形の一部、廊下、階段、鏡の壁。線が何本も交差し、矢印が行き止まりを示す。私たちは身を乗り出して見た。
「つまり」
瑞貴が言葉を拾う。
「階段の靴音は本物で、でもカメラには『像の廊下』だけが映っていた。誰かが、カメラの死角を知っていた」
「知っている、あるいは、見つけた。ここは迷路だ。迷路というのは、抜け道を見つけるためにある」
堀内はペン先をトントンと紙に当てた。誰も笑わなかった。笑えなかった。
そのあと、細切れに意見を出し合った。打ち上げられた靴のサイズ。今朝の食堂の合鍵のこと。外部からの侵入の可能性。沖合の黒い影の正体。それらのどれもが確かな手触りを持たない。水の中に手を入れて、小石を掴んだつもりが、手の平にまた水しか残らない感じ。
「今日はもう休んだほうがいい」
柴田さんがまとめた。
「廊下は二人以上で移動。部屋の鍵は内側から。持ち物は枕元に。明かりは細くでいい、つけておく」
誰も反対しなかった。賛成でもない。ただ、別の答えが考えつかないから、うなずいた。会議は終わった。椅子が床を擦る音だけが会話になり、その会話もすぐに途切れた。
深夜。館は落ち着いた獣のように息を潜める。風はさっきより弱く、海の音が遠い。廊下の照明は足下灯だけで、壁の黒がいっそう深く見える。
芹沢は、ひとりで歩いていた。靴を音の出ないものに履き替え、ジャケットの内ポケットに色鉛筆を数本突っ込んでいる。彼女は食堂から持ち出した古いファイルを抱え、その中の紙束を、灯りの下で一枚ずつめくった。
「お父さん」
声に出すと、音が驚くほど小さい。黒曜石のような壁が、声を吸ってしまう。
ファイルの端はすり切れ、紙は時間の色に染まっていた。スケッチには、線が幾重にも重ねられている。同じ場所を何度も引き直したように、輪郭が少しずつぶれて、そのぶれが、逆に意志の強さを示している。十三角の各辺に、細い印。矢印の先に、小さな数字。手書きのメモが側注に走る。設計者のため息のような言葉が、ところどころに挟まっている。
芹沢は、ページの端に小さく描かれた断面図に目をとめた。角と角の間に、短い赤い線。父の字だ。読みやすくない。けれど、彼女には読み取れた。
三辺だけが動く。
書かれているのはそれだけだ。三辺だけが、可動壁。ほかの十辺は固定。十分の一でもなく、半分でもない。三という数字。なぜ三なのか。彼女は小声で繰り返す。三。回る数。合図。鍵穴の形。彼女の胸の内側で、何かが小さく合う音がした。
「ここ、ここ、それから、ここ」
芹沢は色鉛筆を取り出し、スケッチの十三角の輪郭に、そっと印をつけた。赤、青、緑。三つの角が、夜の灯りに静かに浮かぶ。彼女は顔を近づけ、紙の上を指でなぞった。この壁が動くとしたら、どう動く? 引くのか、押すのか、回るのか。動く先に、何がある? 隠された通路? 別の階段? あるいは、外に見えるはずのない出口?
足下灯が、遠くでひとつ、明滅した。電圧の揺れなのか、風のいたずらなのか。芹沢は顔を上げた。誰もいない。廊下はまっすぐで、黒曜石の板が左右に続く。薄い自分の影が足下にある。その上から、天井の溝の影が斜めに重なる。
ページの隅に、父の書いた小さな言葉があった。私は止めなければならない。線は揺れていない。迷いがない。けれど、その言葉の意味は、いまの芹沢にはまだわからない。
そのとき、背後で声がした。
「君はよく似ている」
低くも高くもない。耳の奥で響くような声。男とも女ともつかない。息がわずかに混じっている。
芹沢は、ゆっくり振り返った。心臓は一度、深く落ち、そのあとで早鐘を打つ。廊下は無人。足下灯が床に細い帯を作り、壁の黒がそれを飲む。声は、どこから? 背中の皮膚が、針でつつかれるみたいにざわついた。
「開けてしまうところまで」
同じ声が続いた。近いのに、遠い。頭のすぐ背後で囁かれた気がするのに、振り向いても誰もいない。空気が肩に触れる。触れたと思ったら、もう離れている。
芹沢は、壁を見た。黒曜石のような鏡面は、彼女の小さな影を映している。影は呼吸に合わせて胸のあたりで上下し、その動きが、自分のものではないみたいに見える。壁のどこかに、薄い縫い目。指で触れると、わずかな段差。そこだけ、石の温度が違った。人の手が最近触れたような、生の温度。
もう一度、だれもいない廊下を確かめて、彼女は色鉛筆を握った指をほどく。鉛筆はポケットに戻す。代わりに、指先で、その縫い目を押す。押しながら、耳を澄ます。遠くで海が鳴っている。風がどこかの窓枠に音をこすっている。自分の心臓が、強く、弱く、強くと打っている。
「だれ?」
声は出たが、ささやきだった。廊下は答えない。代わりに、壁の奥で、ごく小さな音がした。石と石が触れ合う、乾いた擦過音。鍵が錆をこじるような、細い軋み。芹沢は息を止めた。指先に、わずかな動き。縫い目が、ほんの、紙一枚ぶんだけ開く。
彼女は一歩下がった。黒い壁に彼女の影が小さく揺れる。揺れは二つに増え、すぐ一つに戻った。足下灯の明滅がもたらした錯覚だと、頭は説明する。でも、身体は納得しない。背筋の中ほどに、冷たい線が一本、まっすぐ引かれる。
「連帯、ね」
彼女は口の中で言った。さっき柴田さんが言った言葉。いまの彼女の周りには、誰もいない。連帯どころか、孤独そのもの。けれど、父のメモはここにある。十三角の壁はここに立っている。動く三辺。見えない踊り場。足音の矛盾。沖合の黒い影。すべてがひとつの線で結べる気がした。けれど、線は薄くて、握ると切れそうだ。
食堂の方向から、小さな音がした。何かがテーブルから落ちたような音。誰かが起きている? 彼女は迷った。戻るか、押し進むか。縫い目は、試すように静かで、呼び水のようにそこにある。
彼女は、今度は押さず、撫でた。石の肌は滑らかで、冷たく、吸い込まれてしまいそうな深さがある。光を返すが、その反射は浅くない。まるで、光を飲みこみ、その味をゆっくり確かめてから吐き出しているみたいだった。
「開けてしまうところまで」
さっきと同じ声が、今度は壁の中から聞こえた気がした。耳で聞くというより、胸の奥の空洞で受け取るような響き。芹沢は目を閉じた。十秒数えて、開けた。足下灯の薄い線は変わらず、廊下は無人。影は一つ。けれど、彼女の影の肩のあたりに、ほんのわずか、丸い欠けがあった。誰かがそこに指を置いているみたいに。
彼女は影から目を離し、スケッチに戻る。赤、青、緑の印。三辺が動く。動くなら、順番があるはずだ。一番目、二番目、三番目。音の少ない夜は、数字をくっきりさせる。三は、回数。三は、確認。三は、儀式。父が残したのは、儀式の設計かもしれない。
彼女は一度、食堂へ戻ることにした。誰かに伝えるべきだ。ひとりで押し進めるのは、危ない。足を向ける。足下灯の光が、次の足下灯へバトンを渡すみたいに、前へ続いていく。廊下を曲がるたび、壁の黒が少しずつ角度を変え、鏡のように彼女を見送る。鏡は正直だ。けれど、正直な鏡が映すものは、いつも正しいとは限らない。堀内の言葉が、遅れて胸に落ちる。
食堂の前まで来ると、扉は半開きだった。中は暗い。窓の外の海が、黒い絵の具をゆっくり動かしているみたいに見える。テーブルに乾いたカトラリーが横たわり、ランプの芯が黒く縮れている。床に、小さな金属片が落ちていた。スプーンの先ではない。鍵の歯だ。古い鍵の、欠けた歯。
「誰か、いるの?」
声はやはり小さい。返事はない。けれど、返事のかわりに、廊下の奥から、また、コツ、コツ、と音がした。ゆっくり。階段を上る靴音。間を恐れるみたいな足取り。昨夜の録音と同じリズム。芹沢は顔を上げ、音のする方を見つめた。誰もいない廊下の奥で、影だけが、薄く動いた気がした。
彼女は扉を閉め、鍵の欠けた歯をポケットに入れた。もう一度、廊下へ出る。足下灯は、さっきより少し、心細い明るさに見えた。長い夜の中で、光はやせ細る。やせ細った光の脇で、影は太る。影は、太るほど、形を忘れていく。
自分の部屋に戻る途中、彼女は立ち止まって、後ろを見た。誰もいない。けれど、黒曜石の壁に映る影は、彼女だけではない気がした。二つに見えた、というより、重なっている感じ。影と影が、幅の違う墨色で、少しずれて重なっている。その二重は、瞬きするたびに、ひとつになったり、またずれたりした。
「私は止めなければならない」
父の字が、脳裏に浮かんだ。止めるべきものは、何か。動く三辺のことか。鏡の壁のことか。海に浮かぶ黒い影のことか。あるいは、もっと別の、ここに来る前からここにいた何かのことか。
部屋のドアの前に立ち、彼女は鍵を差し込んだ。鍵は素直に回った。ドアを閉めたとき、廊下の向こうから、誰かの気配が、ふっと消えた。気配はいつも、居るときより、消えたときに強くなる。消えるその瞬間にだけ、確かに、そこにいた、と知る。芹沢は背中をドアに預け、目を閉じた。胸の中の太鼓は、まだ鳴っている。鼓動は自分のもの。でも、そのリズムの端が、何者かの足音に似ている。
机にスケッチを広げ、赤、青、緑の印を見た。三辺だけが動く。順番がある。父は、それを知っていた。だから止めようとした。でも、止められなかった。理由がある。止めることが、つまり、開けることだったのかもしれない。「君はよく似ている。開けてしまうところまで」さっきの声が、耳の奥で柔らかく反復した。
芹沢は色鉛筆を置き、窓の外を見た。海は夜の重さを抱え、さっき見た黒い影を、見せる気配も隠す気配もなく、ただ沈黙している。遠くで、波が崩れた。崩れた音は、部屋の中で形を変え、壁のどこかを軽く叩いた。
彼女は机のランプを最小に絞り、ベッドへ横になった。目を閉じると、まぶたの裏に、十三角の輪郭が浮かんだ。角のひとつひとつは、指の関節のように硬く、古い記憶の節のように痛む。その輪郭の中心に、海の黒が溜まり、影の黒が絡み、誰かの息の白が、ひとすじだけ、煙のように立ちのぼる。
眠りは浅く、薄い氷の上を歩くみたいだった。足下で氷がきしむたび、彼女は夢と現の間を移動した。靴音が遠くなったり近くなったりする。父の字が紙から剥がれて、空中に浮かぶ。沖合の黒い影が、窓枠に引っかかり、こちらへ身体を乗り出す。壁の縫い目が、唇に見える。唇は閉じ、開き、また閉じる。
薄明の一歩手前で、彼女は目を開けた。部屋は静かだった。静かさは、耳鳴りのように高く、透明な重さを持っている。彼女は起き上がり、机へ向かった。スケッチはそのまま、赤、青、緑の印は、夜の間に少し色を濃くしたように見えた。
ドアの方から、小さな音。紙が滑るような、柔らかい音。彼女は振り向き、ドアの下の隙間を見た。白い紙片が一枚、隙間から押し込まれている。彼女は立ち上がり、紙を拾った。そこには、細い字で短い文が書かれていた。誰の字でもない、見覚えのない字。
三は、扉。
それだけ。彼女は、紙をもう一度読んだ。三は、扉。父のメモの三。可動壁の三。足音の三拍子。堀内の言った三つの死角。柴田さんの三つの決まり。三は、扉。
扉は、開くためにある。開けてしまうところまで似ている、と言った声は、きっとそれを知っている。開けない選択もある。でも、開けないことは、扉であることを否定する。開けることは、危険だ。でも、扉は、危険でこそ扉なのだ。
芹沢は紙片をポケットにしまい、スケッチを巻いた。部屋の鍵をかけ、廊下へ出る。足下灯は夜より白く、壁の黒は夜より硬い。彼女は、昨夜指で触れた縫い目のところまで、静かに歩いた。壁は変わらず、黙っている。彼女は指を伸ばし、呼吸を止める。
押す前に、背中の方で、靴音が一度鳴った。コツ。振り向くと、誰もいない。けれど、黒曜石の壁に、彼女の影の後ろに、もうひとつ、影が寄り添っていた。大人の肩の高さ。首の傾き。指の形。影は、芹沢の動きに遅れて、同じ動きをなぞる。遅れは、わずか。ほんの、紙一枚ぶん。
「開けてしまうところまで」
声が、今度は耳のすぐ外側で囁いた。やわらかく、乾いて、笑っているように。芹沢は目を閉じ、数えた。三つ。息を吸い、止め、吐く。指先に力を入れる。黒い石は、また、紙一枚ぶんだけ、静かに動いた。
館のどこかで、誰かが小さく笑った気がした。笑いは、風と一緒に消えた。沖合の海で、黒い影が、わずかに上下した。夜の底に沈んだ言葉たちは、まだ形を持たない。けれど、形を持たない生き物ほど、動くときは速い。
彼女は、次の角を探すために、指先を移動させた。赤、青、緑。ひとつ押すごとに、館の中の空気が、砂時計のようにゆっくり入れ替わる。砂が落ちる音はしない。でも、確かに減っている。時間が、薄くなっていく。
三は、扉。扉は、三つで開く。開けてしまうところまで、よく似ている。
廊下の端で、足下灯がひとつ、またひとつと点滅した。壁の中の機構が、眠りから起きるような、目に見えない動きを始める。芹沢は、短く笑った。怖さと、決心と、少しの誇りが、その笑いに混ざっていた。父の影が、ほんの少しだけ、重なる。
彼女の背後で、黒曜石の壁に映る二つの影が、ゆっくりと一つに重なり、そしてまた、紙一枚ぶんだけ、ずれた。館は黙って、見ている。海は、黒い水面で、何度も小さく息をしている。誰もいないはずの階段の上から、靴音が、三つ、落ちてきた。コツ、コツ、コツ。音は、ここで止まった。
芹沢は振り向かない。指先だけが、扉を数える。三のつぎを知らないふりをしながら、三の中に、深く潜っていく。扉は、もうすぐ開く。開いてしまうところまで。彼女はよく似ている。開けてしまうところまで、よく似ている。
そして、風がひときわ強く吹いた。海の黒は動き、館の影は、壁の中でゆっくり反転した。誰かが息を呑み、誰かが名を呼び、誰かが沈黙を選んだ。夜は終わらない。朝はまだ遠い。黒い水面は、目を閉じた生き物のように、静かに震え続けた。




