第七章 鍵束と影
朝の光が黒曜館の壁を斜めに切っていた。外の海は鉛色で、波の音が途切れ途切れに響く。廊下を歩く足音が硬く反射するたび、館全体が小さく軋むように感じられた。
検分の立ち会いは八時。野々村の部屋の前には、既に柴田教授と嶺木、香月、堀内が集まっていた。零司は少し離れた位置からカメラを構えている。扉は半ば開け放たれ、チェーンがだらりと垂れていた。内側から外へ伸びており、無理にこじ開けた形跡はない。
「施錠は内側から。窓も同じです」
嶺木が記録用のメモに淡々と書き込んだ。
「酒の瓶が二本。ベッドの下に転がってます。グラスが一つ……いや、二つだな」
香月がしゃがみ込み、光を反射させる。グラスの縁に残る口紅の跡は、確かに二種類の色をしていた。片方は深い赤、もう片方は淡いピンク。
「同席者がいた?」
「あるいは、誰かが途中までいた」
香月は床を見た。毛足の短いカーペットに、かすかな跡。椅子が一度引かれて、また戻されたような、筋だけが残っている。
柴田教授が疲れた声で言った。
「事故の線で処理してしまおう。飲み過ぎて転倒、頭を打った。……密室など、ありふれた偶然の結果だ」
香月は顔を上げる。
「教授、あなたは“沈黙”を偶然と呼ぶんですか」
その声に、空気が一瞬張りつめた。
「この部屋に起きたのは“眠り”ではありません。誰かが、彼を沈黙に落とした」
零司がゆっくりと立ち上がった。カメラのモニタには、昨夜の廊下の映像が再生されている。堀内が夜のうちに回収した古い有線カメラの映像だ。線は館内の壁を這うように張られ、録画機は応接室の奥にある。
画面の中では、暗い廊下にランプの光が揺れていた。映っているのは「誰も通らない廊下」——そのはずだった。だが零司は一時停止を押す。
「ここ。フレームの端、右下を見てください」
映像が止まり、粒子が荒くなる。暗闇の中に黒い影の一部が見えた。影は人の輪郭を成していない。ただ、形の途中で切れている。扉の隙間に、何かが立っていた。
瑞貴がぽつりとつぶやく。
「舞台袖の役者みたい……出番を待ってるような」
堀内は眉をしかめた。
「影の出入りは確認できません。録画時間は午前二時十三分。野々村が死んだと推定される時刻と、ほぼ一致します」
芹沢沙耶が震える指でポケットから金属の束を取り出した。
「館の鍵束です。父が建築したときからのもの。外周十三の部屋と、中央の大広間。それぞれに一本ずつ」
彼女は数えた。金属音がひとつひとつ、床に響く。
「……十二本しかない」
柴田が顔をしかめた。
「抜いたのは誰だ」
「わかりません。でも、父は最終図面を残さなかった。つまり、この館の“構造”を完全に知っている人間は、もういない」
久遠が静かに立ち上がり、床を叩いた。鈍い音が返る。
「昨日の夜、聞こえた“打音”を再現してみます」
彼女は杖のような棒で床を二度叩く。
コン、コン。
わずかに遅れて、下から空気が返ってきた。
「空洞だ。人が通れるくらいの空間が、床下にある」
「そんな馬鹿な。地下は岩盤だ」
「けど、音が答えてる」
沈黙が広がった。
その沈黙の中で、誰かが遠くの海鳴りに耳を澄ませた。
昼近くになって、嶺木と堀内が船着き場へ降りた。潮の匂いが濃く、波打ち際には海藻が絡んでいる。
「見ろ。あれは……」
白い布に包まれた木箱が、ゆっくりと岸に寄っていた。潮の流れに乗って、まるで“届けられた”ように。
二人が慎重に箱を引き上げ、布を外す。
中には古びた手回し式の発電機と、テープレコーダー。機械は錆びていたが、まだ動きそうだった。蓋の裏には、濡れた紙片が一枚貼り付いている。
そこには、こう書かれていた。
——記録を続けろ。
筆跡は乱れており、誰のものとも判別できない。
嶺木が乾いた笑いを漏らした。
「誰かが、俺たちに“撮れ”と言ってる」
香月は紙を手に取り、ゆっくりと海へ目を向けた。水平線は白く滲み、遠くで雲と溶け合っている。
「この館は、“見られる”ために建てられたのかもしれない」
誰も答えない。
ただ、零司のカメラだけが海の方を向き、赤い録画ランプが光を点滅させていた。
その光が、波に反射して一瞬だけ揺れた。
それはまるで、海の底から誰かが手を伸ばして、シャッターの向こうへ触れようとしているようだった。
——記録を続けろ。
その声が、本当に風の音なのかどうか。
誰も確かめようとはしなかった。
館の上では、再び鍵の音が鳴った。
足りない一本が、どこかで静かに回る音がした。




