第6章 最初の朝
朝は、ここでは音から始まらない。黒曜石の壁は夜を溶かしても、鳥の声も、遠くの工事音も連れてこない。発電機の低い唸りだけが、館の腹の奥で続いている。大広間のテーブルには、昨夜の片付けが行き届きすぎた痕跡が整然と残り、湯気の立たないカップが底に薄い輪を作っていた。
零司は、肩のストラップの重みを左右に移しながら、人数を数えた。教授、井之口、嶺木、木暮、堀内、瑞貴、現役の三人、沙耶、香月、そして絵里奈。十一、十二。口の中で数字を転がし、舌の裏に貼りつかせる。そこに、座るべき椅子がひとつ、空いている。
「野々村が来ないな」
教授が時計を見、眼鏡を鼻梁の上で上げる。彼の声が天井へ上がる前に、壁が軽く吸い、落ちてくる。落ちた声は、少し古い。ほんの数時間前の夜の湿度をまとっている。
「起こしてくる」香月が椅子から立つ。椅子の脚が黒い床に擦れても、音はほとんど出ない。出ない音は、耳の内側で勝手に鳴る。彼女は廊下の白い楕円に足を乗せ、迷いのない歩幅で角を曲がった。
零司は反射でカメラを持ち上げ、レンズキャップを外す。覗く世界は狭くなり、余白が切り捨てられる。狭くした世界の中で、恐怖は濃くなる。濃くなった恐怖は、映るものの輪郭を鋭くし、映らないものの重さを増す。
香月が、廊下の曲がり角の向こうで止まったらしい気配がした。足音が、突然消える。消えた足音の輪郭だけが壁に貼りつき、しばらくそこに残る。零司は追った。彼女の背中は、黒い面に映らない。映らないという事実が、彼女の輪郭を逆に濃くする。
野々村の部屋の扉は、黒い。取っ手は鈍い銀。鍵穴の縁がわずかに濡れ、指紋の油が薄く伸びている。香月が軽くノックした。音は小さく、壁のどこにも跳ね返らない。返らない音は、不安ではなく、決心に似ていた。
「野々村さん」
返事はない。二度、間を置いて三度。沈黙は、ここでは返答の一種だ。香月は取っ手に手をかけ、押す前に顔だけこちらに向ける。教授がうなずいた。鍵はかかっていない。ゆっくり押すと、扉は抵抗なく開く。開いた瞬間、薄い鈴の音が、耳の奥のほうで一度だけ鳴った。誰も言わない。誰もそれを、今は言葉にしない。
部屋の空気は冷たく、黒曜石の壁の黒が少し灰に近い。床にグラスが倒れている。透明な胴は割れていないのに、口の縁からは細かい欠けが一箇所、白く光る。転がる軌跡に沿って、赤黒い跡が短い弧を描き、その先で点に変わって消えていた。赤は乾き、黒はまだ湿っている。乾きと湿りが同居しているとき、ここでは時間が二つある。
ベッドは乱れている。シーツが半分ほど床へ垂れ、皺が集中している部分は人の臀の形に似ている。その上に、暗い染みがいくつか散っていた。跳ねた痕跡。壁の継ぎ目には飛沫がない。飛沫がないのに、床にだけ跡がある。動いたのは、血か、物か、身体か。動いたものが、その後どこへ行ったかを、部屋の空気は知っているふりをして黙っている。
窓があった。ここにはないはずの窓が、ある。外周の部屋の一部だけに設けられたという、高い位置の採光窓。黒曜石の面の上部に、横長の切れ目が一本、内側に開く方式で嵌められている。切れ目には内側からの施錠ボルトが降り、鎖の先の小さな鉄片がカチリと音を立てたまま止まっている。ボルトは降り、鎖は張られ、窓は閉じられ、塵は少ない。窓の下の壁面には、外からの水気の痕跡はない。海の匂いは、ここまで入ってこない。
「……脈」嶺木が肩を落としながら屈み、手首に指を添え、首の付け根へ手を滑らせ、短く首を横に振る。「死んでいる」
言葉は軽くはなかった。軽くないことが、逆に現実への距離を広げる。教授の顔色が、瞬間的に蒼白になる。血の気が引く、という表現が、ここでは現実の物理のように正確に見える。彼はベッドの端に手を置く。手袋はない。指先が布の粗さに触れ、粗さは布の種類ではなく、時間の質だとわかる。
「事故……ではないな」
教授は、言い切らない言い方で言い切った。床の赤黒い跡は、偶然では作られない。不自然な沈黙が、部屋の四隅に均等に分配され、壁の黒がその均等を静かに祝福している。祝福ではないのに、そのように見える。
香月が低く呟いた。「この館に、誰かもう一人いる」
「十三人目?」瑞貴が、笑わずに笑う。「ようやく、悪趣味が本格的になってきた」
「からかうな」嶺木が抑えた声で言う。「鍵は内側から。窓も内側から。扉の下の隙間には、湿りの筋も砂もない。換気口は天井に一つ。網目は細い。物理的に外からは、むずかしい」
「物理的に、ね」香月は呟きを続けた。「ここでは『音』が嘘をつく。なら、『時間』は?」
零司は、言わない。しゃべるかわりに、回す。記録の赤い点が、部屋の湿りと矛盾するかのように乾いた光で瞬く。ファインダー越し、彼はまず床の弧を辿り、グラスの欠けの白を拾い、ベッドの皺をなぞり、視線を窓へ上げる。高い位置の切れ目は、外光ではなく壁の薄い照り返しだけを映す。ボルトは降りている。鎖の鉄片は、今も小さく震えているように見えた。震えていないのに、見える。見えるものより、見えないもののほうが、ここでは強い。
「さわるな。写真を撮る前に、触るな」教授の声が、ようやく教員の音色を取り戻す。嶺木は頷き、手を引く。井之口が手帳を取り出し、時刻を書き、呼吸の回数を一つ飛ばして、また書いた。
「誰が最後に野々村を見た?」教授が尋ねる。
「昨夜、扉の向こうで話していた」香月が答える。彼女は自分の声に余計な感情をのせない。「照明が落ち、彼がわたしの手を掴み、動くなと言った。それから……何も見ていない」
「それからの彼は、どこへも行っていない」嶺木が室内を見回す。「この部屋に、いた。いる。いた、という言葉が適切に聞こえるのは、死体がそこにあるときだけだ」
死体はそこにある。だが、ここでは「そこ」は定まらない。黒曜石の壁が、位置の確かさをわずかに濁す。床の目地が、斜めに走っている。蛍光灯ではない弱い照明が、肉体の表面の色を奪い、影の輪郭を丸くする。野々村の顔は、驚いていない。驚いていないことが、不自然だ。驚きは最後に人を守る。守られないまま終わった顔は、静かだが、沈黙ではない。
「『事故』ではない」教授の言葉が、もう一度落ちる。落ちた言葉は床で少し跳ね、今度は壁に吸われず、鏡のように磨かれた黒い面の上に薄く乗った。
零司は、その黒い面の向こうを覗くようにカメラを傾けた。黒曜石は鏡ではない。だが、ある角度で、鏡より正確に映す。映すものは、現実の一部ではなく、現実からわずかに遅れて返ってくる像だ。遅れて返る像は、記憶に似ている。
レンズの奥、黒い面の光がわずかに集まり、そこに背後のテーブルの上が映った。昨夜、誰も座らなかったはずの小さなサイドテーブル。そこに、赤い線が一本、引かれていた。一本の線は、すぐに二本になり、ふたつの線の間に、子どもの字のようなものが現れる。零司は自分の呼吸が音にならないことを確かめ、画角を固定する。
赤い文字が、鏡の中で組み上がる。現実のテーブルの上を見ても、何もない。黒曜石の面の中だけに、文字はある。あるはずのないものが、もっとも容易に残る場所に、浮かぶ。
まだ十二人。
ひと文字ごとに太さが違い、曲がりが不器用で、しかし、文字の間の呼吸は一定だった。一定であることが、恐怖を硬くする。香月が鏡の面を見て、息を飲む。教授は見ているのに、見ないふりが一瞬だけ顔に出、すぐ消えた。瑞貴が、喉に小さな音を集め、それを飲み込む。
「見える?」零司は自分の声だと信じがたいほど低く問う。
「見える」香月が答える。「鏡の中にだけ」
「実物のテーブルには、何もない」嶺木が確認のために身を屈め、指を伸ばしかけて引っ込める。「触るな、だったな」
教授は小さく頷き、井之口に目線だけで命じる。彼女は鏡の面に対して直角に立ち、ノートにその言葉を書き写した。紙の上の字は、鏡の中の字より整っている。整っていることは、記録の条件だが、真実の条件ではない。
まだ十二人。
その文言の、文脈がない。文脈のない文は、ここでは命令になる。命令の主語は、誰でもない。誰でもない主語ほど、人に従わせる。教授が、扉の向こうの廊下に視線を投げる。廊下は白い楕円をところどころ欠き、欠けの境界で影を濃くする。影は音を持たないが、重さを持つ。重さは数えられない。
「十二人、なんですって」瑞貴が、笑顔だけで言った。「よかったわね。昨夜の映像の十三人目は、もういない」
「やめなさい」香月は鋭く言う。刃のない刃物のような声で。「いない、と書くのは簡単。でも、いなかったわけじゃない」
「『まだ』が、いやらしい」嶺木が唇の端を引く。「増える可能性を前提にしている。あるいは、減ることを」
「減る?」久遠が録音機を握りしめた指を見下ろし、囁く。「波の『あ』が、今朝は強い。『お』は薄い。『あ』は、驚き、開口、呼びかけ……『お』は、驚きの余韻。余韻が、ない」
「つまり、驚いて終わらない」香月が小さく結ぶ。「驚いたまま、開いたまま」
教授は額に手を当て、短く考える間をつくった。間は誰にも共有されない。共有されない間だけが、ここでは正確な思考の場所になる。「状況を整理する。野々村は死んでいる。内側から施錠された空間で。床に赤黒い跡。グラス。窓は閉じられ、施錠。換気口に異常はなし。鏡は、現実と異なる情報を返す。『まだ十二人』」
「死因は?」木暮がかろうじて声を出す。「見たところ、出血だけでは……」
「外傷は、少ない」嶺木が死体の周囲を、触れずに見渡す。「鼻孔に薄い赤。口の端にも。喉に指の痕はない。あざも。胸に打撲痕……いや、違う。影だ。照明の角度でそう見えただけだ」
「毒?」井之口の声は、事務的で、感情を嫌う。
「確定できない」教授は短く首を振る。「今の我々には、検査の手段がない。今できるのは、記録と保全、そして、他者への警告だ」
「警告なら、もう出ている」香月が鏡を見る。「『まだ十二人』」
零司は、ファインダーから目を離した。離れた世界は、広いのに、狭い。鏡の中の文字は、目を離しても残像として視界に粘りつき、紙の上の整った筆記体がそれを補強する。彼はカメラの角度をわずかに変え、鏡の面ぎりぎりで、部屋の奥を舐めるように撮った。黒曜石の継ぎ目の一本が、他と違う方向を指している。指している先は、窓ではない。床の弧でもない。ベッドの下でもない。部屋の天井の四隅の、ひとつ。
「教授」零司は声を出さず、その隅を指差した。教授が目だけでそこを見る。黒曜石の面が、光を拾っていない。拾っていない面は、そこで呼吸していない。呼吸のない面は、ここでは穴だ。穴は映らない。映るのは、穴の縁だけだ。
「後で、明るい時間に確認しよう」教授は小声で言い、すぐ普通の声に戻す。「まず、部屋を封鎖する。鍵は私が預かる。出入りは私と嶺木、井之口のみ。香月、君は、昨夜の会話の記録を思い出せる範囲で書いてくれ。零司、映像のバックアップを。鏡の文言も含めて」
「はい」井之口が鞄から赤い紐を取り出し、扉の外側に簡易の封を施す。赤は鏡の赤と違う。乾いた、事務用の赤。死は、紙の赤では扱えない。扱えないことを承知で、紙は赤を使う。
封を終え、皆が廊下へ出る。扉が閉まり、鍵が回り、金属が乾いた声を出す。その声は壁に入らず、床で止まり、今朝の海の音と混じって薄くなる。久遠が録音機のヘッドフォンを耳に押し当て、目を閉じた。彼の口が無意識に開き、母音が出ない。出ない母音は、喉の奥で震え、彼の肩に乗った。
大広間へ戻ると、赤い点滅は相変わらず規則正しい。規則正しいものが、最も信用できない朝だ。瑞貴が椅子に腰かけ、足を組み、空気の密度を指で測る仕草をする。「これで、いよいよ『密室』ね」
「言葉に名前を与えるのは、後にしろ」教授が静かに制する。その制止の声は、今朝の最初の命令だった。命令は、ここでは足場だ。足場は、すぐ崩れる。それでも、いったんはそこに乗る。
香月は椅子に座らず、壁の黒に向かって立った。彼女の背中は、映らない。映らない背中の縁が、今朝は昨日より少し硬い。硬さは温度ではない。密度だ。密度は、罪の重さと似ている。彼女はその縁を両手で押すようにして、静かに言った。
「私たちは、閉じ込められたんじゃない。閉じ込めている。『まだ十二人』。この言い方は、外からじゃない」
「内から?」瑞貴が眉を上げる。「誰の内?」
「館の」香月は即答しない。それでも、その語を選ぶ。「この建築は、履歴を集める。音の履歴、視線の履歴。呼吸の履歴。昨夜、零司の映像に『十三』が映った。今朝、鏡が『十二』を返した。どちらも、正しい。正しいもの同士が矛盾するとき、ここでは『館』が数える」
「だったら」嶺木が皮肉を抑えきれず、小さく笑う。「館に尋ねればいい。次は誰か、と」
誰も笑わなかった。笑いは、音のない壁で死ぬ。瑞貴が視線だけでテーブルの端を見た。そこには何もない。鏡の中にしか、赤い字はない。香月がゆっくりと振り返る。彼女の視線の先で、絵里奈が口を結んだまま、零司を見ていた。
「零司」絵里奈の声は細く、しかし硬い。「昨夜の、あなたの映像。扉の前で、手に……」
「血」零司は代わりに言う。彼の喉が、先にその言葉を用意していた。「匂いは、現実だった」
「誰の血か、わからない」
「わからない」零司は、やや遅れて同じ語を返す。繰り返すことが、ここでは防御になる。防御は、薄い。
香月は、彼の肩の少し上に視線を置いた。そこは、人の顔の高さより少し上。鏡の中で線が走った高さ。「あなたの手ではないにしても、あなたのカメラだ。記録は、あなたを通る」
「通過点なら、まだいい」瑞貴が言う。「行き止まりにならないと、いいけど」
教授が手を叩いた。乾いた一度。反響は、珍しくきれいに返った。返る反響は、合図になる。「各自、二人一組で動く。単独行動を避ける。扉に封をした部屋には近づかない。夜の照明が落ちたら必ず部屋に戻れ。いいな」
返事が重なる。重なりは不均等で、誰かの声が少しだけ早く、誰かの声が少しだけ遅い。その遅速の差を、黒曜石の面が覚える。覚えたものは、夜に書き換えられる。書き換えられた夜は、朝に読めない。
零司は、カメラの液晶を閉じた。黒い板は、黒曜石の面と同じ色を持ち、同じではない。肩のストラップが骨に当たる。痛覚が戻る。戻る痛覚は現実だ。現実は、楽ではない。彼は絵里奈と目を合わせ、一瞬だけ頷いた。彼女は頷き返さない。返さない仕草だけが、約束になる。
廊下の足下灯が、ひとつ、またひとつ死んだ。誰もいない場所の白い楕円が消え、消えた場所に黒が入る。入った黒は、新しくない。古い黒だ。古い黒は、ここへ来る前からあった。海の声が窓のない壁の向こうで薄く重なり、久遠がヘッドフォンの外からそれを数えようとして、やめた。「い」「う」は、やはり少ない。「あ」が、増える。あ、あ、あ。驚きの母音。開口の音。開いたまま、閉じない。
零司は、鏡の中の赤い文字を思い出す。まだ十二人。今は、たしかに十二。今の「今」が、どれほど続くのかを、誰も知らない。知っているのは、館だけだ。館は、知らないふりがうまい。
扉の向こうの封印の赤は、紙の赤でしかない。紙の赤は、夜の鈴に勝てない。鈴は鳴らない。鳴らないときほど、長く続く。野々村の部屋の鍵は教授のポケットにある。ポケットの布は、汗で少し湿っている。湿りは乾くだろう。乾く前に、日が落ちる。日が落ちる前に、誰かがまた数を数える。十二か、十三か。鏡は、なんと答えるか。
零司は、レンズキャップを指先でなぞった。キャップは、いつでも外せる。外す前に、息を数える。吸う。止める。吐く。数えることだけが、ここでは約束の代わりだった。約束は、今朝、まだ破られていない。破られていないことは、続きの条件だ。条件が揃うと、物語は動き出す。動き出した物語は、人を選ばない。黒曜館の黒は、選ばない色で満ちていた。椅子がひとつ、軽く軋んだ。誰も、座っていない椅子だった。誰も座っていない音が、壁に入らず、床で止まり、誰かの足元で薄く震えた。




