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黒曜館の十三人(インスパイア元:十角館の殺人/綾辻行人先生)  作者: 妙原奇天
◆第1幕「追悼と集結」

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第5章 閉ざされた海

 朝の色が、ここにはない。天窓は鈍く白いだけで、空という言葉が館の天井に取り外されて置き忘れられている。発電機の唸りは昨夜より浅く、しかし途切れない。零司は湯気の立たないマグの縁に指をかけ、指先の温度が器の黒に吸われていくのをぼんやりと感じていた。


 「船着き場を見てくる。戻りは一時間」


 嶺木が工具袋を肩にかける。堀内が無言でうなずき、黄色い雨具のフードをかぶった。霧はまだ低い。大広間の扉を開けると、黒曜館の黒がいったん濃くなり、直後に海の白へほどける。二人は霧の方へ消えた。


 零司はそれを見送って、カメラの重みを肩から外した。昨夜から、この機械の密度が少し変わっている。握るたび、手の中の骨の並びが違う。違うのは骨ではなく、記憶の配列だ。配列は夜のあいだに組み替えられ、朝の指に馴染まない。


 嶺木と堀内が戻ってきたのは、予定より早かった。足音が黒曜石の面から跳ね返らないまま近づき、扉が重く閉まる。


 「ない」


 嶺木は一言だけ置いた。雨具の裾から水滴が床に落ち、黒い目地の上で丸まり、すぐに消える。


 「流されたのか」教授が訊く。問いは淡白で、答えが限定されるような角度を持たない。


 「痕跡も、ない」堀内はフードを外した。髪に霧が結ばれている。「係留ロープが切れた跡も、擦れも。クリートの周りに砂は寄っていたが、踏み荒らした形跡はない。夜のうちに、人がいじったとは思えない」


 「係留具そのものは?」零司が口を挟む。


 「ある。錆びも少ない。昨日、俺が触った位置のまま。ただ、桟橋の先の木板が一本、たわんでいた。下が空洞になっている感じだ。波が噛んだにしては、静かすぎる」


 静かすぎる、という言葉が館の空気に乗る。今朝の海は、たしかに静かだ。音はある。波はある。だが波の音は波の音らしい厚みを持たず、耳の浅いところを撫でていくだけだ。撫でられた鼓膜は、撫でられる前の形に戻らない。形の戻らない音は、永遠に薄い。


 「すぐに救助船を手配する。こちらの都合ではないが、連絡さえつけば……」


 教授は通信機の前に膝をついた。赤い点滅が律儀に続き、液晶の文字は昨夜のまま、無表情でそこにいる。嶺木が端子をまた外し、磨き、差し込む。教授は外のアンテナへ繋ぐラインを手で追い、黒いケーブルの固さを指先で測った。


 「合図は送れているはずだ。受け取らないのは向こうだ」教授は言葉で自分の位置を固めるように、淡々と付け加えた。「島の反対側に出れば、衛星への見通しが良くなるかもしれない。昼前に丘を越える班を組む」


 「いい計画ですけど」と野々村が、いつもより一段低い調子で笑う。「館ごとミステリーに閉じ込められたみたいだ」


 笑いは壁で増幅されず、床で吸収され、黒い目地のなかに溶けた。香月はその笑いを拾わなかった。拾わない動作で、彼女は返す。


 「私たちが閉じ込めたのかも」


 言葉が、軽くなかった。椅子の脚が一つ短くなるように、座面の水平がわずかに傾く。零司は彼女を見る。彼女の瞳孔は、光の量に合わない大きさで開き、黒曜館の壁の黒と互いの黒さを比べようとするかのように、じっとしている。「閉じ込めた」という語が香月の口から出てくるとき、それは罪の配置と同義になる。


 「誰を、何から閉じ込めたのか」教授が問う。問いは、そこから先に進まない形で宙に浮く。答えの不在が、朝の湿度に溶ける。


 久遠が、ポケットから小さな録音機を取り出した。光沢のない灰色のプラスチック。彼はヘッドフォンを首にかけ、録音機の画面を親指で撫でる。


 「海の音を録っているんです」彼は言い訳するように微笑んだ。「さっきから、波の間に……声が混じってる」


 瑞貴が、面白がるのを我慢するみたいに眉を上げた。「幻聴の研究も、ここでできそうね」


 「幻じゃないのかもしれない」久遠は笑わない。「波が崩れる瞬間に、母音だけが立つ。人の口の開き方に似てる。『あ』『え』『お』。子音がないから言葉にならない。なりかけで、止まる」


 香月が静かに頷いた。「止まる言葉ほど、壁に残る」


 「天候は?」井之口が窓のない壁に向かって問いかける。窓のない壁は、空の代わりに自分の色を、ほどよく返すだけだ。


 「霧は薄くなるが、風が出る。波は上がるだろう」嶺木は先ほどの海の匂いをまだ身体にまとったまま、即答した。「今のうちに丘を越えよう。救助は当てにならない」


 昼近く、四人で丘を越えた。教授、嶺木、木暮、堀内。零司は館に残り、機材と留守番を引き受けた。黒曜石の壁は昼の静けさを知らない。音の反射は時間の階段を半段ずらし、足音の帰り道をあいまいにする。残った者たちは、残されたという事実を言葉にせず、各自の小さな作業に逃げた。


 久遠は玄関の外でマイクを海へ向け、耳を覆って波の母音を数えた。「あ」「え」「お」。なぜか「い」がない。「う」も浅い。浅い母音はすぐに波へ返る。瑞貴は彼の横顔を見ながら、両手をポケットに入れ、風を測るふりをした。香月は大広間の片隅、黒曜石の面に背を向けずに座るやり方を見つけようと、椅子の位置を何度も変えた。零司は通信機の前に座り、赤い点滅を数えた。規則は規則だ。規則は、ときに恐怖を削る。だが規則のなかに微小なズレを見つけてしまった瞬間、恐怖はそのズレの形をとる。


 丘の向こうから戻ってきた教授は、答えを持っていなかった。見通しは良くならず、衛星は沈黙したままだった。風が出て、波が高くなり始めていた。海は、抱え込んだものを返す気配を見せない。返さない海は、美しい。美しさは、残酷と同じ足取りを使う。


 夕方になり、発電機の音がいったん上ずり、すぐに落ち着いた。灯りは最小限に絞られる。厨房では冷たい夕食が用意され、誰も冗談を言わないまま皿の上のものを口へ運ぶ。噛む音が壁へ行き、戻ってこない。戻らない音が多くなると、人間は自分の咀嚼の仕方を忘れる。忘れると、噛めなくなる。噛めなくなる前に、食べ終える。


 夜、零司は部屋に戻り、扉に鍵をかけ、机の上のカメラをこちらに向けて座った。机の黒がレンズの黒を吸い、レンズの黒が部屋の黒を飲み込む。飲み込まれたものの輪郭は、いつも遅れて胃のあたりに重みを落とす。それが不快かどうか、彼は判断を遅らせることに慣れている。判断を遅らせる癖が、しばしば彼を救ってきたし、同じくらい彼を深い穴へ落としてきた。


 昨夜の映像。扉の前の闇。灰の帯。低い位置を滑る影。指先の白。それらをもう一度、細切れの光のスライドとして確かめ、次に録音リストをスクロールする。五時三分の謎の短い断片。その前と後のファイルとの時間差。カメラの内部時計に狂いはない。狂っているのは、ここで流れている時間の方かもしれない。小さな画面の上で数字を追う行為は、黒曜館の呼吸に逆らう唯一の運動だった。


 スクロールの末尾に、見覚えのないファイル名があった。今しがた付いたばかりの、日付と時刻。二十一時十二分。彼は息を止め、指の腹で軽くタップした。


 映像が始まる。画角は固定されている。誰かが三脚に載せたような安定。部屋の扉の前、廊下に通じる黒い額縁のような開口部が中央に来て、その左右を黒曜石の面が占める。足下灯の漏れた白が、床の目地を薄く撫でている。音はない。発電機の低い帯域も、この映像には含まれていない。無音の黒は、耳の内側で勝手に鳴る。


 扉の前に、人が立っている。零司は瞬時に自分だと思った。肩の線、骨盤の高さ、ストラップのたるみ具合。カメラの重量でわずかに右肩が下がっている癖。癖は本人しか知らない。本人はそこにいた。ファインダーは開いていない。液晶も点いていない。電源は、入っていないはずだ。だが、映像の中の自分は、右手でカメラを握り締めている。


 握り方が違う。レンズを守る持ち方ではない。殴るときの握り方だ。拳が機械を包み、機械の角が拳の内側を押し返す。機械の縁に、黒いものがついている。黒曜館の黒ではない。黒には艶があり、艶は乾いていない。光がない映像で、艶が見えるはずはない。見えるのは、知っているからだ。知っているということは、ときに無謬より確かで、ときに錯誤より危うい。


 血だった。濃く、まだ流動の記憶を捨てていない黒い赤。ストラップにも薄く塗られている。指の関節の皺に沿って入り込み、爪の生え際で固まりかけている。零司は画面へ顔を近づけ、匂いを探す愚かな真似をした。匂いは画面からは来ない。代わりに、部屋の空気が薄く鉄を含んだ。含んだ瞬間、彼は鼻腔の奥がひりつくのを感じた。記憶は嗅覚に敏感だ。


 映像の中の自分は、扉の前で立ち尽くしている。動かない。呼吸も見えない。足下灯の楕円が、彼の足元で微かに揺れる。揺れは彼のせいではない。揺れは館のせいだ。揺れが止まり、画角がわずかに引いた。カメラが自分から距離を取ったのではない。自分が、画面の中で遠ざかった。遠ざかると同時に、黒曜石の面に自分の背中が映らないことが、画面にも再現された。そこにあるはずのものが、ない。ないことが、映像の中で正当化されている。


 零司は録画の情報を開いた。自分で撮った記録に、自分の知らない自分が映っている。その不条理は、面白いと感じるべき種類のものではなかった。こめかみが冷たくなり、肩の筋肉が硬直し、親指が無意識にキャップの縁を探す。キャップは外れている。指先は空を掴む。映像は続く。扉の向こう側が、わずかに明るくなる。明るくなるはずのない時間帯だ。明るいのは、足下灯ではない。誰かの手持ちの光だ。光は低く、床に近い高さで漂い、扉の縁で止まり、薄く上下する。上下のリズムは、呼吸に似ている。


 画面の自分は、その光を見ない。見ないという意志が、動かない身体の内側に存在している。見ないという意志は、見る以上に視線をそこへ固定する。固定された視線は、対象を濃くする。濃くなったものは、記録に強く刻まれる。刻まれたものが、誰の記録であるかが、今はもう問題ではない。


 映像は三十秒で終わった。終わる直前、画面の自分の手が、かすかに震えた。筋の内側で固まっていた血が、動きに合わせて薄く剥がれ、ストラップに糸を引く。その糸が、画面の端で切れる。切れ目はきれいだ。きれいな切れ目は、刃物の仕事だ。


 零司は息を吐き、背もたれに背を預けかけ、やめた。背中を壁に向けるのは、今夜はやめた方がいい。椅子の上で半身を捻り、扉を横目に入れた。扉は閉まっている。鍵はかかっている。鍵の顔は、昨夜の顔と同じだ。だが匂いが違う。金属の匂いに、鉄が混ざる。鉄の匂いは、血の匂いだ。匂いは記憶を呼ぶ。呼ばれた記憶は、ここでは必ずしも本人のものとは限らない。


 彼は机から身を起こし、カメラを持ち上げた。手のひらの内側、親指と人差し指の間で、何かが薄く引っかかった。見る。ストラップの縁に、黒い筋が一条。筋は乾いていた。乾いているが、表皮の脂でわずかに艶を戻す。鼻を近づける。匂いはした。鉄の、薄い湿り。映像の中の匂いが、映像の外にある。外と内は鏡像ではない。内は外を呼び、外は内を締め出す。


 「零司?」


 扉の向こうで香月の声がした。彼は返事をしない。返事のタイミングを、壁が吸い込む。吸い込まれた返事は、別の声になって戻る。彼は立ち上がり、扉の前へ行き、鍵を外した。鍵の金属音が、今夜だけは壁へ行かず、床の目地で止まる。扉を開ける。香月が、足下灯の楕円の境目に立っていた。彼女は彼の顔を見て、言葉を選ぶ筋肉をいったん無効にした。


 「大丈夫?」


 「映像に、俺がいた。扉の前で。手に……」


 言いながら、零司は自分の手を見た。指の間に黒い筋はない。爪の生え際は白い。だがストラップの縁の黒は、そのままだ。香月は彼の肩越しに部屋の中を見、机の上のカメラに目をとめ、ひざまずいてストラップを指で撫でた。指先が止まる。「匂う」


 「血だ」


 香月は顔を上げ、目だけで彼を見る。「いつから?」


 「わからない。映像は二十一時十二分。三十秒。俺は……その時間、ここで編集の画面を見ていた。扉の方は見ていない」


 「見ていない、のね」


 見ていない、という言葉が廊下に落ち、壁に跳ね返らず、扉の枠で薄く音を出す。香月は立ち上がり、扉の縁に手を添えた。黒曜石の面に彼女の掌の輪郭が、白い粉塵のようにわずかに残る。残った輪郭は、すぐに消える。「館が、記録を始めたのかもしれない」


 「誰の?」


 「誰のでもない記録。誰でもない記録は、のちに一番強い証言になる」


 瑞貴の声が遠くから飛んできた。「零司、ちょっと来て。大広間」


 二人で向かう。足下灯の楕円が、いくつか欠けている。欠けは昨日と同じ場所と、違う場所。違う場所の欠けは足をすくう。黒曜石の面が、二人の影を反射しない。反射がないことが、反射の役目を奪う。奪われた役目は、別のものを強くする。


 大広間では、嶺木と堀内と井之口が床の亀裂の周辺にしゃがみ込み、耳を床に近づけていた。教授は通信機の前から離れ、壁へ背を向けずに立つ位置を探している。瑞貴は椅子の背に片手を置き、目だけ笑っていない顔でこちらを見た。


 「床、鳴る?」零司は訊いた。


 「さっき、ひとつ。低い音」嶺木が答え、亀裂の中心をナイフの柄で軽く叩く。「今は静かだ。静かすぎる」


 久遠が録音機を手に戻ってきた。「海、声が増えた。数が増えるんじゃなく、重なってる。レイヤーが厚い。『あ』『え』『お』が多い。『あ』が、強くなった。あ、あ、あ」


 「それは呼びかけじゃないわね」瑞貴が肩をすくめる。「驚きの母音よ」


 「驚いているのは海の方かもしれない」香月が言う。「閉じ込められているのは、私たちだけじゃない」


 教授が短く手を挙げた。「落ち着こう。まず、現状を確認する。船はない。通信は沈黙。丘の向こうも同じ。天候は悪化。館は夜の照明をさらに落とす必要がある。床下の空間は明日、朝一番で開ける。今夜は、無闇な移動を避ける。各自、部屋に——」


 言い終える前に、通信機の赤い点滅が一瞬だけ消えた。消えた、というより、濁った。赤の向こうに黒が透ける。直後に赤は戻る。同じテンポで点滅する。誰も声を出さなかった。誰も、今の揺れを言葉にのせない。言葉にのせると、それは固有名詞になる。固有名詞になったものは、ここでは生き延びる。


 「零司」瑞貴が近寄り、声を落とす。「顔色。白い」


 「映像を見た。俺が、扉の前で。手に血」


 瑞貴は目だけで笑い、声は笑わなかった。「好きなジャンルね」


 「違う」


 香月が割って入る。「違うのよ。彼の好き嫌いではない」


 瑞貴は肩をすくめ、視線で言い直した。「怖い?」


 零司は答えず、肩のストラップを押し下げた。骨に当たる角度が、変わる。痛覚は現実への最後の通路だ。通路が細くなる前に、彼は言った。「映像の匂いが、ここにあった」


 「匂い?」教授が顔を上げる。


 「鉄の。ストラップに」零司はストラップの黒い筋を指で示した。教授が近づき、身体を折って嗅いだ。彼の目の下の皮膚が、わずかに硬くなる。顔は動かない。動かないが、目の中だけが忙しい。


 「——血だな」


 「誰の?」井之口の問いは、正確で、残酷ではない。


 「調べようがない」嶺木が肩をすくめる。「ここでは」


 「ここでは」香月が繰り返す。「ここでは、の範囲が、狭くなっている」


 狭くなった範囲を、黒曜館は正確に知っている。知っているものは、知らないふりがうまい。知らないふりをされるほど、人間は自分の位置を見失う。見失った位置に、夜が来る。


 夜。発電機の音がさらに低く抑えられ、足下灯はところどころで死んだ。死んだ灯りの周囲で、黒曜石の面は呼吸のように膨らんだり縮んだりする。零司は部屋に戻る途中、壁に背を向けて、映らない背中の空白を確かめようとした。今夜の空白は、昨日より硬い。硬さは温度ではなく、密度だ。密度の高い空白が、彼の肩甲骨の間に薄い圧をかける。圧は痛みになる寸前で止まる。


 扉を閉め、鍵をかけ、机の上のカメラをもう一度持ち上げる。手の汗が冷たく、グリップのラバーが異物のように感じられる。映像のファイルを再生するために、彼は自分の親指がどれほどの圧でボタンを押すのかを意識した。ボタンは弱い。弱いものを押す行為は、暴力に似ている。その似方は、ここではときに美しい。


 映像は同じだ。扉の前で、自分が立ち尽くす。血のついたカメラを握って。匂いは、もう画面の外からも来ない。匂いは、彼の鼻の奥に残り、嗅覚の粘膜にこびりついた疲労の形として慢性化する。画面の自分は、最後にほんの少しだけ顔を傾ける。傾けた方向は、カメラのこちら側——つまり、見る者の場所だ。


 見る者と見られる者の境界は、黒曜館では夜になると薄くなる。薄くなった境界へ、波の母音が上がってくる。遠くて近い海の声が、窓のない壁を通して部屋の空気に混ざる。久遠の言った「あ」「え」「お」。そのうちの「あ」が、明らかに増えている。驚きの母音。呼びかけの母音。開口の音。口を開けて、何も言えない音。


 零司はふと気づいて、机の端のメモ帳を手に取った。日付、時刻、映像の長さ、匂いの有無。単語の列。列は彼を安心させる。列は、恐怖を直線に変える。直線は、どこかへ向かうふりをしながら、同じ場所へ戻る。戻る途中に、穴がある。穴は数字で埋まらない。


 部屋の外の廊下で、誰かの足音が二歩だけして、消えた。零司は扉を見る。鍵はかかっている。鍵の顔はやはり同じだが、鍵穴の暗さが、今夜は深い。暗さの中に、薄い光の線が縦に走った気がした。それは人の目の高さより少し上にあって、顔ではなく、顔の影に見えた。


 彼は自分の背中を壁から遠ざけ、椅子の前縁に座った。ストラップを肩から外し、カメラを机に置く。置いた瞬間、机の黒が薄く波打った。波打ったのは彼の視覚だ。黒曜石の呼吸に、視覚が同調した。視覚の呼吸は、恐怖に似ている。


 逃げ場のない構造。逃げ場という言葉を、彼はここで何度も心の中で使っている。逃げ場は、物理の話ではない。視線の行き場、言葉の止まり場、呼吸の置き場所。黒曜館は、その全部を奪う方法を知っている。知っているものは、知らないふりがうまい。知らないふりをされているうちに、夜は深くなる。


 やがて、発電機の音が一度だけ不規則に揺れた。揺れはすぐ戻り、足下灯の死んだ楕円の輪郭が一瞬だけ蘇ったように見えて、また消える。消える直前、鈴の音がひとつ。短く、乾いて、遠い。誰のものでもない鈴。誰のものでもない音。そういう音だけが、記録に残る。


 零司は目を閉じ、耳の内側の母音を数えた。「あ」「あ」「あ」。数えているうちに、数は形を持たなくなり、波のパターンに引き取られる。引き取られた数は、数字ではなく、人の数になる。十二か、十三か。その境目で、彼は眠らなかった。眠らないことが、唯一の防御になる夜が、長く伸びた。長く伸びる夜は、海の上に、水平に横たわる。


 外では、海が館を囲い込むように音を重ね、重ねた音の隙間で、誰かの名を母音だけで言った。呼ばれた者は、ここにはいない。いないことだけが、確かなこととして、黒曜石の面に薄く刻まれた。刻まれたものは、朝に読めない。読めないまま、閉ざされた海は、さらに静かになった。静けさは、ここでは、嵐と同義だった。

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