表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒曜館の十三人(インスパイア元:十角館の殺人/綾辻行人先生)  作者: 妙原奇天
◆第1幕「追悼と集結」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/20

第4章 深夜の記録

 夜は、館のなかで別の速さで進む。発電機の低い唸りが、身体のどこかひらたい骨をゆっくり磨くように響き、足下灯は間引かれて、廊下の白い楕円はところどころで消えている。零司はカメラを肩に掛け、指先でレンズの縁を確かめた。金属の冷たさが指紋の皺に入り、指紋は自分のものであるはずなのに、今夜だけは少し他人のもののようだ。


 時刻は二十四時を過ぎていた。皆はそれぞれの部屋へ散り、鍵を掛けた。教授は大広間の照明をもう一段落とし、発電の負荷を下げるよう注意し、最後に扉を二重に施錠した。「明朝、六時に再開」と短く言い残して去った。零司は一度部屋に戻ったが、ベッドの布団に背を預けることができなかった。背を壁に向けると消えてしまう錯覚は、昼間よりも濃い。背中がここにないという思いが、呼吸を浅くする。


 廊下に出ると、音は少なく、しかし消えない。遠いところで誰かが本を伏せる音、もっと遠いところで水が管を通る音、足下灯のカバーの内側で小さな虫が翅を擦る音。黒曜石の壁はそれらを吸い込んで、同じだけ吐き出すわけではない。吐き出した音は形を変え、順序を乱し、時間の層の間にはまって、少し遅れて出てくる。出てきた音は、今じゃないものに聞こえる。


 零司は左手でストラップの長さを調整し、右手でモードダイヤルを回した。静止画ではなく、映像に切り替える。フレームレート、ISO、絞り。光は足りない。足りないからこそ、わずかな光が支配的になる。支配的な光は、真実を隠すのがうまい。彼はファインダーを覗いた。覗くと、視界は矩形に切り取られ、余白が消える。余白が消えると、恐怖はフレームの内側へ入ってくる。


 歩く。廊下の楕円が一つ、また一つと足元を通り、壁の面は黒のまま揺れ、天井の換気口からのゆるい気流が襟元を撫でる。カメラは低いブツブツという電子の脈を保ち、録画の赤い小さな点が、ひかりと影の境目で微かに瞬いた。彼は踊り場をひとつ越え、右の廊下へ折れ、さらに奥へ。黒の面が彼を拒まず、しかし映さない。背中を向ければ、また何も出ないに違いない。今は試さない。今は、ただ記録する。


 奥の扉の方から、低い声がした。二人分。男と女。声は壁で丸められて、内容が割れている。


 「彼女の死、まだ事故って言い切れるの?」


 先に届いたのは女の声だった。香月の、時折金属を含むように鳴る響き。零司は歩みを緩め、角の手前で立ち止まった。画面の中央に、消えかけた足下灯の楕円が一つ。周辺の黒は濃く、扉は見えないが、扉の向こうに在る空気の質だけが、他より重たい。


 「もう終わったことだ。思い出すな」


 男の声は野々村のものだ。口の中で早めに言葉を作り、外へ出す前に一度噛み直す癖のある声。彼の言葉が扉の縁で少し欠け、欠けた部分に香月の息の音が入る。


 「終わってない。あの日、あなたは……」


 そこまで聞いた瞬間、照明が消えた。足下灯だけでなく、大広間へ続く細い誘導灯まで、いっせいに。闇が落ちるのではなく、闇が膨らむ。視覚の床が一段沈み、体重が足首に集まってバランスが狂う。零司は壁に手を伸ばした。黒曜石の面は冷たい。冷たさは形を持っている。掌の中央から縁に向かって広がり、指先で尖る。


 発電機の音は止まらない。ただ、音の色が変わった。低い中に、ひとつだけ薄い笛のような成分が混じる。その成分は、耳の奥のどこかを刺して、痛みにはならないが、体内の水分の分布を変える。零司はファインダーへ眼を押しつけ、視度を素早く合わせ、ISOを最大に上げた。暗い場所での粒は避けられない。粒は雪のように画面を覆い、雪の中に黒い面の縁と、扉の輪郭が薄く浮かぶ。


 ファインダー越しに、何かが通り過ぎた。黒に近い灰の帯、肩から肩へ渡るひとつの線、そしてすぐに切れる肘。人のようでいて、人ほどためらわない速さ。速すぎないのに、速い。零司は反射でシャッターボタンを浅く押し込み、AFの枠が追従するのを待たずに深く切った。音はほとんど出ない。消音に近いシャッター音が、しかし館の内部では逆に乗算されて、どこかで鈴の音に似た響きを帯びる。


 心臓の鼓動が画面を揺らす。揺れが恐怖の形をしているのか、恐怖が揺れの形をしているのか、判別がつかない。香月の声は続かない。野々村の声もない。扉は画面の左に薄く見え、その手前、床の一部がわずかに盛り上がっている。その盛り上がりが、まるで内側から押されているように見える。足下灯の残光が遅れて戻り、盛り上がりの縁を一瞬だけ白く縁取る。


 零司は、息を止めた。指はもう一度、シャッターに触れる。画面の端で、灰の帯が再び動く。今度は、人の背の高さではない。低い。床に近い。獣ほど四肢の輪郭を持たず、布の束のように滑る。滑りは扉の隙間で止まり、隙間は開かない。開かないはずなのに、そこから冷たい気流が出る。気流は彼の頬を斜めに撫で、耳の後ろで小さく巻き、襟の内側でほどける。


 「香月さん?」


 零司は呼びかけなかった。声を出すと、自分の声が先に戻ってくる。戻ってきた声が今の自分の声よりも強かった場合、現実の優先順位が入れ替わる。それを避けた。かわりに、廊下の床へカメラを向け、ゆっくりパンした。黒のなかに、足跡は見えない。見えないが、床の光沢がほんの少し乱れ、目地の一本が他と違う角度で光を拾う。そこだけ、何かが一度だけ乗って、すぐに降りた跡。


 ぱち、と小さな音がした。スイッチの音ではない。燃える音でもない。石が、乾いた音で自分の内部のひとつの空気溜まりを潰した音。それに続いて、照明がひとつ戻った。足下灯の楕円が点き、次にまたひとつ、さらに遠くでひとつ。全部は戻らない。戻らない闇は、元の形より大きく、点き始めた光は、わずかに黄味が増して見えた。


 扉の方から、声がした。


 「……誰か?」


 野々村の声だ。香月は返事をしない。零司は画面の中央を扉に合わせた。扉は閉じたまま。取っ手の金属が、点いたばかりの足下灯の反射で薄く光る。そこに、映ってはいけない形がわずかに滑った。指先。爪の白い半月。そしてすぐに消える。零司は前へ出ようとしたが、足が動かない。動かないのではなく、動く理由が、今の自分の肉体の中に見当たらない。動く理由は扉の向こう側にあるように思え、その事実が足裏の皮膚を薄くし、冷たさを通す。


 そのとき、大広間の方でかすかな金属音がして、続けて短い鈴が四つ、風に負ける寸前の音量で鳴った。零司は振り向いた。誰もいない廊下の奥で、黒曜石の面が波打つ。波打つのは光だ。光が波打っているのに、波の原点が見えない。恐怖は、原点が見えないときに強くなる。見えるものより、見えないものの方が簡単に増殖する。


 やがて、また闇が一段深くなった。切り取られたように。零司は録画を止めなかった。止めてはいけないと思った。撮っていなければ、今のものはどこにも残らない。残らないものが朝になって誰かの言葉で形を与えられたとき、それは違うものに変わっている。違ったものを見続ける癖は、十年前から彼の中で始まり、今も強い。


 数分後、照明は少しずつ戻り、最低限の通路の光が安定した。扉は相変わらず動かず、野々村の声もしなくなった。香月は終始、何も言わなかった。零司は踵を返し、足音をできるだけ小さくして、大広間まで戻った。通信機器の赤い点滅は、まだ規則正しく続いている。規則は安心を運ぶが、同じ規則が長く続くと、不安の器に姿を変える。赤は誰の血でもない。誰の血でもない赤が、一晩中続く。


 部屋に戻ると、鍵をかけ、机にカメラを置いた。手が冷えている。冷えは骨の内側に入り、関節の滑りを重くする。彼は椅子に座り、録画の最後の五分を再生した。音はほとんど拾えていない。拾えていないのに、拾えなかったはずの音を脳が補う。香月の声の余韻、野々村の抑圧、鈴の重なり。画面には粒が舞い、粒の奥から扉の縁が出たり隠れたりする。その一瞬ごとの明滅の隙間を、何かが確かに通る。細い、しかしはっきりと立体のある帯。身体の輪郭のないもの。彼は一度再生を止め、時間コードをメモに写した。二十三時五十四分から五十九分の間。三箇所で、動きがある。


 睡眠は浅かった。夢で、廊下の黒い面に背を向ける。映らない背中のかわりに、面の奥で誰かが肩をすくめた。肩は笑っていない。肩に表情があるなら、それは怯えではなく、疲労だ。疲れた肩だけが、こちらを見た。零司はそこで目を覚ました。窓はない。時間の感覚は時計の数字でしか測れない。五時二十七分。発電機の音が昨夜より少し軽い。軽いのは、夜が終わったからではなく、誰かの重さが別の場所へ移ったからだ。


 朝、六時。大広間には既に数人集まっていた。教授は地図に手を置き、今日の行動予定を修正し始めている。井之口は湯を沸かし、カップを並べ、緑茶の袋を切って香りを空気に混ぜる。嶺木は通信機器の点検に膝をつき、赤い点滅を見て、軽く舌打ちを飲み込み、配線の一本を外して接点を擦る。瑞貴はその様子を少し離れて眺め、薄い笑みを浮かべた。香月は、昨夜の会話がなかった顔つきで、椅子に座り、壁の黒を見ている。野々村はまだ来ない。


 零司はカメラを持ち、机の端を借りた。絵里奈が近づき、小声で言う。


 「大丈夫?」


 「大丈夫かどうかは、映像が決める」


 「見せて」


 彼は頷き、昨夜の録画を再生した。シークバーを時間に合わせ、音量を最小にして、映像だけを追う。皆が自分の用をしながら、画面の方へ目を寄越す。教授も、手を止めずに視線だけで見た。香月は椅子を少し寄せ、背筋を伸ばす。野々村が入ってくる気配はまだない。


 最初の一分。闇が膨らむ瞬間。足下灯が落ちる直前の白い楕円。黒の中の灰色の粒。二分目、灰の帯が右から左へ。三分目、低い位置で滑る影。四分目、扉の縁に触れる指先。五分目、照明が部分的に戻る。


 「今の、見た?」絵里奈が囁く。「動いた」


 「止めて」教授が言い、零司は一時停止した。「三分二十秒のところ。拡大できるか」


 拡大は画質を壊す。壊すことを承知で、零司はフレームを切り出し、ズームをかけた。粒が粗くなり、輪郭が崩れる。崩れの中に、確かに線がある。肩から肩への、ひとつの水平の線。線は人のものとは限らないのに、人のものに見える。教授はうなずいた。


 「続けよう」


 再生は五分を過ぎ、やがて終わる。誰も何も言わない。空気だけが入れ替わり、黒曜石の面は朝の光の代わりに弱い照明の均質な白を受け取る。零司は録画リストに戻り、ファイルの横に並ぶサムネイルを見た。時刻、日付、長さ。昨夜のものの下に、新しいファイルがある。時間は五時三分。自動録画のような短い断片。彼は眉をひそめ、指を動かした覚えを探った。ない。ないのに、ある。あるのだから、開く。


 映像が始まる。フレームは固定されていない。誰かが持って歩いているわけではない。床に置かれているのか、肩の高さの棚に載っているのか、目線の位置が曖昧だ。画角の端に、テーブルの脚が見える。昨夜のテーブルだ。そこに、人が座っている。黒い皿、銀の縁、キャンドルの炎。晩餐の場面が、短く、断続的に記録されている。零司は息を吸い、吐いた。


 彼は数えた。画面に入っている頭の数を。最初に右端の教授、次に井之口、木暮、瑞貴、嶺木、現役の学生三人、沙耶、香月、野々村、絵里奈。十二。


 もう一度、数えた。数える順序を変えた。教授、井之口、嶺木、木暮、瑞貴、学生、学生、学生、沙耶、香月、野々村、絵里奈。十二。


 「十二よ」瑞貴が言った。半笑いで。「当たり前じゃない」


 次の瞬間、フレームがわずかに揺れ、画角が一度だけ引いた。引いた画角の奥に、壁の黒が写る。黒の手前、椅子がひとつある。椅子には、背が写っている。背は黒い。黒いが、黒曜石の黒とは違う。布の黒。布の黒の上に、肩がある。その肩は、顔をこちらへ向けない。向けないのに、顔の輪郭だけが見える気がする。


 零司は再び数を数えた。教授、井之口、嶺木、木暮、瑞貴、学生、学生、学生、沙耶、香月、野々村、絵里奈、そして、壁の手前の、黒い背。十三。


 「待って」絵里奈が身を乗り出した。「誰?」


 「椅子、そんなところにあったか?」木暮が言う。「昨夜、椅子は余ってなかった」


 教授は目を細め、画面から目を離さない。「戻せ」


 零司は数秒巻き戻し、もう一度再生した。十三人目の背は、炎の揺れに合わせてわずかに高さを変える。生きている。生きている動きだ。だが、影がない。キャンドルの光は背の肩に当たり、反対側に影を作るはずだ。作られていない。背の輪郭の外へ光が伸びない。伸びない光は、背の内側で消える。消える光は、目に痛みを残さない。ただ、指先を冷やす。


 「もう一度、数え直して」と教授。声が少し金属的だ。


 零司はフレームを止め、画面の上で指を滑らせた。指の動きに合わせて、数字だけが頭の中で増える。一、二、三……十一、十二、十三。数を終えるたびに、胃のあたりの筋肉が小刻みに収縮し、収縮の名残が背中の空白の縁を触る。


 「合成じゃないの?」瑞貴が言う。「いや、あなたはそんなことしないだろうけど」


嶺木はテーブルの脚を見て、画面と昨夜の記憶を照合するように指で空中に線を描いた。「椅子の位置、ずれてる。四脚目と五脚目の間隔が広い。誰かが押し広げた?」


 「わたし、覚えてる」香月がぽつりと言った。「最後まで消えなかったキャンドル、あれの向こう側に風が通った。風の方向は、あの椅子の方からだった」


 「誰がそこに座っていた?」教授が問う。


 誰も答えない。誰も、昨夜十三人目がいた晩餐に臨んだ自分を、今この場に呼び戻せない。呼び戻せない記憶は、証拠にならない。証拠にならない記憶だけが、黒曜石の面で長く生きる。


 零司は映像の最後まで送った。フレームは数秒の断片で切れ、最後の一コマで、十三人目の背はわずかに肩をすくめたように見えた。肩のすくめ方は、人のそれと同じだ。寒さに反応した肩でも、拒絶の合図の肩でもない。あれは、あきらめの肩。肩に表情があるのなら、絶望ではなく、疲労。誰の疲労か。十三人目自身のものか。われわれ十二人のものを集めた形か。


 「いつ、どこからこの録画が始まった?」教授の声が低い。


 「五時三分。録画ボタンを押した覚えはない。スリープから勝手に起きたのか、何かが触れたのか。三十七秒だけ」


 「三十七秒で、椅子が生まれるものかしら」井之口が呟く。「それとも、映るだけ?」


 「映るだけも、悪くない」瑞貴が笑い、すぐ笑いを消した。「ごめん。今は冗談、毒だね」


 嶺木が通信機器の前から立ち上がり、画面を覗き込む。「映っているなら、写ってもいるはずだ。昨日の写真、静止画。晩餐の最中、撮ったか?」


 零司は首を振った。「撮っていない。撮ろうとしたとき、シャッターの音が刃物になる気がした」


 「あなた、いつもそうね」瑞貴が言いかけ、言葉を飲み込む。香月が彼女を横目で見た。二人の視線の交差は壁で反響し、時間をずらして再び交差する。二重の交差。どちらが先だったか、記録に残らない交差。


 「香月さん」零司が口を開く。「昨夜、扉の向こうにいたのは、あなたと野々村さん?」


 香月は短く頷く。「ええ」


 「そのとき、照明が落ちた。何か、見た?」


 香月はわずかに首を振る。「暗くなった瞬間、野々村がわたしの手首を掴んだ。強く。『動くな』と言った。扉は閉まっていた。何も、見えていない。だけど、気配はあった。背の高い、肩幅の狭い気配」


 「気配に肩幅はある?」瑞貴が言う。冗談の形をしているが、冗談ではない。香月は答えない。野々村はまだ来ない。


 教授はテーブルから一歩退き、壁の黒を見た。黒は映さない。だが今朝はわずかに光を返し、誰かの背の高さの位置で微細にざわついている。「今日は、地下を開ける。灯塔跡は後回しだ。亀裂の下がどうなっているか確かめる」


 「賛成」嶺木が即答し、沙耶はうつむいたまま静かに頷いた。


 「ただし、その前に」教授が言葉を継いだ。「この映像のコピーを二つ作る。ひとつはここに、ひとつは私の身につけておく。原本は零司、君が持て。データの改竄を疑われないように、手順を記録して」


 零司は頷き、カードを抜き、ノートPCに挿した。読み込みのバーがゆっくり進む。進捗という言葉は、今朝のこの部屋では場違いだ。だが、現実はプロセスを持つ。プロセスはほとんどの場合、退屈だ。退屈に手を伸ばしておかないと、恐怖が全部を占める。


 読み込みが終わるまでの短い時間、誰も言葉を出さなかった。無言のあいだに、それぞれが心の中で数えていた。十二か、十三か。数えるたびに、数字の端が薄く崩れて、床のひびの縁に似た細い裂け目ができる。裂け目は目に見えないが、指先では触れる。触れると、冷たい。


 バーが最後まで届いた瞬間、背後の廊下で、短い足音がした。ひとつ、ふたつ、みっつ。続かない。続かない足音は、誰かがそれをやめたというより、足がそこから先の床を見失ったように聞こえる。香月が顔を上げ、教授がそちらへ一歩だけ動いた。黒い面が何も映さないかわりに、そこに在るはずの空気の厚みが半歩増した。


 野々村が、大広間の扉に姿を現した。顔色は良くない。薄い汗が額に浮かび、目の下の皮膚が硬い。彼は皆の視線をぐるりと受け止める前に、一瞬だけ壁の黒を見た。見られた黒は、何も返さない。野々村は咳をし、声を整え、言った。


 「停電の理由、配電盤を見たが、異常はなかった。ブレーカーは落ちていない。負荷がかかっていないのに一斉に消えるのは、ありえないが……ありえた」


 「ありえた?」教授が繰り返す。


 「目の前で、照明が消えた。誰も触れていないのに。すぐ近くで、誰かが笑ったような気がした。気がしただけかもしれない」


 零司は黙っていた。気がしただけは、夜にも朝にも通用する最後の避難所だ。逃げ込んだ者はそこから簡単に出られない。出られない者の肩は硬くなる。硬い肩は、画面の中でわずかに動く。十三人目の肩のように。


 コピーは終わった。零司はカードを戻し、カメラの電源を切り、ふたたび入れた。機械の微振動が手のひらに戻る。現実の微振動。彼はふと思い立って、カメラのメタデータを開いた。録画開始のトリガー。センサーによる動体検知。閾値はデフォルト。昨夜まで、そんな機能を使った覚えはない。機能が勝手に有効になっているのだとしたら、それを有効にしたのは誰か。自分か、他人か、館か。


 「零司」教授が静かに言った。「『記録』が、君を呼んでいるように見える」


 「記録は、誰かの呼吸でできている」零司は口に出したあとで、その言い方が春名のものに似ていると気づき、舌の奥の筋肉が固まるのを感じた。「呼吸が、今は十三ある」


 「十二じゃないのね」瑞貴の声が、かすかに笑いの形を持った。


 「映像では、十三だ」


 「実際は?」


 零司は答えなかった。数字は簡単に人を裏切る。裏切る方が、美しいときがある。美しい裏切りほど、後を引く。黒曜石の床のひびは、朝の光のない朝に、わずかに白く縁どられて見えた。縁どられた白は、乾いていない。乾いていないのに、水ではない。鈴の音の乾いた響きが、どこにもない空気の中で、今朝は鳴らなかった。


 彼はカメラの液晶を閉じ、肩に掛け直した。「地下へ行く前に、ひとつだけ。昨夜の扉の前で、何かが通り過ぎた。人の速度で、人じゃない形で。映像にも、かろうじて残っている」


 教授は頷いた。「それも、持っていこう。地下は『記録』の倉庫かもしれない。あるいは、記録の穴かもしれない」


 穴。零司はその言葉を反芻した。穴は数えられない。数えられないものは、約束の外側に置かれる。外側から内を見る眼がある。眼はふたつ。映るはずの背中が映らない鏡の奥で、誰かがこちらの数を数えている。十二、十三、十二。数える声は、壁に入って、すぐには戻らない。戻らない声のかわりに、今朝は沈黙が輪になってテーブルに座った。零司はその輪の外に立ち、肩の重みを左右に移動させ、ストラップが骨に当たる場所を微調整した。現実に触れている唯一の感覚は、そこにしかない。


 晩餐は昨夜で終わったのに、追悼は今朝、やり直しを始めている。十三という数は、黒曜館の外周の角より一つ多い。多いものはいつだって、どこかに余る。余りは、床の下で叩かれている。叩く音はもう聞こえない。聞こえない音ほど、長く続く。カメラは肩の上で黙っていた。黙っている機械ほど、よく記憶する。記憶は、息でできている。息が近い。誰の息か。十三人目の。


 零司は、朝の薄い光のない大広間で、ふと、背中を黒い壁に向けて立ってみた。映らない。映らない空白が、今朝はほんの少しだけ硬く、冷たかった。触れられるほどに。触れると、数が、一瞬だけ、十四になりかけて、戻った。戻るときに、鈴が、ごくごく遠くで、ひとつだけ鳴った。誰も、聞かなかった。聞かなかったことだけが、ここでは、記録になっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ