表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒曜館の十三人(インスパイア元:十角館の殺人/綾辻行人先生)  作者: 妙原奇天
◆第1幕「追悼と集結」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/20

第3章 追悼の晩餐

 夕食のベルは鳴らない。この館では、時間の合図が音によって共有されない。代わりに、光が合図になる。大広間に吊られた低い照明が一段落とされ、卓上の燭台に火がともる。三本のキャンドルの炎は均等ではなく、中央だけが少し高く、両脇は控えめに揺れる。そのわずかな差を、周囲の黒曜石の壁面が無言で拡大する。揺れは広がり、広がるたびに形を変える。見る角度で炎の本数が増えたり減ったりする。増減するたびに、零司は指の先に自分の呼吸の長さを意識した。

 長いテーブルに、十二の席。椅子はどれも低く、背もたれがまっすぐで、座れば自然に背筋が伸びる。皿は黒い。縁だけが薄く銀色に光り、食卓の輪郭を飾りとしてではなく境界として示している。境界は触れると冷たい。冷たさは、安心と不安のどちらにもなれる。今夜は、とりあえず境界が多い。境界が多い席に人が座ると、人は境界の内側で振る舞う。内側の作法は、十年の空白を埋めるための仮の言葉だ。

 「十年という月日が、ようやく我々を同じ場所に呼び戻した」

 柴田教授が口火を切った。声量は抑えめで、響きは壁に吸い込まれる前に机の木目へ降り、木目の奥でしばらく留まり、ほどけた糸のように遅れて戻る。遅れて戻った声は、最初の言葉とは少し違って聞こえる。「十年」という語が「同じ場所」よりほんのわずか強く、しかし「呼び戻した」がさらに強く、最後で柔らかく解ける。教授はグラスを軽く持ち上げた。薄い縁が指に触れる音がして、炎が縁の内側で小さく跳ねた。

 「君たちがそれぞれに選んだ十年の形を、私は尊重したい。だが今夜だけは、同じ光の下で、同じ皿に向かおう。春名のために」

 名前がテーブルに落ちて、皿の縁を滑っていく。滑った名はすぐ見えなくなるが、耳に残る。零司は指でグラスの脚を確かめ、まだ飲んでいないワインの匂いを浅く吸い込んだ。酸が黒い器の輪郭と摩擦し、鼻に細い切れ目を作る。切れ目から、記憶の小さな光景が漏れ出る。春名は眼鏡をかけない。彼女は、レンズという境界を嫌った。代わりに彼女の視線はいつも少し強く、他人の輪郭の内側へ半歩入っていった。

 「明るい子だったよな」

 最初に声を出したのは、同輩の木暮だった。黒縁の皿にパンを手で裂きながら、短く言った。「現場でもさ、誰よりも段取りが早いというか。光がどう落ちるか、音がどこで跳ね返るか、嗅ぎ分けるみたいに」

 「無邪気、という言葉の方が似合っていたかもしれません」事務の井之口が続ける。彼女はグラスを手の中で時計回りに回しながら、ゆっくりと。「無垢、ではない。無邪気。善悪の区別は鮮やかで、でもそれに縛られない。学生時代の私には、少し眩しすぎた」

 「まっすぐだった」別の声が重なる。現役生のひとり、久遠が、語尾に迷いをぶら下げながら。「少し怖いくらい、まっすぐ、で」

 言葉が並べられる。明るい、無邪気、まっすぐ。単語は似ているようで、並び方を変えると別の人間像を作る。零司はそれを撮るように聞いていた。ことさらに口を挟むことはしない。挟む言葉はいつだって、余白の方へ流れやすいからだ。余白に溜まった言葉は、あとで形を変えて戻ってくる。それは写真の現像に似ている。暗い液の中で、まだ見えない像が少しずつ浮かび上がる。浮かび上がる前から、臭いでそれが何であるか察する癖が、人にはある。

 「彼女、連写を嫌ったのよね」

 瑞貴が笑いながら言った。笑顔は明るいが、眼は笑っていない。「一枚で決めようとする。だから失敗も多いの。失敗の顔もまた、価値だって言って」

 「価値、か」木暮がパンの欠片を皿の黒に落とす。欠片は輪郭を失い、黒に沈む。「価値で人を見てたわけじゃないよな」

 「人を、ではないわね」瑞貴はグラスを唇に当て、わずかに首を振った。「場を。場の価値を上げる人、下げる人、動かす人。彼女の言い方、覚えてない?」

 教授が小さく頷いた。「『この画は、どこで呼吸させるか決めないと死ぬ』。春名はよくそう言った。呼吸のために、わざと音を切ったり、暗闇を残したりした」

 「呼吸ねえ」嶺木はスープ皿の縁を親指でなぞり、微笑とも嘲りともつかない表情を一瞬だけ見せた。「この館で、呼吸を気にしないといけないのは人間じゃなくて壁でしょうね。反響音。たいした設計だ」

 「父の、悪趣味が過ぎたかもしれません」沙耶が静かに答えた。彼女はスプーンを置き、手を重ねる。「ただ、父はいちども『悪趣味』と言われるのを嫌がらなかった。『人の履歴は音でできている』と。音の履歴は、耳に残るより先に壁に入る、と」

 「履歴は、書き換えられるのかしら」

 香月は沈黙を破らなかった。破らないという選択が、彼女の居場所を作っていた。グラスに手を伸ばしもしない。ワインの表面に映る炎が、彼女の唇を横切る。その唇は、言葉の筋肉を動かさずに、ただ息を吸って吐くためだけに存在している。零司は視線で彼女の輪郭を確かめ、彼女の静けさがテーブル全体の音の密度を変えているのに気づく。静かであることは行為だ。沈黙もまた、発話の一部だ。

 「まるで脚本の読み合わせみたいね」

 瑞貴の一言で、場の空気が凍った。凍る、という表現は比喩にすぎないはずなのに、キャンドルの炎が一瞬、背を丸める。壁の黒が黒さを増し、皿の縁の銀が薄く鈍る。読み合わせ。声に出して台詞を確認する儀式。そこで交わされる言葉は、実在の感情を軽くなぞることで、逆に本物から遠ざかる。遠ざける安心を、人は時として求める。今、誰がそれを望んだのか。

 「瑞貴」教授が注意するように名を呼んだ。が、叱責ではなかった。むしろ、その言葉を間に置くことで、すでに壊れかけた空気の輪郭が見えることを期待するような、控えめな介入だった。

 「読み合わせ、嫌いじゃないけど」瑞貴は肩を竦め、笑顔を保ったままグラスを置く。「でもね、今の『明るい』『無邪気』『まっすぐ』って、きれいに配置しすぎ。誰がどれを言うかも、最初から決まってるみたいに。春名って、そんなわかりやすい子だった?」

 言葉がテーブルの左右に分かれて、互いに正面衝突するのを誰も望まない。だから視線は下へ落ちる。皿、ナイフ、フォーク、パン屑。自分の手の甲にある薄い傷。傷の由来。十年前、どの角で何がぶつかって、誰が謝ったか。謝罪の声の高さ。謝った者の手の温度。そういう雑多な細部だけが、春名という固有名詞の代わりに思考の表面へ浮かぶ。

 久遠が、両手で耳を塞いだ。「この部屋、音が反響しすぎる」

 彼の声自体が反響して、塞いだ手の中にもう一度入り、母音だけの奇妙な重なりになる。塞いだ耳の内側に残る自分の声ほど、耐えがたいものはない。彼の肩が一度震え、それを見て教授が短く席を立つ。「少し、扉を開けよう。換気が要る」

 扉は重い。黒曜石に覆われた面の下で、鋼の骨組みが鈍く軋む。きしみ音は低く、壁に吸われず、床を這う。床は黒いが、石の粒子が細かく、耳に届く音が粗い。零司は、テーブルの布の下で何かが触れ合う感触に、わずかに顔を上げた。触れてはいけないもの同士が触れた音。ナイフと皿の縁ではない。椅子の脚と床でもない。もっと深いところ。床の下の空洞。空洞に油のようなものが薄くまとい、その表面で硬いものが一度だけ跳ねた音。

 鈍い音が、テーブルの下からした。はっきりと一度、遅れてもう一度。嶺木が即座に椅子から身を沈め、テーブルクロスの裾をめくって覗き込む。彼は即断即決の癖を持っている。零司は自分が同じことをしない理由を、写真の中に探した。写真では、見えないものは写らない。写るのは、見ようとしていたことの跡ばかりだ。

 「床に、ひびがある」

 嶺木の声は驚きというより、事実を読み上げる語調に近い。彼はナイフの柄で床を軽く叩いた。黒曜石の床に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っている。それは一筋ではなく、浅い同心の形に広がり、中心のどこか一点に向かって収束しているように見えた。亀裂の縁は乾いている。乾いているが、見る角度で濡れているように光る。濡れているはずのものが、ここにはない。水ではない。油でもない。もっと、冷たいもの。冷たいのに、固形ではないもの。

 「まるで、下から何かが叩いているように」

 嶺木は言い、ナイフの平でその亀裂の周辺をそっと撫でる。撫でた金属の音が、壁で三度跳ね返り、四度目で消えた。消えた場所で、キャンドルの炎が小さく震える。震えはすぐに落ち着き、炎は自分の高さを取り戻す。教授は扉のところから戻り、顔をしかめず、眉だけを寄せた。「石が乾燥で鳴ることはある。だが、今のは……」

 「湿気のある石は、泣かないのよ」

 沙耶が静かに言った。彼女は椅子から立たず、両手を膝に置いたまま、亀裂を見ないでいる。見ないまま、正確な位置を把握しているかのように、視線はテーブルに置かれたナイフの柄の方に落ちている。「この床は、冬でも鳴かないはず。父はそういう仕上げにした」

 「鳴いたのは、石じゃない」瑞貴が笑った。「鈴でしょう。ほら、昼間から何度か聞こえる、あれ。誰も持ってないのに」

 「やめよう」教授が短く制した。制止の色が強い。議論が迷路に入ることに敏感な教員の声だ。「今、必要なのは、ここで過剰に意味を増やさないことだ」

 意味は、増やさずとも、勝手に増える。黙っていても、床の下の空洞は大きくならない代わりに深くなる。深くなるほど、音は低くなる。低くなるほど、耳は拾いにくくなる。拾いにくくなるほど、拾ったときの意味は強くなる。零司は手を動かし、ナプキンの角を指で折った。その小さな布の動きも、壁は忘れない。忘れないという性質は、いつか誰かを疲弊させる。

 「春名のことを、話しましょう」

 静かな声がした。香月だった。彼女はグラスに手をかけず、キャンドルに照らされた白い指をテーブルの縁からわずかに外へ出した。指先が闇へ触れる。「十年分、私たちは春名から離れていた。今夜くらい、近くへ戻ってもいい」

 「戻るとは、どういう意味だ」教授が訊いた。問いは純粋で、攻撃性はない。香月は答える前に一度息を吸い、その呼気を自分の腹の奥で一度冷やしてから外へ出した。

 「彼女のことを、彼女の目線で言わないこと。私の目で見た春名。あなたの目で見た春名。違うことを、違うまま重ねる。脚本通りに合わせていかない」

 瑞貴が、ほんの少し嬉しそうに唇の端を上げた。「いい企画会議ね。で、監督は誰?」

 「監督はいらない」香月は、淡々と否定した。「監督がいると、私たちが見ているものは監督の映画になる。私は、春名の『場』が見たい」

 場、という語がテーブルの上を滑る。零司はその音を、黒い皿の縁で捕まえる。捕まえた音が、皿の側で細分化され、別の意味に分岐する気配。場を作る人間。場に引かれる人間。場からはみ出す人間。場を壊す人間。春名はいつも、場の真ん中にいるようで、時々、真ん中を空にした。その空の在り方に、零司は魅せられていたし、同時に怯えていた。

 「一度、彼女に怒鳴られたことがある」木暮が、目を伏せたまま言った。「照明の位置を三度目にずらしたときだ。『そこで照らすと、人が嘘をつく』って。意味がわからないと言ったら、『わからないでいい。わからない方が、今は安全』って笑った」

 「私も、叱られた」井之口が続けた。「段取りに従わずに、先回りして資料を作ったとき。『段取りは、呼吸を均等にするためにある。今は、均等を壊したいの』って」

 「俺は」嶺木は一瞬言い淀み、ナイフの刃先を皿の縁に軽く当ててから続けた。「俺は、好きじゃなかった。正直に言う。ああいう、現場のスリルに酔った顔が、ね。事故の前から、彼女、どこか、現実の摩擦に鈍感になってた気がする」

 刃先が皿の銀の縁を擦り、短い不快音が出た。久遠が再び耳に手を当てる。彼の指は微かに震えている。震えは指の先ではなく、関節にある。関節の内側で、誰かが鈴を鳴らしているように。零司は思わず、テーブルの下、ひびの位置を見た。亀裂は広がっていない。だが、中心点の黒が、ほんのわずかに濃くなっている気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけ、という言葉はここではあまりに危険で、同時に最後の逃げ場でもある。

 「春名は、誰かの罪を軽く見たことはないと思う」香月が、静かに言葉を置いた。「でも、重くも見なかった。重く見るふりを、うまくしなかった」

 「ふり」瑞貴が繰り返す。「ふりをしない人、社会的に生きづらいタイプ」

 「それでいて、場を作ってしまう。人を集め、呼吸を合わせ、音を切る。彼女は、その結果に責任を持つ覚悟があったかしら」

 責任。テーブルの上空に見えない輪ができる。輪の内側の空気が重くなる。輪の外側から壁の黒がじっと見ている。見られていることに気づいた者は、自然と姿勢を正す。姿勢を正すと、呼吸は浅くなる。浅い呼吸のまま、誰かがグラスを置いた。薄い縁が黒い皿に触れて、乾いた音がした。音は跳ね返らず、その場に沈んだ。沈んだ音が、床のひびのあたりで拾い上げられたように感じられた。拾い上げられたものは、めったに戻らない。

 教授が、ゆっくりとグラスを持ち上げる。「今夜、私は指導教員としてではなく、一人の参加者としてここにいる。だから率直に言おう。私にも、彼女に対して怒りがある。あの夜の、判断に対して。だが、怒りだけでは、この十年、私は持たなかった。怒りは、すぐ形を変える。被害者意識に。被害者意識はまた、怠惰に。怠惰は、記憶を曇らせる」

 教授の手がわずかに震えた。震えは彼の年齢のせいではない。言葉の重さに、手が追いついていないのだ。零司は、教授の手の血管の青と、黒い皿の縁の銀の細さが奇妙に似ているのを見つけた。似ているものは、時として互いの欠点を強調する。教授は息を整え、結論だけを落とした。「今夜は、誰かの『ふり』に逃げない。私も、君たちも」

 沈黙が一家の主人のように席に座り、誰も彼を追い出そうとしない。不自然ではない沈黙。キャンドルの炎の高さが戻り、皿の銀が再び薄く光る。誰かが咳払いをし、別の誰かがそれに続く。続いた方の咳の方が、本物に聞こえた。咳払いに本物と偽物があるのか。あるのだろう。ここでは、なんでも、本物と偽物がある。

 瑞貴が、静かに笑った。今度の笑いは、最初のものよりも低く、耳の奥に残る。「ねえ、零司。あなたの写真、見せてよ。今日撮ったやつ」

 テーブルの視線が集まる。零司は一瞬、肩へ手をやりかけて止めた。カメラは部屋に置いてある。ここへ持って来るべきだったか。持って来ていたとして、見せただろうか。絵里奈の背後の、あの影。背中の消える壁。階段の踊り場の足下灯の欠け。映っているのは現象ではなく、現象の直前の静けさばかりだ。

 「あとで」零司は言った。「今、画を見ると、言葉が硬くなる」

 「いい言い訳ね」

 「言い訳じゃない」香月が、珍しく棘のある声で瑞貴を見た。「零司は、言葉の前に息を置く人なの。息のない言葉は、ここでは刃物になる」

 瑞貴は肩をすくめ、笑いを消した。「冗談よ。むしろ、私が見たがっているのは、あなたの顔。香月。あなたが春名の話をするとき、ほんの少しだけ左の口角が上がる。哀しみと怒りの境目で、人はそこに触る。私は、あなたのその癖が好き」

 「やめなさい」井之口が静かに言った。「会話を解剖しないで。解剖された言葉は、ここではすぐ腐る」

 テーブルの下で、鈍い音がした。今度は、はっきりと二度。間隔が短い。嶺木はまた身を沈め、亀裂を確認する。彼の頬の筋肉がひくりと動き、すぐ戻る。「広がってはいないが、ひびの縁が……」

 「息をしているのよ」沙耶が小さく言った。「この床は、呼吸しないはずなのに」

 「じゃあ、誰が」

 誰も答えない。誰も答えない沈黙の中に、テーブルの上のナイフとフォークの影が伸び、黒い皿の上で交わる。その交わりは、壁の面で増幅され、他の交わりと時間をずらして重なる。交わりの数を数えることはできない。数えることが誰かの罪を軽くすることに繋がるのなら、ここで計算する者はいないだろう。罪は、数えられない方が、重い。

 教授が、席を立つ。「亀裂の下を確認する必要がある。だが今、床板を剥がすのは賢明ではない。明日、明るい時間に、最小限の範囲で」

 「明日、ね」瑞貴が声に笑いを混ぜる。「明日が来るなら」

 その空々しさに、現役の学生のひとりが顔を上げる。目が揺れて、皿の縁で止まる。若い目は、こういう時に限って正確に物の輪郭を捉える。不安の輪郭。恐れの輪郭。罪の輪郭。輪郭は、見た瞬間に古くなり、古くなった輪郭は重さを増す。久遠が手を耳から外し、拳を握って両膝に置く。彼は小さく頷いた。「明日、明るい時間に」

 良い合図だ、と零司は思う。言葉の終わりが次の動きを決めるとき、その場はまだ生きている。場が死ぬと、言葉は時間を持たなくなる。時間を持たない言葉は、誰の耳にも届かない。届かない言葉だけが、壁の中で長く保存される。保存された言葉は、いつか違う姿で、床の下から叩かれて戻ってくる。

 キャンドルの炎がまた一度、低くなった。嶺木が手を伸ばしかけ、やめる。指先が炎に近づくと、影の方が先に熱を感じる。影の熱。それは嘘ではない。影にも温度がある。黒曜石の面は、その温度をよく記憶する。記憶した温度は、夜のあいだに少しずつ流れて、どこかで凝固する。凝固した温度は、朝、誰かの指先で割れる。

 「片付けよう」教授が言った。「晩餐はここまでだ。部屋へ戻り、今夜は休む。朝は早い」

 誰も反論しない。椅子が押し引きされる音が、壁に触れる前に床に吸われる。吸われた音のうち、ごく少数だけが、床の下の亀裂の中心で拾われる。拾われた音は、今度は本当に戻ってこなかった。戻らない音の後に、薄い鈴の音が一度だけ、遠くで鳴った。遠く、という距離は、この館では意味を持たない。遠くの音は、近くにある。近くの音は、遠くで消える。零司は、テーブルの角を手のひらで押し、立ち上がる自分の重みが木の脚に伝わるのを、あえて感じ取った。重みは現実だ。現実は、今夜に限って、幽霊のように軽かった。

 部屋へ戻る途中、彼は廊下の黒い面に自分の背を向けてみた。相変わらず、背中は映らない。映らない空白の縁が、ほんのわずかに波打っている。波は微細で、呼吸と同期するようでいて、微妙にずれている。ずれは、誰かがこちらを見ているときの視線の揺れに似ていた。香月の足音が背後から近づき、すれ違うとき、彼女は言った。

 「明日、あなたの写真を見せて」

 「いいよ」

 「約束?」

 「約束」

 約束という言葉が、廊下の先で細く折れ、壁の中へ入っていく。入っていく途中で、音の一部が欠ける。欠けがそのまま刻印となって残り、誰かがそれに指を当てて確かめる未来の手触りだけが予告のように生じる。零司は肩のストラップを直し、足下灯の楕円から楕円へと移る自分の影を見た。影は、順番を守っているようでいて、ときどき順番を忘れた。忘れる影の方が、今夜は信頼できると思った。

 大広間のテーブルには、片付けの最中にもかかわらず、一本のキャンドルだけが最後まで消えずに残った。炎の高さは一定だったが、影の揺れは一定ではなかった。黒曜石の床の亀裂は、誰もいないのに、ごく小さくひとつ呼吸した。呼吸したことを知ったのは、床ではなく壁だった。壁は音の履歴を保存し、その夜の一部を誰にも見えない位置で書き換えた。書き換えられた夜は、翌朝になっても誰のものでもない。誰のものでもない夜だけが、十二人の足元で長く延び続ける。晩餐は終わったが、追悼は終わっていない。いや、始まってもいないのかもしれない。始まりと終わりは、この館では、同じ角に置かれている。どちらの角も、暗い。暗い角の向こうで、また鈍い音がした。今度は、誰にも聞こえなかった。聞こえなかった音ほど、長く続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ