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黒曜館の十三人(インスパイア元:十角館の殺人/綾辻行人先生)  作者: 妙原奇天
◆第2幕「崩壊と錯乱」

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第20章 朝の海

 夜が明けた。

 水平線の上で、陽が海と空の境目をゆっくりと押し広げていく。

 風は冷たく、潮の匂いはまだ焦げた木片の匂いを混ぜていた。


 沖合を走る救助船のサイレンが、波間を切り裂く。

 救助員たちの声が重なり、ざらついた拡声器の音が空に溶けた。

 海上には、館の名残――黒曜館の欠片が、幾何学模様のように散っている。

 柱の一部、折れた手すり、焼け焦げた机の脚。

 その合間に、三つの影が浮かんでいた。


 最初に見つかったのは零司だった。

 片腕で香月の身体を支え、もう片方の手で崩れた鉄骨を掴んでいた。

 芹沢は少し離れた場所で、父のスケッチの切れ端を胸に抱いていた。

 救助員が水中へ飛び込み、彼らを引き上げる。

 波の音が近づくほど、静寂が濃くなる。


 甲板の上に並んだ三人は、互いを見た。

 けれど、言葉は出なかった。

 唇を動かすたび、喉が何かを拒んだ。

 音にならない声が、海の湿気に溶けていく。


 零司の腕には擦り傷が走り、香月の頬には乾いた塩の跡があった。

 芹沢の指は震えながらも、スケッチの紙を離さない。

 その紙は半分海水に溶けて、線と線の間に見えない文字を宿しているようだった。


 救助員が毛布をかける。

 零司はその布の下で、ただ水平線を見ていた。

 香月も同じ方向を見ていた。

 海は、まるで何事もなかったように穏やかだった。

 波の間から、黒い板切れが一枚だけ浮かび上がる。

 館の床材だ。

 そこには、かすれて読めない白い数字――十三。


 ヘリの影が一瞬だけ海面を横切り、記者たちの船が近づいてきた。

 カメラが回り、レンズが彼らを捉える。

 誰かが問いかける。


 「事故ですか? 事件ですか?」


 香月はしばらく沈黙していた。

 波の音を一つ、二つ、数えるように聞いたあと、首をゆっくりと振った。


 「……観察の終わり、です」


 その言葉に、誰も返すことができなかった。

 風が一度強く吹き、甲板の隅に転がっていたカメラの部品を海へさらっていった。

 記録機材も、映像も、全部、海の底へ。

 十三の部屋の残骸も、可動壁も、黒曜石の壁も、いまや波の模様の一部になっている。


 船が港へ向かう間、三人は何度も後ろを振り返った。

 水平線の向こうに、沈みかけの館の影がまだ見えた気がした。

 だがそれが本当に残像なのか、海の反射なのかは分からない。

 香月の瞳に、わずかな光が差し込んだ。

 零司は何も言わず、彼女の肩に毛布をかけ直した。


 芹沢はスケッチを折りたたみ、胸ポケットにしまう。

 その指先は、父の図面を撫でるように震えていた。

 彼女は小さく呟いた。


 「お父さん……もう、止めよう。ね?」


 その声は風にさらわれ、波の上で溶けた。



 数日後。

 沿岸警察署に、一つの小包が届いた。

 宛名は印字されておらず、手書きの住所だけ。

 差出人の欄は空白。

 中には、小さなフィルム缶がひとつ。錆びた銀色の缶に、油性マーカーで「E-13」とだけ書かれていた。


 現像を担当した技術員は、指先の感覚で嫌な予感を覚えたという。

 リールの回転が不自然に重く、内部で何度か絡まった跡があった。

 だが、再生は可能だった。


 暗い部屋。

 古い映写機が唸り、壁に光が走る。

 映し出されたのは、十年前の記録。

 あの館の外観、潮風に揺れるカーテン、誰かの笑い声。

 そして、春名の姿。


 彼女は丘の上に立ち、風を背に受けていた。

 白いワンピースの裾が海風をはらみ、光の粒を拾っている。

 彼女の笑顔は、あの夜の直前と同じ。

 目は、どこか遠くの観客を見つめているようだった。


 フィルムの最後、春名がカメラへ一歩近づく。

 その動きとともに、映写機の音が低くなり、画面の粒子が粗くなる。

 彼女は静かに、唇を動かした。


 「あなたも、見ていたんでしょう?」


 声は入っていない。

 けれど、口の形で意味ははっきりと伝わった。

 その瞬間、画面がゆっくりフェードアウトする。

 光が消え、暗闇の中に波の音だけが残る。


 遠くで鳥が鳴く。

 映写機の回転が止まる。

 黒い画面に、白い文字が浮かんだ。


 ──黒曜館の十三人

  撮影:不明

  記録:完



 朝の海は穏やかだった。

 水平線の先に雲はなく、陽光は静かに海面を撫でる。

 潮騒が繰り返すたび、波の泡の形が微妙に変わる。

 泡の一つひとつが、誰かの視線のようにも見えた。


 零司は浜辺で立ち止まり、濡れた砂の上に膝をついた。

 香月と芹沢がその隣に立つ。

 三人は、沈黙のまま同じ方向を見つめていた。


 朝の光が強くなる。

 波の向こうで、白い泡がひときわ大きく弾けた。

 それが笑顔の形に見えたのは、ほんの一瞬だった。

 零司は目を細め、手の中の砂をこぼす。

 風が砂を拾い上げ、海の上へ運ぶ。


 そのとき、彼の胸ポケットの奥で、小さな光沢がちらりと覗いた。

 フィルムの切れ端。

 現像されなかった、最後の一コマ。

 濡れた端が太陽を反射して、一瞬だけ虹色に光る。

 彼はそれを手の中に包み、目を閉じた。


 波が足もとへ寄せ、静かに引いていく。

 朝の海は、何も語らない。

 けれど、その沈黙の奥には、確かに「見ている」気配があった。

 それが、春名のものか、春海のものか、あるいは、いま海を見ている自分たちの影なのか。

 誰にも、もう分からない。


 遠くで、汽笛が一度だけ鳴った。

 その音は、まるで映画の終わりを告げる合図のように、海上を滑っていった。

 光が水平線を溶かし、世界の境がまたひとつ曖昧になる。


 観察は、たしかに終わった。

 けれど、記録は、どこかでまだ回り続けている。

 目に見えないレンズの向こうで。


 波音が、またひとつ。

 白い光の中に、すべてが吸い込まれていった。

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