第2章 黒曜館
島に足を下ろしたとき、最初に感じたのは、土ではなく、石の硬さだった。砂の粒が靴底に沈むあの感触がない。湿った黒い岩肌は、波で磨かれ続けた金属のように鈍く光り、踏みしめるたびにわずかに足裏を拒む。港と呼ぶには短すぎる桟橋を渡りきると、斜面の向こうに館が現れた。霧がまだ低く垂れている。その白の層を押し広げるように、黒い多角形の輪郭が浮かぶ。
十三角形。芹沢沙耶が、肩越しに振り返って言った。「父の最後の作品です」
「最後」という言葉だけが、霧よりも重かった。零司は黙ってカメラを持ち直し、レンズの前で人差し指を一度だけすべらせる。水滴を拭う仕草は癖に近い。指に細かい塩の砂が残る。舌で確かめる必要はない。ここでは、空気そのものが塩の気配を含んでいる。
斜面を上がるにつれて、館の形が具体を得る。外周に並ぶ十三の出入口は、どれも細く背が高い。扉は黒く塗られておらず、石そのものの色に見えた。石の硬さが、建物全体の硬さと一致する。屋根は中央に向かってわずかに落ち、そこからさらに高さを増した尖塔のような天窓が立ち上がっている。外壁の一部は海風で磨かれ、鏡に似た光沢を帯びていた。近づくにつれ、こちらの姿が黒い面に滲み、形になりかけて消える。零司はカメラを上げかけ、下ろした。外側から見るとき、鏡に似た面は、いつも自分を撮ることを拒む。
階段を上り切った踊り場で、扉の脇に古い真鍮の鍵穴が一つ、ぽつりと口を開けていた。芹沢沙耶がポケットから束になった鍵を取り出す。鍵は新しくはないが磨かれており、どれも同じ形に見える。彼女は迷いなく一本を選び、差し込んだ。金属が擦れる低い音が、館の内部から別の音を呼ぶ。呼び応じるように、遠くで小さな鈴が鳴った気がした。誰も何も言わない。鍵は二度、三度と回され、最後の一段で止まった。扉が、押すでも引くでもなく、わずかに開く。開口の向こうは暗い。暗さは厚みを持ち、内側の空気を含んでこちらへ押し返してくる。
「ようこそ」と沙耶が言った。声は不思議と乾いている。湿った霧の中で、彼女の声だけが陸の空気をまとっていた。「中央に大広間があり、そこから放射状に廊下が十三本伸びています。各廊下の先が外周の部屋。部屋はすべて同じ大きさに見えますが、微妙に寸法が違います。父は端数にこだわる人でした」
「端数」と誰かが復唱した。言葉は、きらりと小さく光る刃のようだった。零司は扉の縁にカメラを向けた。黒曜石のような壁面が、内側まで続いているのがわかる。壁は平ではなく、ごくわずかに内に傾斜し、上へ行くほど光を集める。光を集める壁は、光の欠けた場所を際立たせる。陰影のつき方には規則があり、その規則は、目で追っていると急に途切れる。
足を踏み入れた瞬間、空気の温度が半歩ほど下がった。外の湿り気は同じはずなのに、肌に触れる重みが変わる。匂いも変わる。石と油の混じったような匂いの中に、長い時間閉じられていた箱が開いたときの紙の匂いが混ざる。呼吸の音が、思ったより大きく聞こえる。自分の靴音が驚くほど遠くから反射して戻ってくる。反射の時間差が、ごく短いのに、耳に残る。沙耶が振り返って言った。
「この館では反響音が人を惑わせます。音が一度で戻らないんです。壁の角度と材質のせいで、わずかにずれた複数の自分の音が、しばらく後からついてくる。慣れるまでは、後ろに誰かいる気がして落ち着かないと思います」
「まるで棺桶の中みたいだな」と嶺木が呟いた。彼は荷物のストラップを肩にかけ直し、廊下の一本を覗き込む。彼の声は低く、反響が少しだけ先行して戻ってきた。まるで、彼の呟きを誰かが先に言ったかのように。現役の学生たちは顔を見合わせ、声を潜めて笑ったが、その笑い声もすぐ形を崩して多方向から寄せ、笑っていない誰かの息継ぎと混じった。
中央の大広間は、天窓から入る光を受けて、黒曜石の床がうっすらと白く浮いている。床は巨大な盤のように見え、目地が緩やかな放射線と同心円を描いていた。同心円は綺麗ではない。ひと筋だけ、わずかに歪んでいる。沙耶は大広間の端の壁に沿って歩き、点検するように視線を走らせた。「電源は自家発電です。必要な範囲で照明はつきますが、節約を心がけてください。通信は陸の衛星回線に接続しています。島の外との連絡は、基本的にその端末から行います」
大広間の一角には、軍用のような無骨な通信機器が据え付けられていた。金属製のケースに守られた端末に、細いアンテナケーブルと電源ケーブルが繋がっている。ケースの表面にはうっすらと白い粉が吹いている。塩だ。嶺木が近づき、電源スイッチを確かめ、目を細める。緑のランプが一瞬だけ点いた後、すぐ赤に変わった。赤は一定の間隔で点滅を始める。低い警告音は鳴らない。その静けさが逆に不吉だ。
「接続不能」と誰かが読み上げる。端末の小さな液晶には、簡素な英字のメッセージが浮いていた。嶺木はケーブルの接続口を押さえ、別の口へ差し替え、再起動をかける。ランプはやはり赤になり、同じ間隔で点滅する。彼は唇の端を引いてため息を飲み込み、沙耶を見る。「外のアンテナ、腐食してませんか」
「直近で交換したばかりのはずですが」沙耶は答えたが、その語尾には確信が薄い。「父の遺言に沿って、館の管理は最低限に留めていました」
「最低限が、最低限で済むうちはいいんですけどね」嶺木は道具袋から布を取り出し、端末の端子を拭う。拭いた布に黒い筋が残る。「とりあえず今日明日は、連絡は期待しない方がいいかもしれません。衛星側じゃなく、こっちの問題だ」
教授は腕時計を見て、皆に視線を巡らせる。「予定どおりに進めよう。まず部屋割りを決めて荷物を置き、夕食の準備をする。発電の稼働時間の問題もある。日没までに諸点検を終えたい」
部屋割りは淡々と進んだ。外周の十三の部屋のうち、ひとつは物資倉庫として使われており、もうひとつは故人の仕事部屋で、鍵がかけられている。残る十一室を十二人で使う。教授と事務の女性が一室、学生三人は二室に分かれ、残りをOB・OGで分け合う。零司と絵里奈は隣り合う二室になった。番号の代わりに、各部屋の扉には細い刻印がある。刻印は数字ではなく、短い線の組み合わせで、見ただけでは意味がわからない。沙耶によれば、父が独自に採用した「場所の記号」だという。彼女自身も説明しきれないと言って肩をすくめた。
廊下を歩くと、靴底が床のわずかな凹凸を拾い、微妙に歩幅がずれる。壁は黒曜石で覆われており、ところどころに石の継ぎ目が微妙な角度で走っている。その継ぎ目が、光を不規則に割る。人の動きが表面に映り、映りは遅れて追い、追い抜く。廊下の曲がり角ごとに、息を整える必要があった。知らず知らずのうちに、音の遅れに呼吸が影響されるからだ。
厨房は大広間から最も遠い位置にあった。外周の一室を広げ、古いが手入れされたガス台と、分厚い天板の作業台が置かれている。窓はない。換気口が天井に一つ、黒い金属の格子を見せている。蛇口をひねると、最初は茶色い水が、すぐ透明に変わって流れ出した。鍋を出す金属の音が、廊下の彼方まで走り、そこで柔らかく折り返して戻ってくる。戻ってきた音は、微妙に高い。夕食の準備は、そうした音の重なりの中で始まった。
野菜を刻む音、缶の蓋を開ける音、皿を重ねる音。誰かが冗談を言い、別の誰かがそれを聞き漏らし、聞き漏らした者の笑いが少し遅れて混じる。沙耶は手際よく調味料を並べ、火の加減を調整しながら、時折天井を見上げた。換気の音が不安定なのだ。風の向きで音が揺れ、吸い込みの強さが変わる。彼女は一度、火を弱め、耳を澄ました。「この館、音が嘘をつくの」とぽつりと言う。「父はそれを面白がっていた。音の嘘が、空間の真実を教えるって」
「真実って、何の」絵里奈が訊いた。彼女はサラダの葉を洗いながら、指の腹で葉の縁をなぞる。薄い緑の上に水滴が粒をつくり、それがすぐに滑り落ちる。彼女の所作は慎重で、その慎重さがこの館では少しだけ場違いに見える。
「どこまでが空間で、どこからが耳の記憶か、ってことじゃないかしら」沙耶は笑ったわけではないが、声に笑いの影が差した。「父は、音に対していつも個人的だった。誰が、どの位置で、どの呼吸で、どの靴で歩くか。そういう個人差を、設計の中心に置いていたの」
零司は、皿を拭きながら耳を傾けていた。音に個人差があるという発想は、写真における露出の癖に似ている。誰もが持っている、見たいものへ寄る癖。寄る癖は、同じ場所でも別の場所を作る。ここでは、それが明確に仕組まれている、と感じられた。感じられる、ということ自体が仕組みの一部であるなら、なおのこと。
夕食は簡素だった。缶詰のスープに少し手を加え、パンを温め、サラダを大皿に盛る。温かいものを口に入れると、身体の内部に溜まっていた冷えが遅れて溶ける。しゃべり声の層が重なり、層の間に空白ができ、空白でふと誰かの名前が思い出される。春名遥。零司はその名が口の内側で確かに動いたのを感じ、それが音にならないうちに水を飲んだ。水は冷たく、黒い器の縁が舌の先に硬かった。
食後、教授は短い挨拶をした。机上の地図に手を置き、明日の行動計画を確認する。灯塔跡、旧礼拝室、地下への階段。地下への階段は一箇所に限られている。鍵は沙耶が持っている。教授は言った。「今夜は各自、館の音に慣れておきなさい。廊下の歩き方ひとつで、明日以降の動きの質が変わる」
その言葉に誰かが笑い、同じ誰かがすぐ咳払いをした。笑いが自分ではない方角から戻ってきたのだ。戻ってきた笑いが、自分の笑いとよく似ていたのだろう。零司は立ち上がり、カメラを肩に掛け直した。機械の重みがいつもより軽く感じられるのは、音のせいかもしれない。重さの感覚までが、反響で揺れる。
夜になった。発電機の音がさらに低くなり、館全体がその音を腹の底に入れて寝息を整え始めたかのように、安定した微振動に包まれる。照明は弱く絞られ、各廊下の足下灯だけが細い光の線を床に落とす。線は段差で途切れず、継ぎ目の上でわずかに膨らみ、また細る。その膨らみが、限られた光の中では目印になる。目印は、状況が安定しているときほど頼りになる。不安定なときほど、目印は障壁に変わる。
零司は一人で廊下に出た。カメラのバッテリー残量は十分だ。レンズフードを指で押さえ、息を潜める。足音を可能なかぎり小さくしながら、光の線に沿って進む。足下灯の断続する白い楕円に、彼の足が交互に入っては出る。その影が、壁に広がってまた縮む。黒曜石の面は、影を忠実に受け取らない。忠実に受け取らないことが忠実さの一形態であるかのように、歪んだ影は、現実の身体の動きと別のリズムで動いた。
カメラのシャッターを切る。音は想像より軽く、壁に触れた瞬間に、別の場所のシャッター音と混ざる。零司は二枚、三枚と撮る。廊下の遠近が圧縮され、黒い面の連なりの中に小さな光の楕円が規則的に浮かぶ。写真は、現実の足下灯よりも均等に見える。均等に見えるからこそ、一本だけ楕円の縁がほんのわずかに欠けていることが、目に入った。欠けは自然なものではない。石の目地がそこだけ膨らんでいる。目地の膨らみは、触れると冷たいと同時に柔らかい。柔らかさは指の内側の記憶であり、実体ではない。
ふいに、どこからか小さな話し声がした。距離が測れない。左右のどちらからともなく、上からとも下からともつかず、ほどけた糸の房のように音節だけが漂ってくる。言葉としての意味は拾えない。長さだけがわかる。二十秒ほど。零司は耳を傾け、同じ速度で息をし、呼吸の隙間にシャッターを落とした。音がさらに増える。音が増えると、意味は薄くなる。薄くなった意味は、形を勝手に取る。形は、壁の中で増える。
曲がり角の手前で、足下灯が一つ切れていた。そこだけ暗い。暗さは完全ではない。黒曜石の面がわずかな光を拾って、隣の楕円の端をこちらへ引いてくる。零司は暗がりに一歩入って、壁に背を近づけた。黒い面は冷え切っている。自分の体温が薄く奪われ、奪われた形のまま面に残る錯覚がある。錯覚は手放しにくい。手放さない癖がつくと、錯覚は記憶に近づく。記憶は、写真に似ている。似ているが、同じではない。
角を曲がると、左右にまた別の廊下が伸びていた。廊下はどれもよく似ているが、よく似ているだけだ。床の目地の角度、壁の継ぎ目の高さ、足下灯の間隔、そのわずかな差が歩幅に違うリズムを強いる。零司は右へ進み、数十歩先で立ち止まった。そこで壁の黒は他よりも深く、面に近づくと、こちらの顔が曖昧に浮かぶ。浮かんだ顔は鏡のように左右が反転しない。反転しないことが、すぐにはわからない程度に、こちらの顔の左右は均衡している。だが、耳の形がわずかに違う。違いは、後から脳が追いついてくる。
零司は試しにその場で半身を捻り、背中を面に向けた。ストラップが肩の骨に沿ってずれ、カメラの角が胸に当たる。背中に冷たさが貼り付き、細い震えが背骨を這い上がって肩甲骨のあいだへ集まる。彼はゆっくりと首だけを回し、壁の面に映るはずの「背を向けた自分」を探した。
そこには、何もなかった。
「何もない」という表現は、この館ではあまりに曖昧だ。面は黒く、黒の中には黒の階調がある。わずかな光を拾って、いくつもの層が重なる。その層のどこにも、肩の曲線も、後頭部の丸みも、ストラップの斜めの線も見えない。見えるのは、照明の下で薄く白んだ床の楕円が二つ、その間に伸びている目地の帯が一本。そして黒。黒は均一ではなく、呼吸に合わせて微細に膨らみ、縮んでいるように見える。零司は息を止めた。黒は、それでも動いているように見える。動きは視覚の裏側の筋肉に宿り、眼球の小さな揺れが黒の揺れに解釈を与える。
シャッターを一度切った。音が遠くで遅れて返ってきた。遅れは普段より長い。長く遅れた音の間を、別の小さな音が満たしている。誰かの爪が石を擦るような、乾いた、しかし肉の気配をともなった音。零司は首をさらに捻り、黒の面の端を視界に入れた。端にも、何もない。自分の背中が消えた場所に、誰かの背中が映っているわけでもない。空間そのものが、映ることを拒否している。
背中を壁から離し、今度は正面に立った。顔は映る。目鼻は曖昧だが、顔の形は確かだ。肩の傾き、首の角度、ストラップの線。すべてが、黒の中に遅れて浮き、ゆらぎを帯びながらこちらへ近づく。その顔に向けて、零司は手を上げてみた。黒の中の手も上がる。反応は遅いが、追いつく。彼はもう一度、背中を向ける。次の瞬間、黒の中から彼は消える。消えた場所には、ただ黒がある。黒には目地の影が走るだけだ。目地の影は、少しだけ高い位置で、まるでそこに別の肩の高さがあることを示すように屈折している。
足下灯の明かりが一瞬揺れ、すぐ安定した。発電機の音が一段低くなった気がした。気がしただけかもしれない。だが、この館では「気がしただけ」は、いつも何かの前触れだ。零司はカメラを下げ、耳を澄ます。遠くで、鈴の音がした。昼間に聞いた、あの短い音だ。今度は、二度鳴る。短く、間を置いて、もう一度。廊下の角の方で、気配が動いたように思えた。音と気配が一致しない。音は右から、気配は左から来る。あるいはその逆。零司は一歩、歩みを前へ出し、角の先を覗き込む。
誰もいなかった。廊下は空で、足下灯の楕円が規則的に続く。黒曜石の面は、廊下の対象性をほんのわずかに裏切って、いくつかの面に微妙な傾きの違いを見せている。違いは、先ほどまでの彼の動きの余韻を増幅し、余韻の形を人の形に近づける。近づいた形は、目の端にだけ見える。目を正面に戻すと、形は消える。
背後で、誰かの息がした。息は短く、止まりがちで、喉の奥で鳴る癖がある。零司は反射で振り向いた。廊下は空だ。足下灯が二つ、三つ連なって、その先で曲がる。壁の黒い面が彼の動きを遅れて返し、いまの振り向き方を数秒遅れで再現する。彼は自分の肩の上で自分の影が跳ねるのを見て、自分の影の方が先に落ち着いたのに気づく。呼吸を整え、耳を澄ます。息は、ない。あれは自分の息だ。自分の息が、遅れて自分の背中に当たっただけだ。
そう結論づけたとき、彼はまた黒の面に目を戻した。背を向ける。映らない。映らない空白だけが、彼の背中の形にぴたりと合って広がっている。その空白は、彼が少し動くと、少し遅れて同じ形で動く。遅れはほんのわずかだ。遅れがあるせいで、空白は何かを「追っている」ように見える。追っているのは、彼の背中ではない。彼の背中が残した、熱と匂いのかたち。空白はそれを舐め回すように追い、壁の奥へ押し込む。押し込まれたものは、どこへ行くのか。零司は首筋の皮膚が自分のものではないように感じ、肩甲骨の間に指を差し込まれたような錯覚に小さく身を固くした。
「零司?」
呼ばれて、彼は顔を上げた。絵里奈が曲がり角の向こうに立っていた。足下灯の光が彼女の脛に薄く掛かり、上半身は影の中にある。彼女の手にはマグカップ。湯気が影の中で見えない煙の形になって揺れ、揺れは反響することなく消えていく。絵里奈は首を傾けた。「こんな時間に撮ってるの?」
「音の具合を、試していた。写真でもわかるかどうか」
「わかるの?」
「わかるかもしれない。わからないかもしれない」
彼は自分でも曖昧な答えを返し、正面を向き直った。黒の面の中に、自分の顔が戻っている。彼は一歩、絵里奈の方へ歩み寄った。絵里奈はマグカップをこちらに差し出す。「キッチン、寒かった。カモミール。飲む?」
受け取ったカップは熱かった。熱さが指の腹を刺し、刺された感覚が背中の空白の記憶を薄める。絵里奈は壁の面をちらりと見て、小さく息を飲んだ。「これ、鏡じゃないのに、鏡よりよく映るのね」
「よく映る時と、映らない時がある」零司は言った。「今、背中を向けると、何も映らない」
「何も?」
彼は実演してみせた。絵里奈は目を細め、首を伸ばして面の奥を覗き込み、静かに頷く。「本当に、ない。消えるのね」
「消えるというより、ここからだけ、なくなる」
「じゃあ、どこかにはあるの?」
「さあ」
絵里奈は自分の背中を面に向け、振り返り、同じように確認した。彼女も同じだった。黒は、彼女の背中を受け取らない。ただ、黒の中に細い線が二本、縦に走った。線は、顔の位置より少し高いところにある。人の目よりも、わずかに上。絵里奈はそれに気づかない。零司はカメラを上げかけ、下ろした。撮るべきかどうかの判断が、音の遅れに引っ張られて鈍る。
「戻ろうか」絵里奈が言う。「教授が、二十三時になったら廊下の照明をさらに落とすって。迷子になる前に」
「もう迷っているかもしれない」
彼女は苦笑して、小さく肩をすくめた。「この館では、迷っていることに気づくまでに時間がかかるのよ」
二人で歩き出す。足下灯の楕円が、二人分の足を交互に受け取り、二人分の影をばらばらに伸ばす。影は互いに交差し、その交差は壁の面で別の交差を生む。別の交差は、最初の交差とは違う時間で起こる。時間がずれると、交差は数えられない。数えられないものは、記録できない。記録できないものは、語られる。語られるとき、余分な言葉が増える。余分な言葉の中に、真実に似た響きが紛れ込む。
大広間へ戻ると、照明はすでに一段落とされていた。天窓からの光は見えず、足下灯と壁の控えめな灯りだけが空間の輪郭を保っている。通信機器のランプは、まだ赤だ。一定の間隔で、律儀に点滅を繰り返す。規則正しさは安心を与えるが、同じ規則が長く続くとき、それは不安にもなる。嶺木は端末の前にしゃがみこみ、ノートに記録をつけていた。「二十時五分、接続不能。二十時三十分、同じ。二十一時、同じ。二十二時、同じ」ノートには、同じ文字列がいくつも並んでいる。並ぶ同じは、同じではない。書いた人間の疲労の度合い、筆圧、紙の湿度が変わる。変わった同じが、赤い点滅と呼応する。
教授は各自に、部屋へ戻るよう促した。鍵は内側からもかけられる。廊下の照明は間もなく最低限になる。大広間の扉は施錠される。外への扉も同様に。海は下がり始め、潮目が夜の方へ移る。館は夜の姿勢に入る。姿勢に入った館は、外からの侵入だけでなく、中からの流出をも防ぐ。ここでは、流出の方がよほど起こりやすいのだと、零司は背中の空白を思い出しながら考えた。
各人が散っていく。笑い声がひとつ、すぐ二つに分かれ、三つに分岐した後で、どれが最初の笑いだったかがわからなくなる。足音が階段に上がり、上がる足音が下りる音に変わり、やがて消える。消えた音の残り香が、黒い面に貼りついて、薄い帯をつくる。帯は風で剥がれず、内側へ沈む。沈むものは、朝になっても浮かび上がらないかもしれない。浮かび上がらないものの形だけが、記録される。
零司は部屋に戻り、扉を内側から鍵で止めた。鍵が回る手応えは固く、最後の一段で指に小さな抵抗の痛みが走る。窓はない。壁は黒い。ベッドのスプリングは固い。枕は薄い。カメラを枕元の机に置き、レンズキャップを外したまま、天井に向けて一枚だけ撮った。灯りは弱く、画面は黒に近い灰色で満たされた。灰色の中に、粒子のようなノイズが見える。ノイズは、ここでは悪い意味を持たない。ノイズは、存在の証拠だ。存在は、いつも過剰だ。過剰は、翌日になっても減らない。
横になり、目を閉じる。反響音が耳の奥で細い輪をつくり、輪は回転しながら小さくなって、やがて一点になる。その一点が、突然広がる。広がる直前に、零司ははっと目を開けた。何の音もしていない。だが、背中が冷たい。背中が冷たいのは、壁に寄りすぎているからか。いや、壁は遠い。背中の冷たさは、壁の冷たさではない。壁の中に奪われた自分の背中が、壁のこちら側の背中に影を落としている。影は冷たい。冷たさは、音になる。音が、ない。
彼は起き上がり、扉の方を見た。鍵はかかっている。かかっているはずの鍵が、かかっている顔をしている。顔という表現がふさわしいほど、鍵の孔は暗く、深く、湿り気を帯びている。視線を外すと、孔の暗さが部屋全体に滲む。滲みは、黒曜石の面に吸い寄せられ、面はそれを拒まずに受け取る。受け取った暗さは、面の中で生きている。生きている暗さが、背中の辺りでまた動いた。
零司は、寝返りを打った。背中を壁へ向ける。その瞬間、彼は自分の背中が部屋からなくなる錯覚に抵抗できなかった。抵抗は稚拙で、効果はなかった。背中は、やはりここから抜けて、どこか別の黒の中へ滑り込む。滑り込んだ先に、何があるのか。鏡のようで鏡でない面。映るべきものが映らず、映らないものが形を持つ場所。そこへ、昼間に撮った写真の中の影が立っている。香月絵里奈の背後の、見知らぬ影。影は、背中を持たない。持たない影が、こちらを向く。向くとき、わずかな鈴の音がする。
耳の奥で鈴が鳴った。今度は、はっきりと三度。零司は目を閉じた。閉じた眼の裏側の暗さは、黒曜石の面の暗さとは違い、個人的だった。個人的な暗さの中で、彼は息を数えた。吸う。止める。吐く。数えることは約束に似ている。約束は、ここではまだ言葉にならない。言葉にならない約束だけが、夜の館を形作る。
扉の向こう、廊下のどこかで、誰かの足音がごく短く鳴って止んだ。反響は来なかった。来ない反響ほど、不意に近い。近さが、眠りの縁を細く削る。削られた縁から、冷たい風が流れ込む。風は、どこから来るのか。外は閉じられている。内は、開いている。開いている内の方が、夜は広い。
零司は、手探りでカメラを掴んだ。レンズは冷え、ボディは静かだ。目を閉じたまま、彼は指先の記憶だけでシャッターを押した。薄い音が、部屋の黒の中に落ちた。落ちた音は、戻ってこなかった。戻らない音が、背中の冷たさと並んだ。並びは、写真の中でしか見えない。写真は明日、見る。明日という言葉だけが、ここではまだ現実だった。
黒曜館は、夜を閉じた。陸からの衛星回線の赤い点滅は、遠い血管の拍動のように、規則正しく輪を刻み続けた。誰もがそれを見たはずなのに、誰もそれに触れなかった。触れないことで、夜は整う。整った夜の中で、背中のない影が、壁の奥でわずかに動いた。動きは、ここでは誰にも聞こえない。音が嘘をつき、空間が真実を伏せる。伏せられた真実は、明かされる前から、形を持っていた。




