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黒曜館の十三人(インスパイア元:十角館の殺人/綾辻行人先生)  作者: 妙原奇天
◆第2幕「崩壊と錯乱」

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第十九章 崩壊

 最初の揺れは、床の下で誰かが大きく息を吸っただけに思えた。絨毯の毛足が逆立ち、テーブルの脚が一歩だけ動く。だが次の瞬間、館全体が低く唸りを上げた。壁から、軋んだ弓の弦みたいな音がいくつも伸び、天井の照明がひとつ、またひとつうつむく。

「可動壁が自動回転してる!」

 芹沢が叫んだ。父のスケッチを胸に抱いたまま、白い指が震えている。「誰かが制御を……いや、制御が壊れて、全部いっぺんに……!」

 大広間の扉がひとりでに開き、廊下の先の壁が回る。角は角であることをやめ、まっすぐな線が丸い帯に変わり、空間が歪む。私たちの立っている床が、ほんの少しだけ傾いた。そのわずかな傾きが、体の中の平衡をひっくり返す。世界が、ゆっくり落ちていく。

「こっちだ!」

 零司が香月の手首を掴み、自分の胸へ引き寄せた。香月の肩が触れ、彼の鼓動がこちらの骨に移る。「出口を探す。光のある方へ」

「待って、どの光?」

 香月の声は笑い声に似た震えを含む。「壁が動くなら、光だって動く」

 瑞貴は机に飛びつき、銀色のリール缶を胸に抱え込んだ。缶のふたが外れかけ、彼女は指で押さえ、ぎゅっと抱きしめる。

「これだけは、渡さない!」

 叫びに涙の響きはなかった。ただ、決めた人間の声だった。彼女の背中の筋肉が硬く、肩甲骨がシャツの布を浮かせる。机は少し滑り、床の白い傷が見えた。そこへ、天井から粉が降る。電球がひとつ、はじけた。硝子がこまかく飛ぶ。

「離れろ!」

 嶺木が伸ばした腕が、瑞貴の抱える缶に触れる。奪うのではない。持ち直させるために手を添えた。だが、その彼の肩に、黒い影が落ちた。天井の梁が短く声を上げ、つぎの瞬間、崩れた天井の板と鉄の骨が彼を押し潰す。音は一度だけ。重く、終わる音。

「嶺木!」

 私は床にひざをつき、崩れた板を押しのけようとした。指が木の刺を拾い、皮膚が裂ける。血は出るのに、痛みは遅れてやって来る。嶺木の顔は粉と血で半分隠れ、片方の目が薄く開いた。息はある。ほとんど、糸みたいな息。

「動かすな……」

 彼は自分で笑った。「背中が……嫌な音をした。俺はいい。先へ……」

「黙って!」

 香月が涙を吸い込み、ふるふると首を振った。「まだ話すの。あなたはまだ話すのよ」

 館がうめいた。今度は壁の内側で、鉄と鉄が擦れる音がする。回る音。軸のうなりが低く太くなり、床と壁の合わせ目から薄い風が生まれた。風は冷たいのに、湿った匂いを運ぶ。フィルムの甘さと、焦げた埃と、鉄の錆。鼻の奥に刺さる匂いが混ざり、息を吸うたびに胸が重くなる。

「この館は……生きてる……?」

 香月が震える声で言った。震えは恐怖だけではない。何かを思い出しているような震えだ。十年前の夜、踊り場の手すりが鳴ったときの音。あの音と、この音は似ている。生きているものが声を出すときの、喉の震え方に似ている。

 芹沢は否定できなかった。父のスケッチを握ったまま、喉の奥で嗚咽がちぎれる。「父さんは、ここまで考えていたの? 回る壁、隠れる廊下、十三の番号……でも、これは違う。これは……」

 言葉がそこで折れた。彼女は口を押さえ、肩で息をした。

 照明が次々に落ちた。天井から、ひゅう、と細い風が下りる。暗闇は真っ黒ではない。青い、灰色の暗さ。足下灯が最後に残る光になり、その白は頼りない。頼りないから、目はそこへ吸い寄せられる。足の裏で床の歪みを探り、壁の息を聞く。どこへ行けば、少しでも厚い空気があるのかを探す。

 そのとき、映写機が、勝手に回り始めた。誰も触っていない。スイッチのレバーは下がったままなのに、ランプがつく。うなりは、壁の奥の機械の声に重なって太くなる。光が一本、闇の中を突き抜け、壁へぶつかる。壁は回転しながら、光を片っ端から拾い、次の面へ渡していく。光は追いかけ、追いつけず、また当たる。

 壁一面に、十年前の映像が投影された。歪んだ四角の中に、私たちの知っている夜が生まれ、揺れる床で波打ち、角度によって伸び縮みする。そこに、春名が笑った。頬に光。髪に風。笑いは声にならないのに、耳がそれを補う。笑いの軽さと重さを、同時に思い出す。

 春名が倒れる。画面が乱れ、すぐ戻る。落ちる影。引かれる背中。手すりの黒。あの夜、あの角、あの速度。胸の奥で、また一本、何かが切れる音がした。私は自分の足を掴んでいるような気分になった。今、床がなくなっても、手を離すな。離したら、十年前の自分がここで笑う。

 映像の中で、春海が振り返った。光の具合で、目が深く見える。春名の目の奥にあった光と似ているのに、違う光。春海は目の上の筋肉をほんの少し動かし、こちらをまっすぐ射抜く。撮る手の高さが、私たちの目と同じになった。観客であるはずの私たちが、画面の中にいるような錯覚。

 春海の唇が動く。音声はないはずなのに、喉の奥に声が落ちる感覚がして、次の瞬間、たしかに聞こえた。

「見ていたのは、あなたたちの方だったわ」

 誰かが息を吸う音が、闇の中でひとつだけ大きかった。私か、香月か、瑞貴か。あるいは館そのものか。映像の春海が私たちを見る。画面の端で、誰かの手が動く。押す手か、支える手か、握る手か、離す手か。種類を言い当てようとして、言い当てる前に、揺れが本物になった。

 館が崩れ始めた。崩れると言っても、いきなり全部が落ちるわけではない。床の固い面が粘土みたいに柔らかくなり、壁の角が溶け、梁の力が逃げる。可動壁が、一斉に反対の向きへ回り、噛み合っていた歯車が空を噛む。輪の中で輪が空をつかみ、掴んだ空を引き裂く。音は、低いのに、耳の奥で高い。骨の中に白い音が広がる。

「離れて!」

 零司の声が、音の平野に杭を打った。彼は香月を抱き寄せ、身体を盾にするように前へ出た。香月はその胸を押して、顔を上げる。「私だけじゃない!」 彼女の視線は私たち全員を数える。誰もが、誰かを抱き寄せることはできる。でも、今は、抱き寄せるだけでは足りない。

「フィルム!」

 瑞貴がリール缶をもっと強く抱く。缶の縁が肋骨に食い込み、皮膚が白くなる。「これだけは、外に出す。春名の“見届け”を消さない」

 別の梁が落ちた。さっきより近い。空気がひと呼吸ぶん粉でふくらみ、視界が白く濁る。嶺木の肩がさらに沈む。私はがむしゃらに板をどけ、零司が鉄の角を持ち上げ、新田がガーゼを広げる。芹沢は歯を噛み、片手で父のスケッチを離さない。離したら、ここで全部が嘘になると知っているみたいに。

「出口は、どこ」

 新田がライトを振った。光は壁に吸われ、すぐに別の面へ反射して遠のく。出口は壁が覚えている。壁は、私たちが覚えようとした出口を、次々と別の場所へ持っていく。頭の中の地図が、どんどん薄くなる。薄くなる地図に線を描き足す時間はない。

「工房の裏階段!」

 芹沢が叫んだ。「父の図面の余白! 崖の上の平地に出る“無印の線”。回廊の下を抜けて、東の角へ!」

「道は、壁が消す!」

 瑞貴が答える。「でも、私たちの足音は消せない。いちど、同じリズムで踏む」

 沈黙の回廊で練習した同期。五分の沈黙は、今はない。けれど、呼吸はある。三、二、一。私たちは床を同時に踏んだ。ドン、という乾いた音が、粉の雲の中でひとつに集まり、壁で薄くなって戻る。二度目。音がわずかに太った。壁が一瞬だけ躊躇する。その躊躇は、道になる。

 足を出す。粉で滑る。手を伸ばす。手が何かに触れる。触れたものが壁なのか、人の肩なのか分からない。分からなくても、離さない。離したら、十年前の夜に戻る。戻らない。戻さない。

 映写機の光が、まだ回っている。壁に投影された春名の顔が揺れ、春海の目が光を拾う。映像は映像でしかないのに、私たちの足元に現れた段差の高さや、風の向きや、壁の回る速度さえも、画面の中の彼女らが合図しているように思える。観測者の視線が、こちらの呼吸と重なる。

「春海!」

 私は画面に向かって、ほとんど反射で叫んだ。自分でもどうしてその名前が最初に出たのか分からない。けれど、画面の中の彼女は、かすかに笑い、また口の形を作った。

「あなたたちが、見ていた」

 声はさっきと同じ文を繰り返す。なのに、意味が変わる。責めでも、赦しでもない。ただ、事実の確認。だからこそ痛い。自分の体が鏡になって、こちら側の顔が見える。誰かが押す手。誰かが撮る目。誰かが編集する心。誰かが笑う口元。誰かが沈黙で支える肩。

 館のうなりが一段高くなった。崩れる速度が増す。壁の黒はより黒く、揺れる光はより白く、間の灰は広がる。天井の木が一本、斜めに落ち、床の鉄骨が軋んだ。梁の端が机をかすめ、紙の束が舞い上がる。春名のノートの複写が一枚、空中で回転し、映写機の光を薄く透かしてから、私の腕に落ちた。紙には、知っている文字。

 見えないものが、いちばんよく見える。

 紙を丸める暇はない。私はそれを胸の内側に差し込んだ。熱が、紙の向こうで鈍く暴れる。心臓の拍動が文字に触れ、触れた文字が内側で音になった。見えないもの――今、壁の向こうにいる誰か。春名の双子。最後の観察者。あるいは、私たち自身。

「行こう!」

 零司が叫ぶ。彼は香月の背を押し、瑞貴の肘を取る。新田が嶺木の肩の板を押しのけ、芹沢が父のスケッチを片手で掲げるように持った。スケッチの赤い線が、粉の白と混ざって薄く滲む。滲んだ線は、まだ道の形をしている。

 走る。走っているつもりなのに、足は遅い。床が柔らかい。重力の向きがときどき斜めにズレ、足首の奥で筋が軋む。壁が回る。こちらへ寄って来る。寄って来る壁の面に、映像の光が当たる。春名がこちらへ歩いてくるみたいに見える。春海がこちらへ顔を向ける。彼女の視線が、私の視線とぶつかる。彼女は「見て」とは言わない。私の「見る」を、そのまま返すだけ。

 崩れた天井の向こうから、白い光が差した。外の光ではない。太陽の光ではない。機械の光でもない。壁の奥で、何かが割れて、外側に向かって光った。光は冷たくて、熱い。肌に刺さるのに、焼けない。目に入るのに、痛くない。光が空気の粒をひとつずつ拾い、浮かせ、拡げる。粉は光を受けて踊り、光は粉の輪郭を数える。

「工房の裏だ!」

 芹沢が指さす。壁の間の狭い口が一瞬だけ開き、向こうに鉄の階段の影が見えた。崖の上へ通じる梯子。その手前で、別の面が回り、口はすぐに塞がる。だが、位置は分かった。分かっただけで、体は動く。

「同期!」

 瑞貴が短く言い、私たちは床を踏む。ドン。壁の回転が半拍遅れる。その半拍が、走る身体の間に隙間を作る。隙間はすぐに閉じる。その前に、肩をひねり、足を差し、身を滑らせる。鉄に手のひらの皮膚がとられ、痛みが、さすがに今度はすぐ来た。痛みは生きている証拠だ。生きていれば、向こうへ抜けられる。

 嶺木の身体が、そこで止まった。板が、彼の腰のあたりで食い込んで動かない。彼は自分でそれを見て、短く笑い、首を振った。

「俺はここまでだ。行け。行け、って言うために医者をやってる」

「嫌だ」

 香月が低く言う。「嫌だよ」

「嫌でも、行け」

 嶺木は言い切った。目は、まっすぐだった。「ここで誰かを止めるのは、俺じゃない。俺は今、止まる役なんだよ」

 彼の口元が、かすかに柔らかくなった。「春名が、あのとき記録を続けたのと同じだ。役は、いつもひとり分足りない。だから、誰かが残る」

 返事を待たず、壁がまた回った。梁が落ちた。粉が舞った。映写機の光が一瞬だけ消え、すぐ戻った。スクリーン代わりの壁に、春名の笑顔の次に、春海の口の形が大きく映る。彼女はもう一度、唇だけで言った。「見ていたのは、あなたたち」。皮肉ではない。責めでもない。鏡だ。鏡に映った自分の顔は、たいてい、思っていたより少しだけ冷たい。

 零司は振り向かず、香月の手を引いた。新田はライトで段差の縁をなぞり、瑞貴はリール缶を抱え、芹沢はスケッチを掲げた。私は胸の紙を押さえ、足を出した。崩れは止まらない。止まらないが、道もまた、止まらない。壁が消し、館が回し、光が私たちを包む。それでも、足は前へ出る。出すたびに、世界の形が変わる。変わるなら、変えさせる。

 頭上で、大きな音。梁と梁がぶつかり、鉄が割れ、ガラスが砕ける。崩れる音がふくらみ、音の中にさらに白い音が混ざる。光が、広がる。闇は押され、灰は薄くなり、黒と白の境界が消えて、全部が白に飲まれる。まばゆい、という言葉では足りない。けれど、他に言い方を知らない。

 私は最後に振り返ろうとした。振り返るべきではないと分かっていても、見るべきものがある気がした。映写機の光、その中の春名と春海、崩れる館、沈む梁、押し潰される影、浮かぶ粉、手を伸ばす誰か、手を引く誰か。全部が光の中へ溶けていく。春海の目が、いちどだけ瞬き、私の方へ細く笑ったように見えた。

 光がすべてを包み込む。音が遠ざかる。体の境目が薄くなる。紙の手触りだけが、胸の内側で確かなまま残った。見えないものが、いちばんよく見える。白の中で、その文だけが黒く浮かぶ。私はその文字をもう一度、口の中で噛んだ。噛んだとたん、世界の輪郭がむこうから噛み返してきた。

 目を閉じる。目を開ける。光はまだ白い。白いのに、細かい粒のひとつひとつが見える気がした。粉のひと粒、鉄のひと欠け、フィルムのひとコマ。すべてが白の中で輪郭を持ち、その輪郭が、私の中のどこかと結びつく。館は崩れていく。けれど、見ていることは崩れない。観察は、まだ終わっていない。そう思った瞬間、白が、音もなく、ひとつに集まった。

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