第十八章 最後の観察者
嶺木は壁に片手をつけ、呼吸を整えながら言った。
「この館には、最初から十三人いた。誰も知らない形で」
乾いた声が黒曜石の壁で削られて、私たちの耳へ戻ってくる。十三。禁忌みたいに扱ってきた数が、ここで平然と口にされた。
「どういう意味?」
香月が息をのんだ。その問いは鋭いのに、どこか祈りが混じっていた。祈りは、事実が変わることを願っているのではない。ただ、事実の形が人間をまだ許してくれる形であってほしい、と願うだけだ。
嶺木は内ポケットに手を差し入れ、擦り切れた透明のカードケースを取り出した。古い学生証。角が丸くなっている。カードの表面には、二人の少女が写っている。片方は春名。もう片方は、春名とよく似ていて、少しだけ目の距離が違う。笑い方が違う。眉の角度が違う。髪の分け目が逆だ。
「春名の双子、春海。事故のあと、転校して姿を消した。けれど、父・芹沢洋一の工房で働いていた。お前の父さんの、助手としてな」
芹沢は蒼白になり、スケッチブックの端を握る指が紙をしわにした。
「嘘……そんな記録、どこにも」
「残さなかったんだろう」
嶺木は学生証を光にかざし、薄いインクの影を確かめた。「記録は、残すことで証拠にもなるし、燃やすときの燃料にもなる。工房にいたのは短い間だったらしい。だが十分だ。ここが動き出すには」
彼は続ける。
「この館は、双子の“もう一人”を再現するために造られた。片方が死に、片方が見ていた。見ていた人間の視線を、鏡で増やす。可動壁で位置を入れ替える。誰もがいつの間にか“他人のもう一人”になる。観察は、まだ終わっていない」
沈黙が落ちた。冷たくて重い。配電機の唸りだけが弱く続き、足下灯の白が少し揺れる。瑞貴が春名のノートを胸に抱え、震える声で言った。
「じゃあ、今ここにいる“誰か”が……」
そのとき、照明がふっと落ち、すぐに戻った。目が白へ慣れ直す、その刹那の空白のあと、私たちは同時に気づいた。柴田教授の姿が、消えている。
「先生?」
新田が名を呼ぶ。返事はない。代わりに、丸テーブルの上。柴田のノートが開かれたまま置かれていた。紙の端はふるえず、置かれたばかりの気配がまだ残っている。端のインクは乾ききっていない。見出しの太字。そこには、こう書かれていた。
実験は完了。記録を閉じる。
耳の奥で何かがちぎれた。零司がノートを手に取り、字を見た。筆圧も癖も、いつもの柴田のそれだ。噓の形はない。
「彼が、仕掛け人だったのか……」
嶺木が低く呟く。「いや、もっと前から始まってた。先生が“閉じる”と言ったのは、誰かにそう言う役割が回ってきただけだ。脚本があるなら、最後に幕を引く人が必要だ。引く人が先生に当たっただけだ」
壁の奥で重い音がした。金属が合わさる、深い、腹に響く音。続いて、遠いはずなのに近い、軸のうなり。私たちは顔を見合わせた。あの音を、すでに知っていた。
“十三番の部屋”の扉が、ゆっくり閉じていく。
零司が動いた。カメラは首に提げたまま、手は素早く。香月、瑞貴、私はその背中についた。新田は灯りと発電機のリズムを目で追い、嶺木は壁に手を当てて方向を示す。芹沢は父の赤鉛筆の言葉を閉じ、深くうなずいた。扉は心に従って回る。ならば、心の向きはひとつだ。
東棟へ走る。足音は揃えない。揃えないことが足音を消す。曲がり角の手前で立ち止まり、耳を当てる。三回、三回、二回。零司が軽く壁を叩く。返事は遅れ、薄い。向こうで何かが塞がっていく。空気の道が狭くなる感触が、耳の骨に触れた。
十三番の縁に刻んだ印は、消されていない。冷たい凹み。鍵穴の幅に指を沿わせると、微かな振動が皮膚へ伝わった。中でレバーがゆっくり動く。人の手ではない速度。機械の速度。誰かが中から「閉じる」側に回した。
「間に合わない」
新田の声が小さく割れた。
「間に合わせる」
香月が息を吐き、バールを縦に持ち替えた。扉の隙間に歯を差し込む。金属が鳴る。歯が少しだけ噛む。耐えられない音ではない。だが、扉の重さは人間の腕力を笑う重さだ。押しても引いても、手応えは変わらない。中の軸は、力の向きを吸って回る。私の掌に汗がにじみ、鉄が冷たく濡れた。
「零司、合図」
「三、二、一」
零司と香月と私は同時に力をかけた。瑞貴は扉の縁に紙を差し込み、動きの量を目で読む。芹沢は床に膝をつき、レバーの音を聴き分ける。内側のスプリングが一度だけ短く跳ね、すぐに沈んだ。
「閉まる方が強い。軸側が優先されてる」
芹沢が言う。「角度を変えて。扉の“心”をこっちに渡さないと」
「心は、こっちだ」
香月が歯を食いしばる。「ここを開けないと、全部が嘘になる」
扉はそれでも、ゆっくり閉じた。隙間が紙一枚ぶんに減り、そこから暗い風が吹き出した。フィルムの甘い匂い。焦げた埃の匂い。レモンの皮を薄く削った匂い。記録の匂い。底に、鉄の味が混じる。
中から、足音が一つ、ゆっくり離れていく。合図ではない。舞台袖の歩き方。滑る靴裏。角度のわかる人間の、迷いのない歩幅。私の背骨が冷たくなった。最後の観察者は、歩きながらこちらを見ている。扉の向こうの暗闇から、こちらの目の位置、呼吸の深さ、力の配分を、一つずつ数えている。
「先生か?」
瑞貴が絞り出す。自分で問いながら、否定したい響きが混ざる。
答えは来ない。代わりに、扉の向こうの壁で何かが軽く弾ける音がし、すぐに沈んだ。合図のリズムではない。判別できない短い音。次に、紙が擦れる音。写真の角を貼るときの、指に馴染む音。スチルが増える。壁の中で、今この瞬間にも。
「嶺木、さっきの学生証」
零司が言った。「春海は今、どこにいる?」
嶺木はポケットから学生証を取り出した。光にかざす。写真の裏に、薄い鉛筆文字。工房の住所。その下に、古い連絡先。もう繋がらない番号。だが、住所はここだ。館の敷地の端。崖の上の小さな平地。工房へ続く裏階段。そこから“十三番”へ繋がる細い通路が、父のスケッチに描かれていた。無印の細線。誰も気に留めない線。図面の余白。
「春海は……ここにいる可能性が高い。『もう一人』として。誰かになり替わって?」
新田の声が震えた。「誰? 私たちの中の誰か?」
「“誰か”である必要はない」
芹沢が唇を噛んだ。「『誰でもない』席から、誰かを動かすことができる。観客席は見えない。見えない席から手を伸ばすなら、顔を変える必要もない。声だけで足りる。脚本と図面と、角度があれば」
扉の隙間がさらに狭まる。香月の指先が白くなり、バールの歯が音を立てて滑る。私は鍵穴の端に爪を立て、溝の深さを確かめる。レバーの戻りが、ほんのわずか遅い。機械に後から手を入れた痕跡。誰かがスプリングを交換し、閉まる力を強めている。準備はずっと前からできていた。
「先生は、どうやって消えた?」
瑞貴が自分に問うように呟く。「照明が落ちたのは一瞬。合図の時刻でもない。近くに“短い袖”がある。机から二歩。壁のすぐ裏側。そこへ滑り、板を回す。『閉じる』という台詞を置いて」
零司が短く頷く。「先生は“語る人”の役を最後まで演じた。語りを置き、沈黙へ消える。美しいといえば美しい。だが、それで終わらせたら、また灰色が増える」
私は呼吸を整え、背中で壁の冷たさを受け止めた。父の三行が骨の内側で並ぶ。音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。心は今、どこへ向ける? 閉じようとする力へ逆らって押すのか。それとも、閉じる先で待つのか。
「沈黙を使おう」
嶺木が言った。「さっき決めた通り。五分だけ、誰も何も言わない。合図も打たない。かわりに、床を同時に一度だけ踏む。同期を二回。『閉じる』行為はリズムを嫌う。機械は一定、犯人は一定じゃない。乱れた瞬間に、音が出る。角度がずれる。その一瞬を、押す」
零司が時計を見て、指で三まで数え、口を閉じた。沈黙が広がる。長い。息をする音が大きく聞こえる。鼓動が指まで下りてくる。配電機の唸りが一定になり、薄い埃が光の帯でゆっくり落ちる。五分は長い。五分の中で、人はたいてい何かを考え直す。犯人も、考え直す。閉める速度を。足を運ぶ順番を。次に貼るスチルの位置を。
私たちは床を踏んだ。同期。乾いた音が一つ、広がり、壁で削られ、戻る。もう一度。二度目の方が少し大きい。扉の向こうで、金具が微かに鳴った。足音が一瞬だけ止まる。レバーの戻りが、ほんの息ひとつ分だけ遅れた。
「今」
零司の声は、囁きとも呼吸ともつかない細さだった。私と香月は同時に力をかける。瑞貴が紙を差し込み、芹沢がレバーのしなりを読み、新田がライトを扉の縁へ滑らせる。わずかに――本当にわずかに――隙間が広がった。紙二枚。指の薄皮が入るか入らないか。その薄さでも、空気は変わる。向こうの温度が、こっちへ流れる。匂いが濃くなる。レモンと鉄と、古い革の匂い。
そのとき、扉の向こうから声がした。抑えた笑い。高くも低くもない。先日のテープと同じ質の声。笑いは短く、言葉はさらに短い。
「まだ、十二人」
怒りが喉へ上がった。けれど、香月は唇を噛んで飲み込み、力を抜かなかった。零司は顔を上げず、同じ角度で押し続けた。瑞貴の手の紙が震え、芹沢の指がレバーの“逃げ”を探る。新田のライトがふっと揺れ、すぐ戻る。誰も叫ばない。誰も走らない。沈黙は怖い。でも、沈黙は輪郭をくっきりさせる。
扉の隙間の向こうで、白いものが揺れた。写真の縁。新しいスチル。そこには、横顔の男が写っていた。ぼやけた眼鏡。口元の形。柴田に似ている。だが確信はできない。ぼやけは意図だ。意図のぼやけは、証拠のぼやけになる。
「先生は“被写体”にされた」
瑞貴が息の中で言う。「同時に、“開幕の語り手”でもある。被写体と語り手。二つを同時に与えられた人は、舞台の上に残れない。だから、いない」
扉はなおも閉じようとする。機械のうなりが低くなり、軸の中の油が冷える音まで聞こえた気がした。私の掌の皮膚に、鉄のきめが細かく移っていく。押す力が体の奥の古い痛みを呼び起こす。十年前の坂の、手すりの冷たさ。あの夜の笑い。灰色の空。すべてが指の中へ戻ってくる。
「父さん」
私は胸の内で呼んだ。声にならない声。父は答えない。答えない代わりに、三行が揃う。音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。なら、心をこちらへ引っ張る。観客席の見えない方角から、こっちへ向ける。
嶺木が床をもう一度踏んだ。わずかにズレた同期。わざとずらした。ずれは波になる。波は軸に噛む。軸は一瞬だけ抵抗を見せる。その瞬間、レバーの回りが軽くなった。
「今だ」
香月の声。私たちは全身で押した。扉が、紙半枚ぶんだけ、戻る。暗闇の中の光が細く伸びる。細い光は、人の目を引きつける。向こうの足音が一つ、早くなる。焦り。焦りは音になる。音は輪郭を持つ。
私は隙間へ、春名のノートの紙端をそっと差し込んだ。ばかげている、と一瞬思った。が、ばかげていない。記録は、扉を開ける力になる。紙は柔らかく、しかし裂けない。向こうの風がページを一枚めくり、字が光の中で白く浮いた。
『見えないものが、いちばんよく見える』
扉の向こうで、足音が止んだ。笑いが消えた。沈黙。沈黙の中で、誰かの息が浅くなる。誰かは、今、見られている。見られていることを知った人間の息だ。やさしくも残酷にもなる可能性を、同時に孕む息。
だが、機械の側は正直だった。軸は「閉じる」の命令を忘れない。レバーは戻り、スプリングは縮み、扉はゆっくり、確実に、閉じた。紙は最後の一瞬で、向こうへ吸い込まれるように滑り、消えた。金属が合わさる、腹に響く音。鍵が自動で噛む、短い音。重い静寂。
私たちはしばらく、その金属の面に手を当てたまま動けなかった。皮膚が鉄に貼りつき、体温が少しだけ奪われる。奪われた熱はどこへ行くのだろう。扉の向こうで、誰かの頬を温めるのだろうか。新しいスチルの糊を乾かすのだろうか。あるいは、春名のノートの白を柔らかくするのだろうか。
零司が手を下ろし、短く言った。
「追う。正面からだけじゃない。裏階段。工房。父さんの図面の“余白”。春海が通った道。先生が消えた短い袖。全部、同時に押す」
瑞貴がうなずく。「私は“書き換える”。脚本を。『映える』を消す。『灰色』という語の回数を半分に減らす。残りの半分は、“ここにいる人間の名前”で埋める」
新田がライトを握り直す。「灯りは落とさない。落ちる前に言う。焦げた埃の匂いが増えたら、言う」
芹沢は扉に掌を当て、目を閉じ、開いた。「父はここで止まっている。だから、私は進む。春名の“見届け”の上に、私の“開示”を重ねる」
そのとき、どこか遠くで、ガラスが細かく砕ける音がした。風の中へ混じるには大きく、私たちを怯えさせるには小さい。観客席の影が席を移った。最後の観察者は、動いた。十三の席は、やはり最初から埋まっていたのだ。空のグラスは消え、代わりに壁の中のスチルが一枚、どこかで増えた。
扉は、もう開かない。今は。鍵は、こちらの手の中にない。けれど、扉は心に従って回る。こちらの心が折れなければ、鍵は必ず、再びこちらの手の中に現れる。E-13の刻印は見えないが、重さだけが掌に残っている気がした。
私は深く息を吸った。鉄と塩と埃の匂いが胸に刺さる。痛みではなく、覚悟のかたちをした刺さり方。父へ言葉を投げる。春名へ、そしてどこかでこちらを見ている“もう一人”へも。
「見ていて。今度は、私が見る。あなたが見たものより、少しだけ手前で止める。少しだけ奥まで開ける。どっちもやる」
静かな合図。三回、三回、二回。返事は来ない。今は要らない。私たちは背を向け、走らず、足音を散らし、同時に、別々の方向へ歩き出した。沈黙の回廊は、私たちの沈黙を吸い、壁は音を削り、角度は誰かを欺く。だが、どこかで必ず、扉は心に従って回る。最後の観察者が微笑んでいるなら、その笑いの形も、いつか壁に貼ってやる。
十三番の部屋は、重く閉じたまま、薄い風だけを吐き続けた。風は冷たく、甘く、ほんの少しだけ、レモンの匂いがした。




