第十七章 灰色の真実
堀内の体温は、指先から静かに消えていった。圧迫していたガーゼの白が、血の色を吸い上げるのをやめたとき、香月は肩で息をしながら、ほんの短い間だけ目を閉じた。新田が脈をもう一度さぐり、柴田が瞳孔をライトで照らす。返ってくる反応は、もうなかった。
「……時間を」
零司が低く言う。新田が震える手で腕時計を見る。秒針の動きは一定だ。彼女は喉の奥で小さく数え、声を絞り出した。
「二時二十三分」
沈黙が落ちた。私たちは誰も泣かなかった。泣くより先に、耳が働いた。館の息づかい、配電機の唸り、壁の向こうのわずかな空気の動き。どれも色を失って、灰色に聞こえる。音の輪郭から温度が抜けると、世界は静かになる。静かになった世界の真ん中に、堀内の体が横たわる。彼はさっきまで「ここを知っている犯人がいる」と言い、薄い笑いを作った。その薄さも、今は残っていない。
私たちは簡単に体を整え、床の格子を戻し、工具とノートを回収した。誰も勝手に散らなかった。零司の一言で、館中央の回廊に集まることに決まったからだ。全員の足音はいつもより静かにそろい、曲がり角で自然に止まる。合図を打つ必要もないほど、動きが一致していた。
中央の大広間。天井の照明はまだ不安定で、蛍光の白が時おり薄くなる。丸いテーブルの上に、瑞貴がスケッチブックを広げた。父のものではない。彼女自身の、薄い罫線の入った大学ノートを切り離して綴じ直したものだ。紙の白は、ここでも少し灰を含んでいる。彼女は鉛筆を取り、これまでの動線を、一本ずつなぞるように引き直していく。
「父は、罪の動線を図面にしたのね」
芹沢の声は落ち着いているように聞こえたが、指先はわずかに震えていた。スケッチブックの脇に、彼女は父の赤い三行を書き写している。音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。赤鉛筆の色も、ここでは少しくすんで見えた。
香月は椅子に座り、両手で額を覆った。長い深呼吸を二度、三度。それから、誰に向けるでもなく呟いた。
「もう終わらせたい」
その声は、謝罪とも懇願とも違った。疲労の奥で、芯だけが残っている声。燃え残った炭が白くなる直前の色を思い出す。
柴田は弱々しく頷いた。彼の眼鏡には薄く埃が積もり、レンズの向こうの瞳は赤い。「終わらせるには、誰かが“語らなければならない”。見たことを、したことを、“どう見たか”まで含めて語らないと、これは終わらない」
彼の言葉は、教師だったころの口調を少しだけ取り戻していた。
瑞貴は目を閉じ、春名のノートを開いた。ページの紙は薄く、角が柔らかい。文字は真っ直ぐで、ところどころでインクの濃さが揺れる。彼女は一行目からではなく、指が止まった位置から読み始めた。
『わたしは彼らを責めない。ただ、見届ける。
観察の果てに何が残るかを、確かめたい』
読み上げる声は、ノートの紙と同じ質感で広がった。誰も途中で口を挟まない。春名の文は、言葉を選ぶ音がしない。思いつくままではないのに、飾る努力の気配がない。観測者の手が書く線は、こんなにも静かなんだ、と私は変なところで感心していた。
香月は顔を上げた。瞳のふちに溜まっていたものが、薄く溢れた。涙はぽたぽた落ちるのではなく、目尻から細い線で落ちた。彼女は自分の声を低く保とうとしたが、途中で一度だけ裏返った。
「私は彼女を突き落とした。でも、あの瞬間……誰も止めなかった。笑ってた。あの子も、私も」
笑っていた、という言葉が室内の温度を一度下げた。笑いは暖かいはずなのに、思い出すだけで冷たくなる笑いが、この世にはある。私たち全員がその種類の笑いを知ってしまったから、誰も反論しない。反論したくないわけじゃない。ただ、正しい言葉の順番がどこにも見当たらない。
沈黙が、今度は長く続いた。配電機の唸りがひと呼吸ぶんだけ太くなり、廊下のどこかで板が微かに鳴る。波の音は遠い。新田が鼻をすする音が小さく響き、柴田が咳払いを一度だけした。
瑞貴はゆっくり立ち上がった。手帳を閉じ、春名のノートの上に両手を置く。爪は短く切られ、指にインクの汚れがついている。彼女は口角を上げようとして、うまく上がらないのを諦めた。
「それを脚本にしていたのが私よ」
軽い言い方ではなかった。重く落とすのでもない。ただ、事実をテーブルに置く動きに似ていた。
「死を“演出”した。映えると思った。誰かが落ちても、映画になると思ってた。あの夜のことを、どこかで“使える”と信じていた。十年かけて、私は“使いどころ”を探していたのかもしれない」
空気が一段硬くなった。硬くなれば割れる。割れれば音が出る。香月が椅子を引く音は、やけに大きかった。彼女は立ち上がり、瑞貴に詰め寄った。二人の距離は、ひと呼吸ぶんで埋まる。
「じゃあ、あなたがこの旅を仕掛けたの?」
問いは直線だった。装飾のない一文は、ときに刃以上に鋭い。
瑞貴は首を横に振った。否定は速くない。言葉の重さを確かめる一秒が入る。
「違う。でも、もしそうなら……悪くない終わり方でしょ?」
笑った。笑うというより、笑みの形を作った。哀しい。自分に向けた刃を、わざと見えるところに置く笑い方だった。
香月の肩がわずかに揺れた。拳は握らない。彼女はゆっくり息を吐き、言葉を飲み込むようにして、一歩だけ引いた。引くという選択ができるうちは、まだ終わっていない。終わりの手前で息を継ぐ方法を、誰もが体で覚え始めていた。
そのとき、廊下から足音。私たちのものではない。重さが違う。片方の足だけが少し遅れる足音。私たちは一斉に扉の方を見る。影が揺れ、体が現れた。嶺木だ。額に汗、頬に粉、袖は裂け、首の辺りに小さな擦り傷。ふらつく足取りで彼は中に入り、テーブルの端に手を置いて自分を支えた。目は覚めているが、焦点はまだ薄く揺れる。
「嶺木」
零司が近づこうとして、嶺木が手のひらを上げて制した。彼は息を整え、短く、しかしはっきりと言った。
「お前たちの誰でもない。もう一人いる」
背筋に冷たいものが走った。言葉は図面より強い。図面は線を動かすが、言葉は体を動かす。芹沢の鉛筆が紙の上で止まり、柴田は椅子に座り直す。新田は反射的に周囲の灯りを見渡し、香月はドアの方へ半歩出た。
「見たの?」
私の声が先に出た。自分でも驚くほど低い声。
「姿は見えない。いや……『見せない』の方が近い。角度を使って、鏡を使って、位置を入れ替えていく。あの沈黙の回廊から、別の回廊に滑る方法を知っている。俺は一度、袖の向こうで足音を聞いた。合図のリズムじゃない。演者の足じゃない。“舞台袖を知ってる人間”の歩き方だった」
嶺木の言葉は、簡潔だった。医者が症状を並べるときに近い。恐怖を数に変える癖が、彼にもある。
瑞貴はスケッチブックに新しい線を足した。中央の回廊から斜め下へ、薄い鉛筆で一本。そこに小さく「別経路」と書く。線は強くない。だが、一本増えただけで図は違う顔になった。道が増えると、犯人は増えなくても“可能性”が増える。増えた可能性の分だけ、灰色の面積が広がる。
柴田がゆっくり口を開いた。
「『もう一人いる』という言葉は、安易に使うと“免罪符”になる。だが、今の嶺木の言い方は違う。具体がある。経路、足音、角度。抽象ではない。ならば、受け止めるしかない」
彼は眼鏡を外して拭きながら続けた。「“もう一人”は、十年前の事故にも関わっていたのか、それとも今だけなのか。そこが分かれ目だ」
「今だけの人間が、あのフィルムの部屋を知っていたとは思えない」
香月が言う。声の震えは消えていた。「鍵は私たちの手にあった。でも扉は、向こうからも回せた。回せることを知っている“もう一人”。春名のノートの在りかも、あのスチルの並びも、すべて“見せ方”を意識して配していた。これは偶然では作れない」
「春名が設計したの?」
新田が怯えた目で問う。瑞貴は首を横に振る。答えは早かった。
「春名は“観測者”。見る人。記録する人。場を“作る”役は別にいる。舞台で言えば、美術と照明と転換。『場』を味方につけられる人間。……父か。あるいは、父の図面を読み解ける誰か。『父の弟子』。『父の隣にいた人』」
芹沢は鉛筆を止め、掌をじっと見た。指先に残った粉をこすり落とす。彼女の声は小さく、しかし澄んでいた。
「父はもういない。図面は残った。残った図面を動かしているのは、生きている人。父が“見せたい”と思った真実に、別の“見せ方”を重ねている。目的は同じでも、手段が違う。目的も違うのかもしれない」
「堀内さんは『犯人はここを知ってた』と言った」
零司が短く付け加えた。「そして、テープに『まだ、十二人』の声が残った。数字を数え、減ることを楽しむ声。“見せ方”を知っている声。観客席の暗がりから、舞台の上に手を伸ばす人間の声だ」
灰色の沈黙が、また部屋を満たした。黒と白の境目が、薄く混ざって広がる。はっきりしない色は、人を落ち着かなくさせる。だが、はっきりしないものを“灰色”と名づけると、少しだけ扱いやすくなる。私たちは誰が言うでもなく、その灰色の中央に立った。
瑞貴が春名のノートをもう一度開き、別のページを読む。今度は、少しだけ長い段落だ。
『人は自分が見られていると知ったとき、やさしくなることも、残酷になることもある。
やさしさは“見られたい”の一種で、残酷さも“見られたい”の一種だ。
私は、どちらも記録する。どちらを責めるかは、未来の観客に渡す』
柴田がゆっくりと頷いた。「“語り”が必要だと、さっき言った。だが、語り手が語るほど、語られないものが増える。語られないものは、灰色になる。ならば、語りと沈黙の間を往復する。数字で縛り、記録で固定し、最後に“見る”」
「嶺木、傷は?」
香月が現実へ引き戻す。嶺木は大丈夫だと言い、袖の破れを気にしもしない。額の汗を拭うと、彼は短く報告した。
「沈黙の回廊から、さらに狭い横穴へ入った。金具の位置は新しい。粉が細かすぎる。古い紙を削った粉だ。フィルムかノート。……そこで、誰かが待っていた。いや、『待っていたように“作られていた”』。板が回り、足場が半分だけ落ちた。俺は肩を打って、意識が飛んだ。目を開けたとき、壁に“十年前のスチル”がある別のミニ回廊にいた。そこには“笑う春名”の隣に、“背中だけの女”のスチルが追加されていた。新しい紙。端が切り立っていた。……犯人は自分の“スチル”を増やしている」
空気がさらに冷えた。自分のスチルを増やす。自分の存在を、壁の中に混ぜ込む。観客席に座るのではなく、壁そのものになる。そんなことを思いつき、実行する人間が、私たちの誰かの隣に立っている。
「――“灰色の真実”だな」
零司がぽつりと漏らした。「黒でも白でもない。正しさと間違いの境界に、わざと曖昧を重ねる。そうすれば、誰も手を伸ばせない。触れた瞬間に、そいつの手も灰色に染まるから」
「灰色は、映画では一番きれいよ」
瑞貴が返す。皮肉ではなく、事実として。「粒子が出る。ざらつきが出る。記憶の画に近づく。でも、現実の灰色はきれいじゃない。匂いがする。粉の匂い。鉄の匂い。湿った紙の匂い。……私は、もう“映える”なんて言葉でごまかさない」
香月は深く頷いた。「私は逃げない。十年前の私を、ここに置く。そのうえで、今の犯人を出す。春名のノートは“見届ける”と言った。私は“引きずり出す”。そのためなら、なんでもやる」
「なら、手順だ」
柴田が立ち上がり、テーブルの上に手のひらを広げた。教師の声に戻す。「一、嶺木の受傷場所へ全員で行く。二、回廊の“新しい金具”を確認。三、スチルの追加を撮影。四、合図を続ける。五、E-13の扉をもう一度開け、フィルムを上へ。六、春名のノートの写しを作る。七、誰も一人にならない」
「八」
新田が小さく手を挙げた。「灯りは私が見る。落ちる前に、落ちる匂いがする気がする。さっきから、ほんの少しだけ“焦げた埃”の匂いが増えた。ブレーカー室、誰かが触ってる」
零司が頷く。「灯りは新田。記録は瑞貴。案内は芹沢。指揮は柴田。俺は切り出しじゃなく“見届け”に回る。香月は……」
「扉を押す人」
香月は自分で言った。「私は押すことができる。十年前、間違った背中を。今は、正しい面を。回せる板を、回す」
足元で光が一度だけ揺らいだ。新田が顔を上げる。「落ちる」
次の瞬間、照明が薄く消え、すぐ戻る。誰も悲鳴を上げない。誰も走らない。みんなが目の動きだけで位置を確かめ、近くの人の肩に一瞬だけ触れ、離す。合図。三回、三回、二回。遠くで薄く返る。返った音は、さっきより短い。壁がまた、どこかで角度を変えた。
「行こう」
零司の声で、私たちは立ち上がった。瑞貴はノートとスケッチブックを抱え、芹沢は父の三行のページを閉じた。柴田は小さな救急袋を肩に掛け、新田はライトの角度を調整する。香月は両手を一度強く握り、静かに開いた。
扉の前で、嶺木がもう一度言った。
「“もう一人”は、俺たちの足音を知ってる。合図の癖も、呼吸の深さも、視線の位置も。だから、逆に使う。俺たちが“舞台の上”にいることを、こちらから利用する」
「どうやって?」
芹沢が問う。
嶺木は薄く笑った。医者の笑いだった。患者に手順を説明するときの、落ち着かせるための笑い。
「沈黙だよ。『沈黙の回廊』で学んだろ。沈黙は、音の輪郭を浮かび上がらせる。俺たちが“あえて”沈黙を選ぶ。五分のあいだ、誰も何も言わない。合図も打たない。かわりに、床を“同時に”一度だけ踏む。その同期を二回。リズムを作る。犯人は“乱れる”。乱れたとき、音が出る。角度がずれる。そこを、押す」
灰色の真実は、黒でも白でもない。だからこそ、こちらの選ぶ色で輪郭が変えられる。私は頷き、胸の奥で父に言った。見ていて。今度は、私が見る。あなたの図面の上で、私たちの足で、灰色を切り分けていく。
私たちは歩き出した。足音は揃わない。揃えない。廊下の角で止まり、短く目を合わせ、沈黙を選ぶ。五分の沈黙は長い。長いのに、やれる。やるしかない。灰色の中で、私たちは灰色のまま、しかし確かに“前”へ進んだ。
背中に、見られている気配があった。見えない観客は、そこにいる。だが、もう観客席だけに閉じこめてはおかない。壁の向こうの“もう一人”を、こちらの舞台に引きずり出す。春名が願った“見届け”の果てに、私たちがやる“開示”を重ねる。その二つが重なったとき、灰色は灰色のまま、形になる。
その形を、この手でつかむまで。




