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黒曜館の十三人(インスパイア元:十角館の殺人/綾辻行人先生)  作者: 妙原奇天
◆第2幕「崩壊と錯乱」

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第十六章 沈黙の回廊

 映写機の熱はまだテーブルの板に残っていた。薄く焦げたレモンのような匂いが、喉の奥で引っかかる。誰もすぐには口を開けなかった。音が止まると、言葉はいつも重くなる。薄い埃が光の帯から離れ、空気の中へほどけていくのが見えた。


 沈黙を切ったのは、香月だった。

「わたしが押した」

 短い呼吸の合間に、彼女は続けた。

「でも、あれは……あの子が笑ってたの。あまりにも軽く。あの軽さが、嫌で」

 涙は落ちない。目の縁が赤いだけだ。彼女は自分の両手を見下ろし、指の節をひとつずつ握って確かめるようにした。十年前の夜に触れた手の感触が、骨の中に残っているのだろう。


 零司は首から下げたカメラに手をやり、ゆっくりと下ろした。

「それでも、撮った俺たちは同罪だ」

 彼はフィルムを巻き戻した映写機の側で立ち、暗いランプハウスに指を伸ばしかけてやめた。「見て、持ち帰って、黙った。見たという事実を、映像という形に切り出して、何もしなかった。切り出すことは、隠すことになる」


 机の角に置かれた春名のノートが、微かにめくれた。空調はないはずなのに、紙は動いた。芹沢はその音に反応して顔を上げ、唇を噛んだ。

「父は……父はこの真実を見せるために館を造ったのね」

 自分に向かって言う調子だった。誰に同意を求めるでも、許しを請うでもない。

「可動壁で視線をずらして、沈黙で音を薄くして、記録を残す部屋を地下に隠した。ここまでやって、最後に扉を開けるのは、わたしたちの役目。父はそこまでを、たぶん……」


 瑞貴が顔を上げ、ふっと笑った。笑いは冷えていたが、皮肉ではない。

「じゃあ、今ここで幕を閉じましょう」

 彼女の声は、舞台監督の「ラスト」と同じ響きを持っていた。「告白も出た。映像もある。観客は見えないが、ここまでで“第一幕”は充分」


「閉じるのは早い」

 柴田が遮った。声は低く、けれどはっきりしている。「十年前の事故については、今ようやく輪郭が出た。だが、今起きていることは別だ。久遠の死。堀内と嶺木の失踪。『今』の犯人は誰か、まだ分かっていない。話を閉じるのは、責任の放棄になる」


 言葉は鋭いが、責める音ではない。柴田の額には疲れが刻まれていた。彼は震える指で眼鏡を押し上げ、深く息を吐いた。


 沈黙が戻る。そこへ、床下から鈍い音がした。低い、骨に触れるような音。鉄骨が軋む、乾いた音。誰かが下で、重いものを動かしたのだ。全員が同時に振り向く。換気口の格子がひどく冷たい空気を吐き出し、足首を撫でた。


「……見つけた……」

 かすかに、声が上がってきた。堀内の声だ。擦れている。水の向こうから聞こえるように、音の輪郭が薄い。


 零司が格子へ駆け寄った。「堀内さん! どこだ!」

 返事はない。代わりに、金属が爪で弾かれるような細い音がした。


 迷う間はなかった。全員が手分けして床を外す。バールの角度を香月が指示し、瑞貴が釘を押さえ、新田がライトで照らす。芹沢は格子の端を持ち、零司は落ちないよう身体を橋のように渡す。格子が上がり、暗い穴が開いた。


 冷気が濃くなった。鉄骨はさっきより湿っている。薄い水膜が、懐中電灯の光を跳ね返した。私は躊躇わずに降りる。靴底が鉄の縁に滑り、手のひらで支える。水が手首に触れると、体の内側へ冷たさが這い上がる。零司、瑞貴、香月、柴田、新田。全員が続く。誰も上に残らない。館は息を潜め、私たちを飲み込んだ。


 中央の空洞を抜けると、別の空間へ出た。黒曜石の支柱が幾本も立ち、周囲の鉄骨と組み合わさって、巨大な回転軸を成している。柱の間には狭い回廊が走っている。腰の高さほどの幅。壁は滑らかな黒。ところどころ、指の跡のような曇りがついている。誰かが頻繁に触れてきた面だ。


 懐中電灯を向ける。黒い壁に白が浮いた。紙だ。小さなスチル写真が、等間隔に貼られている。古いフィルムから焼き出したものだろう。角が丸くなっている。五センチ四方の小さな窓の中で、十年前の夏が止まっている。


 春名、笑う。頬の筋肉が素直に上がり、目尻が光る。笑い声は紙からは出ないのに、見た瞬間に耳の奥で鳴る。彼女の笑いは軽くない。重さがある。重いからこそ、持ち上げると光る。


 春名、倒れる。画角の端。背中、足の動き、手すりの影。落ちるのではなく、引かれる。重力だけでは説明できない引きの速さが、そこにある。


 春名、海を見る。遠い水平線。風で髪が乱れ、彼女は目を細める。笑っていない。泣いてもいない。ただ、見ている。観測者の顔。何かを測ろうとするとき、人の顔はこんな形になるのか、と他人事のように思った。


 瑞貴が壁に手を伸ばし、すぐ引っ込めた。「……この配置、見覚えがある。舞台の袖に貼る“立ち位置写真”と同じ。転換の合図と合わせて、俳優の足の運びを一瞬で思い出させるための」

「まるで、彼女がこの場所を設計したみたいだ」

 柴田が呟く。自嘲ではなかった。驚きと、尊敬と、恐れが混ざっている。「春名は観測者だった。見るだけじゃない。『見せ方』を、知っていたのかもしれない」


 回廊の奥で、低くうめく声がした。堀内だ。ライトを向ける。黒い支柱の影に、誰かが横たわっている。近づく。堀内だった。側頭部から血を流している。血は多くはないが、床の鉄に沿って細く伸びている。頬には粉がついて、涙の跡のようになっていた。


「堀内さん!」

 膝をついて呼びかけると、彼はうっすらと目を開けた。焦点が揺れる。私の顔を見たのか、壁の向こうを見たのか、分からない。

「犯人は……ここを……知ってた」

 言葉は途切れ、喉が鳴る。「鍵じゃない。角度。角度で……扉を作ることを、知ってる」


 彼の右手が固く握られていた。指の関節が白い。零司がその手にそっと触れ、開く。抵抗は弱い。掌には細いテープが握られていた。カセットでも、映像でもない。古い小型レコーダーのマイクに貼るための、補助テープだ。表面は毛羽立ち、ところどころ切れている。折り目に黒い粉が溜まっていた。


「取られた?」

 香月が問う。堀内は弱く頷いた。「音を……録ってた。『夜』の……誰かの声。途中で……壊された。けど、少しは……残ってる」


 香月はテープを受け取り、懐から携帯型のボイスレコーダーを出した。彼女はもともと現場資料を音でも残す癖がある。テープの幅を確かめ、端子に固定し、小さなアダプタを介して再生回路に噛ませる。機械音が一度だけ鳴り、次に、薄い空気の流れの音が広がった。


 最初は何も聞こえない。耳を澄ます。波でもない、発電機でもない、遠い靴音でもない、もっと浅い層の音。誰かの服のこすれる音が混ざり、短い呼吸の切れ目が入る。誰かが近くで笑った。笑いは高くも低くもない。抑えた笑い。冷たい。だが楽しんでいる。


 声が、言った。

「まだ、十二人」


 瑞貴が顔を上げた。零司は無意識にカメラを握り直し、柴田は硬く目を伏せた。新田は小さく肩を震わせ、芹沢は歯を食いしばった。十二。この館に今いる数。誰かの計算が、乾いた声の中で、確かに打たれた。


「堀内さん、誰がやったのか、見た?」

 零司が問う。堀内は、首をほんの少しだけ横に振った。

「見えなかった。鏡で……ずらされて。声は……近いのに、遠い。壁が……音を……」

「削る」

 芹沢が続けた。父の三行が、ここでも牙を見せる。「音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。犯人は、この三つを全部使っている」


 回廊の空気が重くなった。黒曜石の支柱が、光を吸っている。壁のスチルの春名が、笑っている写真の中で、こちらを見ているように感じた。彼女は今、観客席のどこに座っているのだろう。あるいは、幕のすぐ裏で、こちらの台詞を数えているのかもしれない。


「応急手当を」

 香月が顔を上げ、声を戻した。血は止めなければならない。彼女はポーチからガーゼを出し、堀内のこめかみに圧迫をかける。新田がテープを持ち、柴田が手際よく巻く。手の動きは静かだ。恐怖の隙間に、訓練された動きが入ると、空気がわずかに軽くなる。


 零司はレコーダーを止め、テープを慎重に巻き取った。「音はこれだけか」

「他にも……あった。けど、取られた。『笑い声』だけ、残った」

 堀内は苦笑の形に口角を引き、すぐ顔を歪めた。「連中は……連中、なんて言葉を使うと、負けだな。犯人は一人かもしれない。だけど、この『場所』自体が、犯人の味方をしている」


 瑞貴が立ち上がり、回廊の壁を見回した。「『場所』が味方をする。舞台で言えば、書割と袖と照明が“犯人のために”組まれているってこと。だから、私たちは“観客”や“俳優”をいったんやめる。『場当たり』をやる。ひとつずつ、動線と段取りを確かめて、間違いを潰す。沈黙は怖い。でも、沈黙が一番、声の輪郭をくっきりさせるときもある」


「沈黙の回廊、か」

 柴田が口にした。名付けは、恐怖を少しだけ飼いならす。「ここはそう呼ぶにふさわしい。声は薄くなり、映像だけが壁に貼り付く。十年前のスチルと、今の私たちの影が並ぶ」


 私は春名のスチルの中の「海を見る」を見つめた。水平線の白は細い。黒の海が大きく、白は細い。白は細いけれど、目はそこへ引き寄せられる。人はどうしても、細い光へ目をやる。だから、犯人は灯りを消す。灯りが消えた瞬間、人は白を探す。その一瞬に背中が開く。


「戻ろう」

 零司が言った。「堀内さんを上へ。嶺木さんを探す。『十二』が『十一』にならないように」

 数字が口の中で冷えた。言葉は怖い。しかし、言葉を言わなければ、恐怖は形を失って広がるだけだ。


 私たちは交代で堀内の肩を支え、回廊を戻った。春名のスチルは背中に残る。笑う。倒れる。海を見る。最後の一枚の下に、小さな鉛筆の文字があった。春名の字だ。薄く、しかし迷いがない。


 「見えないものが、いちばんよく見える」


 私は読み上げなかった。胸の中でだけ繰り返し、格子の下から大広間へ戻った。上の空気は湿っていて、塩の匂いが強い。天井の灯りはまだ不安定だが、先ほどよりリズムが整っている。発電機の息が、耳の裏で落ち着いた。


 応急の手当を終えると、全員の顔が同じ方角を向いた。大広間の壁だ。彫った小さな印、その横に、細い横線。誰かが爪でつけたような新しい傷。ほんの五分前にはなかった。誰かが、ここまで来て、壁に触れ、何かを確かめ、去った。


「合図を」

 零司が壁に金属棒を当て、三回、三回、二回。返事が、遠くで薄く返る。返った音はいつもより短い。壁が音をせき止める位置が、どこかで変わったのだ。犯人は『場』を動かしている。『場』が犯人の味方をする。


「『夜』の音を、もう一度」

 香月がレコーダーの巻き戻しを押し、再生ボタンを軽く叩く。薄い空気の流れ、布の擦れる音、そして、笑い。抑えた笑い。高くも低くもない。聞くたびに、温度が下がる。言葉は短い。


「まだ、十二人」


 それは数え歌のように、私たちの耳に残った。誰かが席を移り、誰かが息を潜め、誰かが扉の向こうで角度を合わせている。沈黙の回廊は動かない。だが、私たちは動く。動かなければ、数は誰かの手の中で勝手に減っていく。


 柴田が椅子に手を置き、言った。

「沈黙を選ぶのは、こちらだ。犯人に強いられる沈黙ではなく、こちらの意志の沈黙だ。『声』を探すための沈黙。『音』を削らせないための沈黙。五分ごとに合図、三回、三回、二回。外れたら戻る。慌てない。走らない。記録する。数える」

 瑞貴が手帳を開き、新しいページに大きく書いた。沈黙の回廊。横に矢印を引き、役割の表を書き換える。観測者、記録者、灯り、編集者、被写体、指揮者、管理者、案内人、開く人――そして、犯人。最後の一行の右に、薄く「場」と書き添えた。


 私たちは頷いた。恐怖は消えない。消えないが、薄く形が出てきた。形が出れば、選べる。選べば、扉は心に従って回る。春名が残したスチルの前で、私はもう一度、心の中だけで言った。


 見ていて。今度は、わたしたちが見るから。

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