第十四章 三つの不在
夜半、館の電気は息をするみたいに不安定になった。天井の蛍光灯が、ひと呼吸ごとに明るさを増したり減らしたりする。配電盤の唸りは波の合間に伸びる糸のように細く、頼りない。窓の外では風が向きを変え、海の鳴り方も低く短くなっていた。
零司は、迷いを見せなかった。声を張らずに、しかし逆らえない調子で言った。
「全員、大広間に。数える」
私たちはそれぞれの持ち場から通路へ出て、足下灯の骨みたいな光を踏みながら集まった。椅子を寄せ、テーブルを中央に寄せる。数えると、十。堀内と嶺木がいない。
「さっきまで、南廊下を確認していたはずだ」
柴田が言い、すぐに自分の声にひるんだ。掠れて、切れる。零司はうなずき、番号の割り当てを確認しながら、もう一度ゆっくり数えた。十。やはり増えない。
そのとき、新田が呟くように言った。
「……グラスが、ない」
全員の目が、自然とテーブルの端へ移った。昨夜から動かさなかったはずの“空のグラス”。欠けた縁が光を拾うのが、見当たらない。誰も片づけていないのに、そこだけ空白だった。テーブルクロスのわずかな凹みが、そこに何かが置かれていたことだけを示している。
「誰が触った?」
香月が全員の顔を見渡した。誰も手を挙げない。理由を探す沈黙が、天井の薄暗がりに滞っていく。
「停電の間に誰かが……」
新田が言いかけ、言葉を飲み込む。言い切れるはずがない。停電と暗闇はいつだって、誰のせいでもない“都合”になる。そこへ責任を押し付ければ、たいていのことは簡単に流れる。だからこそ、危ない。
配電盤がひときわ大きく唸った。次の瞬間、灯りが落ちる。短い闇。四、五秒。自分の鼓動だけが耳に残る。ふっと明かりが戻る。戻った光はひと呼吸ぶん遅れて私たちの顔を照らし、さっきよりいくらか青い。
「私はもう責任を持てない」
柴田が、テーブルに両手をついた。声は荒く、いつもの論理の衣を脱いでいた。「ここは管理できない。もともと無理だったんだ。私は……私は、最初に判断を誤った。こんな場所で“思い出”なんて言って、人を集めた。招集メールにしたって、私は出していないのに、出したことにされて……」
言葉は均衡を失い、音の手前で崩れた。
「先生は最初から責任を放棄していた」
香月が静かに言った。叱責ではない言い方だったのに、全員の背筋に冷たいものが走った。「十年前から。あのとき、春名さんが助けを求めたときも、あなたは“あとで話そう”と言って背を向けた。今も“あとで”って言っている」
空気が動かなくなった。誰も反論しない。柴田の肩が、小さく上下した。彼は椅子に腰を下ろし、指を組み、額に押し当てる。額の下で、顔の形が見えない。
瑞貴が、手帳を開いた。ページに線を引き、そこへ一つずつ単語を書き込んでいく。ペンの走る音が、やけに大きく聞こえた。
「役割を書き出そう。曖昧にしていると、誰かのせいになる」
彼女は読み上げた。
「指揮者、観測者、記録者、被写体、編集者、管理者、案内人、観客……」
そこまで言って、少しだけ間を置いた。
「そして犯人」
新田が、堪えきれず鼻の奥で泣き声を立てた。手の甲で目をこすり、うつむいたまま言う。
「私は何? 何の役?」
瑞貴は視線を落とし、答えだけを置いた。
「君は灯りだよ。消えたとき、いちばん先に“何が見えなくなったか”に気づく人。さっきだって、グラスがないと、君が最初に言った」
「灯り……」
新田は繰り返し、息をひとつ吐いた。言葉は慰めではなかった。慰めより、今必要な位置だった。
零司は椅子から立ち、全員の顔を順に見た。カメラは持っているが、電源は切ったままだ。
「役は変えられる。変えたいなら言って。今は、目の数を増やすこと。耳の数を増やすこと。手を出す順番を間違えないこと」
うなずきが続いた。震えや怒りはまだ残っているのに、全員の視線は少しだけ“次”へ向いた。
私は壁際に立ち、黒曜石みたいな面に手の平を当てた。刻んだ小さな印が指先に触れる。紙やすりで彫ったばかりの浅い溝だ。位置はずれていない。そこは“動く壁”の縁――そのはずだった。私は溝から少し外れた場所へ手を滑らせ、耳を寄せる。板と板の合わせ目の奥で、何かが微かに鳴いた。金属が触れる、乾いたクリック。身体の中で別の何かが応えたみたいに、背中の汗が冷たくなる。
「今の音、聞こえた?」
問いかけるより早く、背後の壁が軽く回った。本当の“軽さ”は音で分かる。重たい物体が、釣り合いの取れた軸で滑る音。数センチ、いや紙数枚ぶんだけ、面が引いて、暗い隙間が生まれる。隙間の黒は廊下の黒とは違う。光を拒む黒だ。
その暗がりの奥に、白があった。白というより、反射。目だ、と分かるまでに時間はかからなかった。黒の奥で、誰かの眼球がこちらを見ている。まばたきはしない。黒目が小さく揺れて、私の顔のどこか一点を射抜き、次に全体を舐めるように動いた。
「離れて!」
香月の声と、配電盤の低い呻りが重なった。灯りが、落ちた。
視界が風で吹き消されたように消え、椅子や皿の位置が頭の中だけの地図に変わる。ほぼ同時に、女の短い悲鳴が上がった。誰かの肩がぶつかり、金属の落ちる音、ガラスの鳴る音、布の擦れる音が、暗い部屋の中央で固まった。足音が一つ、二つ、三つ。四つ目がどこかで消えた。
明かりが戻る。私たちの視線が同じ一点に吸い寄せられた。テーブルの脚の影の中に、小さな金属の束が落ちている。鍵だ。見覚えのある形。柴田の鍵束から欠けていた一本。拾い上げると、冷たさが皮膚に吸い付いた。頭の部分に打刻がある。E-13。
「十三番?」
誰かが小さく言った。音ではなく、息が抜ける気配でわかった。十三番は、存在しないはずだった。平面図にも、父のスケッチにも、書斎の本棚の奥の古い配置図にも、部屋は一から十二まで。十三という番号は、この館で“言葉”としてしか使われてこなかった。形ではなく、影として。
「冗談は、やめてほしい」
柴田が言った。額に当てていた手をゆっくり下ろして、鍵の刻印を見た。顔には疲れと悔しさと疑いが混ざり、どの色も強くない。「Eは……東棟、だよね」
「東棟の十三番目。東側の廊下には扉が十二しかない」
香月が、平坦に確認する。「“扉は存在しない”けれど、“鍵は存在する”。だから、扉はどこかに“ある”。壁の向こう、あるいは床下。番号だけが先に用意されている」
零司が鍵を受け取り、光にかざした。刻印は新しくも古くも見える。どの時代にも通用する程度の摩耗。溝には粉が溜まり、縁にだけ小さな傷が三つ並んでいる。誰かが不用意に落とした痕だろうか。あるいは、わざと。
「堀内さんと嶺木さんは?」
新田が震える声で問う。誰も答えない。答えられる材料が足りない。足りないときに、言葉は傷になる。
「まず、灯りの問題を抑えよう」
零司は、役割のとおりに手を打った。「ブレーカー室を確認。発電機は手動に切り替える準備。誰かが板を回す音がしたとき、必ず“合図”を入れること。三回、三回、二回。大声は出さない」
頷く音がいくつも重なった。私たちは二組に分かれた。零司、香月、私はブレーカー室へ。瑞貴、柴田、新田は大広間で記録と見張り。行き違いが致命傷になると、全員が分かっている。
通路は、先ほどより少し冷えていた。足下灯はまだ灯っていたが、光の色が頼りない。ブレーカー室の扉は閉じたまま。零司が鍵を回し、扉を押す。中は狭く、白い蛍光灯がちらつく。メーターの針は踊らないが、音の高さが不規則に上下する。配線の束に新しい結束バンドの跡があり、その上に粉が掛かっている。粉はまた、金属の匂いがした。
「誰か触ってる」
香月が配線の角度を目で追い、壁の目地へ視線を移す。目地に、細い擦り傷が二本。今できたものではないが、古くもない。
零司は発電機の切替レバーに手を掛け、深く息を吸った。
「切り替える。数えるよ。三、二、一」
灯りが一度だけ落ち、すぐ戻る。低い唸りがわずかに太くなった。手動発電の音だ。安定はしないが、予測はしやすい。息と同じリズムで落ち、同じリズムで戻る。無秩序よりは良い。
戻る途中、東棟の曲がり角で、香月が立ち止まった。壁の継ぎ目に、薄い色の違いがあった。チョークの粉の名残でも、テープの剥がし跡でもない。見たことのない“汚れ”。指で触れると、冷たい湿りがある。匂いは……血とは違う。古い布の匂いに近い。触った指先に、きめの細かい粉が残る。
「この向こうに、何かがある」
香月は息を整え、壁に耳を当てた。耳の奥で、自分の血の音と違う“空気の流れ”を拾う。向こう側を風が通っている。狭い空間に空調はないのに、空気は動く。どこかに穴がある。
大広間に戻ると、瑞貴が手帳の新しいページを破り、テーブルの中央に置いた。紙の上には、さっきの“役割”がもう一度並び、横に矢印で別の言葉が添えられていた。
「役は動く。今、私たちは“観客”でもある。見られているだけの観客じゃなく、“覗き返す観客”。そのための鍵が、これ」
彼女は零司から受け取ったE-13を指さした。
「番号に意味がある。十三は“ここにあるのに、ないもの”。“存在しないことになっている部屋”。だから鍵だけが先にある。鍵は“扉の不在”を証明する道具になる。ないものを“ある”にするための」
「……詩人みたいな言い方をやめてくれ」
柴田が弱い笑いを作り、すぐ消えた。「だが、言いたいことは分かる。鍵は“証拠”だ。使える。どこに挿す?」
私の胸の中で、父の言葉が浮いた。音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。父が“扉”を廊下の扉だけの意味で使っていたとは思えない。板も扉。覗き窓も扉。鍵穴が見えない鍵穴が、どこかにある。
「東棟の廊下の二つ目の曲がり角、床が落ちるところに、目地の濃い場所があった」
私は言い、香月がうなずいた。瑞貴は手帳に印を付け、時刻を書き添えた。零司はカメラの電源を入れようとして、また切った。
「記録は頭と手で。カメラはあと」
彼はそう言い、鍵をポケットに入れた。
私たちは再び東棟へ向かった。足音は互い違いに重ね、交差しないようにした。空気の流れを乱さないためだ。角で止まり、耳を澄ます。今度は足下灯の光が一定だ。配電機の唸りは一定ではないが、リズムは読める。壁の面に、刻んだ印がくっきり見える。昨夜より、手元が頼もしい。
問題の継ぎ目は、目で見れば普通だ。近づくと、違う。目地の黒がわずかに濃い。チョークの粉が溜まりにくい。空気の温度が、指先で変わる。
「鍵穴なんて、ない」
新田が不安そうに言った。私はうなずく。
「表には、ない」
零司は鍵を取り出し、頭の刻印を親指でなぞった。鍵の歯は一本ではない。横に二枚重なっている。片方の歯は浅く、もう片方は深い。普通の扉ではない何か――たとえば“ロックレバー”のようなものに噛む形だ。
「ここ、押して」
香月が継ぎ目の周囲の“少し滑る地点”を見つけ、私たちに位置を示した。私はそこに指を当て、手首をわずかにひねる。壁の内側で、短い金属音。零司が鍵を継ぎ目に差し込む――差し込むというより、縦の隙間に歯を“合わせる”。鍵は奥へ入らない。歯が“触れる”だけ。そこで、軽く押す。次の瞬間、内側のどこかのスプリングが返る音がした。板が紙一枚ぶん、浮いた。
「回る」
零司が囁く。私と香月が同時に力をかける。ゆっくり、慎重に。呼吸を合わせ、肩で押す。板が、回った。
暗い狭間が、また口を開けた。今度はさっきより広い。手のひら一枚、いや二枚ぶん。中に空気が動いている。冷たい空気。石の匂い。深い粉の匂い。
「入るのは、二人まで」
香月が言い、零司がうなずく。「私と芹沢で行く。瑞貴、新田はここで。板が動いたら、合図を」
「三回、三回、二回」
新田が復唱し、喉の奥で息を整えた。
私と香月は、身を滑らせて中に入った。狭い。“見学席”だった通路よりもさらに狭い。踵を壁に擦らないように進むと、すぐ右手に短い踊り場があり、その先にまた板の継ぎ目が見えた。ここは“つなぎ目の小部屋”だ。瑞貴が言ったとおり。舞台転換のために一瞬だけ人が身を隠す空間。板の裏に小さな金具がいくつもあり、指で押せるように加工されている。
壁の内側に、薄い数字が彫られていた。目を凝らすと、十三の刻印。誰かの手で、雑に刻まれている。指の跡が残るほど浅い。私の喉が、勝手に鳴った。
「合図」
香月が壁を軽く叩く。三回、三回、二回。外から同じリズムが返る。板の向こうから聞こえる“気配”は二つ。瑞貴と新田だ。彼女たちも息を殺しているのが伝わってくる。
さらに奥へ行こうとしたとき、足元で乾いたものが砕けた。見ると、薄い白い粉に混じって、黒い繊維が少し。布の端のような、焦げた紙のような。拾い上げると、粉の匂いに混じって、弱い薬品の匂いがした。古い接着剤か、消毒液か。記憶のどこにもはっきり結びつかない匂いは、不意に怖い。
「戻る?」
「いや――」
香月は首を振った。「ここにいるのは、堀内さんと嶺木さんかもしれない」
そのとき、板のもっと奥から、ほんの僅かな「擦る音」がした。指の腹が木を撫でる音。私と香月は同時に顔を上げ、互いの視線で合図した。私は手を伸ばし、板の縁に軽く触れた。外からの押し返しはない。内側のロックが“半分だけ”解けた感触。誰かがここを通り、また止めた。
私は息を浅くし、父の言葉を胸の内で言った。扉は心に従って回る。回れ、と心が言った。私は肩で押し、香月が手首で角度をつけた。板がもう一段、軽くなった。暗闇が深さを増す。空気の温度が下がる。
その奥に、また覗き窓があった。さっきの食堂を見下ろす窓ではない。もっと狭く、もっと低い。床から膝の高さほどの位置に、横長の穴。そこから覗くと、廊下の角が斜めに見え、足下灯の光が細く切れていた。そこを、何かが通ったばかりの気配。粉がまだ舞っている。
「いる」
香月が小声で言い、私はうなずいた。ここへ来て、ここを使い、ここから出ていった。誰かが。堀内たちか、それとも――。
外から、三回、三回、二回。合図。私たちは同じリズムで返し、狭間を戻り始めた。出ると、瑞貴はすぐに鍵の刻印と板の縁を写真に収め、紙に簡単な図を描いた。新田は震えをこらえながら、時刻を書き続けている。役は動く。今はそれでいい。
大広間に戻ると、灯りはまだ落ちたり戻ったりを繰り返していた。空のグラスは、やはり戻っていない。テーブルの端の空白が、誰の席でもないまま残っている。
柴田は私たちの顔を見、何かを決めるように小さくうなずいた。
「十三番を“あること”にする。鍵がある。場所の当たりもついた。明け方を待たずに動くと、向こうが板を回す。夜明けと同時に、東棟を開ける。二班で同時に押す。ロックは……」
「二段。内側にスプリング、外側にレバー」
零司が答え、鍵をテーブルに置いた。「E-13は外側のレバーに噛む。内側は、向こうからしか外れない。だから、合図を続ける。聞こえる限り」
瑞貴は手帳を閉じ、言った。
「観客は見えない席に座る。でも、舞台の上の俳優は、暗闇に向かっても台詞を言う。届くかどうかは知らない。ただ、言う。ここから先は、それをやるしかない」
彼女は“役割”の最後の行に、もう一つ言葉を足した。開く人。
灯りがまた落ち、戻る。配電盤が息をする。館が低く軋む。波が遠くで砕ける。私たちはそれぞれの位置に立ち直り、同じリズムで合図を続けた。壁は厚い。音は削られる。それでも、薄く、細く、向こうから返ってきた。三回、三回、二回。遠い。けれど、確かにある。
そして、三つの不在は、そこに並んだままだった。堀内。嶺木。空のグラス。どれも形を持たない。しかし不在そのものが、誰かの意図の形を作っている。鍵は、テーブルの中央で冷たく光り、E-13の刻印だけがはっきりしている。存在しないはずの扉の番号は、今夜になって初めて、重さを持った。
朝は、まだ遠い。けれど、私たちはもう、待つだけではなかった。扉は、心に従って回る。ならば、心をこちらに連れてくる。観客が見えない席にいるなら、こちらから光を持っていく。灯りは、新田の役。合図は全員の役。開けるのは――たぶん、私たちの役だ。
私は深く息を吸い、鍵の冷たさをもう一度指で確かめた。十三番。存在しないはずの名前。ここにある重さ。見えない観客が息を潜める気配を背に感じながら、私は壁に掌を当てた。印は、消されにくい。消されにくいものから始める。それが、今夜、私たちが選べる、いちばん小さくて確かな戦い方だと思った。




