第十三章 見えない観客
板の継ぎ目が閉じたあと、芹沢と瑞貴はしばらく声を出せなかった。暗さに目が慣れ、狭い通路の輪郭が少しずつ見えてくる。幅は肩より少し広いくらい。身を横にすれば、二人並んで進めなくもないが、安心できる幅ではない。足下は粗い板張りで、踏むと小さく鳴る。鳴り方が場所によって違う。乾いて軽い音、湿って鈍い音。板の下に空洞があるところと、支えの桟があるところが、交互に続いているのがわかる。
「前に行くしかないね」
瑞貴が囁く。冗談は挟まない。息だけを短く整えて、懐中電灯を胸元で覆い、指の間から細い光を落とす。正面の壁に、指先ほどの凸凹が続いている。人の手が触れた回数で磨かれた場所は、わずかに滑る。
通路はゆるく曲がっていた。曲がり角のたびに、二人は立ち止まり、耳を澄ます。外の波音は遠く、建物の軋みだけが近い。ときどき、板の下で何かが粉のようにこぼれる音がする。前に進むと、微かな風が顔に当たった。向こうへ抜ける道がある。
五分ほどで、二人は小さな開口部に行き当たった。壁に四角い穴が開き、向こう側へ黒が落ちている。覗き窓だ、と直感した。高さは胸の位置。身をかがめると、そこから食堂が見えた。さっきまで皆で座っていた、あの長いテーブル。空のグラス。切れた電球。椅子の背に掛かった上着。どれも、少し低い位置から、真上の光を受けて見える。舞台の照明ブースから、舞台を覗き込む角度に似ている。
覗き窓の縁には古い傷が数多くついていた。何度も誰かがここに額を当て、肘を置き、身を乗り出してきた痕だ。芹沢は喉がひゅっと狭くなるのを感じ、手すり代わりの横木を掴んだ。木は冷たい。
覗き窓のすぐ横に、紐で束ねられた紙の束が置かれていた。黄ばんで、角が丸い。表紙はなく、紙の端に日付と時刻が並んでいる。瑞貴が束を手に取り、最初の一枚をめくる。書かれているのは、記録だった。
誰が、どこからどこへ移動したか。何を持っていたか。立ち止まった場所。交わした言葉。笑い声が出たかどうか。椅子を引く音の回数。ドアが開閉した時間。細かい。異様なほど細かい。一つの行動のたび、時刻が秒単位で打たれている。
筆跡は一つではない。太い字、細い字、丸い字、角ばった字。日の途中で字が変わっている日もある。何人かが交代で、あるいは一緒に、この束を作ってきたことが、見て取れた。日付は半年以上前から始まり、今週の分まで続いている。彼らが館に来る前の記録もある。サークルの集まりの日、リハーサルの指示、忘年会の献立のメモのような走り書きまで混じっていた。
瑞貴が、息混じりに笑った。震えが混ざっている。笑いながら、笑っていない目だった。
「やっぱり舞台よ。ずっと前から、誰かが私たちの“動き”を台本にしてた。これは進行表。上手から入場、椅子三脚、拍手四拍、照明暗転……そういう類いの」
「父は、こんなものを……?」
芹沢は膝をつき、紙束の別のページをめくった。赤鉛筆で丸がつけられた日付がある。隣に「検証」「再演」と書かれていた。父の字に似ている気もするし、違う気もした。似ている字は、いつでも疑わしい。誰でも真似られる。真似られた字は、意味を隠す。
返事の代わりに、通路の奥から足音が聞こえた。軽くはない、しかし重すぎもしない。一人分。板の上の粉を踏む音が、乾いた砂のように小さく鳴る。二人は同時に動いた。懐中電灯のスイッチを切り、身体を壁に寄せ、息を止める。覗き窓の下の食堂の光が、通路の灰をわずかに照らし、そこに二人の影が薄く落ちる。影が動けば、見えるかもしれない。芹沢は肩を静かに下げ、動きを止めた。
足音は近づいた。十歩、五歩、三歩。鼻先の先、板の節が一つ鳴る位置で止まる。誰かが手探りで壁に触れた感触が、木を伝って来た。指の腹で板を撫でる音。呼吸が、聞こえる。男か女か、判断がつかない。人の体が、そこにある。こちらと同じ高さに、顔がある。十秒、二十秒。長い。やがて、足音は通り過ぎ、通路の先へ遠ざかっていった。もう一人の気配はない。
覗き窓の下から、微かな声が届く。食堂には人がいる。零司の声だ。低く、少し掠れている。
「君はまだ、彼女に謝っていない」
間を置いて、香月の声。
「謝ることは誰のため? 春名のため? 私自身のため?」
声は薄く、言葉の端が壁に吸われて変形している。それでも、言っていることは届いた。病室のカーテン越しの会話のように、相手の顔は見えないのに、表情だけが浮かぶ。
瑞貴は目を閉じ、口の形だけで何かを言った。言葉にはならなかった。彼女は紙束をそっと元の位置に戻し、芹沢の腕をつつく。行こう、という合図だ。
通路の先は、さっき足音が向かった方角だ。二人は音を立てないように歩き、曲がり角で止まり、手の甲で壁を軽く叩いた。同じような構造の板の継ぎ目がいくつもあった。押す、引く、斜めに押す。先ほど学習した“開き方”を試す。二度、三度、五度。十数回目で、板がほんの少しだけ浮いた。外から力が加わっているのか、内側のロックが弛んだのかはわからない。だが、回る手応えがあった。
「今だ」
二人で力を合わせる。手のひらで押す角度を揃え、肩で送る。金属が短く鳴り、板がふっと軽くなる。隙間に体を差し入れ、通路から廊下へ身を滑らせた。足下灯の細い光が、足首に触れる。外の空気は、通路より少し冷たかった。
息を吸い直した瞬間、廊下の向こうから駆け足の音が近づいた。懐中電灯の光が二本、こちらへ伸びる。零司と香月だ。二人とも息が上がっている。零司は芹沢の肩を掴んだ。
「出られたか」
「うん。時間はかかったけど」
香月は周囲を見回して、短く問う。
「堀内さんと嶺木さんは?」
「合流地点で会っていないの?」
「まだ。食堂に戻る途中のはずだけど……」
三人と合流した瑞貴が、腕の時計を見た。約束の時間から、もう十分以上過ぎている。ルールでは、五分ごとに合図を送ることになっている。だが、ここ数分、叩く音は一度も聞いていない。
嫌な沈黙が落ちた。四人は互いに目を合わせ、言葉の前に動いた。廊下の角を一つずつ曲がり、息を合わせて進む。香月が先頭に立ち、嗅覚を頼りに足を止める。
「……血の匂い」
香月は低く言って、懐中電灯を床へ向けた。タイルの目地に沿うように、髪の毛一本くらいの細い赤い線が見える。濃淡がある。新しい。指先で触れると、ぬるさはないが湿り気は残っている。誰かが血を引きずったのではない。皮膚を切った指で、壁に手をついたような、細い接触の痕。
線は角で折れ、また短く続き、壁の継ぎ目のところで途切れている。そこで、消えている。床に垂れていない。乾いていない。まるで、壁の中に吸い込まれたように。
零司が壁を押し、引き、叩く。動かない。堀内なら開けられるはずの板が、ここでは壁でしかない。嶺木の落としたものはないか。懐中電灯で周囲を探す。ガーゼの切れ端、テープの切れ端、何かの金属。何もない。血の線だけが、確かにここで止まっている。
「戻って、全員で来よう」
香月の判断は早かった。「今は四人。無理に開けようとして、こちらまで閉じ込められたら意味がない」
戻る途中、瑞貴が突然立ち止まった。背筋がまっすぐ伸び、声は低かった。
「観客は、いつだって見えない席に座る」
言い終えた瞬間、館全体が短く揺れた。足下灯の光が震え、壁の鏡が鈍く鳴る。波がぶつかったのではない。建物の中で何かが動いたときの揺れだ。誰かが大きな板を回し、空気の流れが変わったときの、あの一瞬の振動。四人は同時に壁に手をついた。震えはすぐに止んだ。止んだあと、廊下がわずかに涼しくなった。
「急いで」
芹沢は父のスケッチブックを抱え直した。紙の重みが腕に馴染む。扉は心に従って回る。そう書かれていた。自分の心は、今、どちらへ回したいのか。戻りたい。探したい。両方だ。
食堂に戻ると、テーブルの上のものは崩れていなかった。空のグラスは昨夜と同じ場所にあり、欠けは同じ角度で光を受けている。椅子の数も、皿の数も合っている。誰かが触れた気配は、ない。空席だけが、そこにある。
柴田が来ていた。顔色は悪いが、声は落ち着いている。彼は四人の表情で、何が起きたかをすぐ察した。
「堀内と嶺木が見当たらない」
「血の線がありました。廊下の角から二つ目の継ぎ目で、消えています」
「継ぎ目で、消えた?」
柴田の目がわずかに揺れた。二、三秒の間に、可能性をいくつか並べ替えている気配があった。
「記録は?」
「いまのところ無し。合図も、先ほどからない」
全員が短く頷き合い、再び動く準備に入る。瑞貴は端末を取り出し、先ほど通路で見つけた紙束の写真を一枚だけ撮っていたことを共有する。紙面の一部には、さっき覗き窓の下で聞いた零司と香月の会話に似た文が、日付違いで記されていた。「謝罪」「目的」「宛先」。ぞっとするほど似ている。まるで、それもまた“再演”であるかのように。
「こんなものが、父の書斎にもあったの」
芹沢はスケッチブックを開き、父の赤い三行を見せた。音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。
「お父さんが、これを全部?」
香月の声には非難はなく、ただ事実を確かめたいという色だけがあった。
「わからない。父の字に似た行もあった。でも、全部ではない。複数の手が混ざってる。誰かが父の考えを使って、ここを動かしてるのかもしれない」
「誰かは、いまもここにいる」
零司が窓の外を見た。夜の海は暗く、波頭の白だけが時々浮く。誰もいないように見えるのに、見られている気がする。視線は、背中に触れるときだけ、温度を持つ。
「二手に分かろう」
柴田は短く言い、割り振りをした。「芹沢、瑞貴、香月はさっきの血の線の場所へ。零司、新田、私は食堂側の壁を再確認する。配電盤とブレーカー室は締め直し。何かあれば、三回、三回、二回だ」
廊下に出ると、さっきの揺れの名残か、壁の鏡がほんの少し曇っていた。曇りの向こうに、白いチョークの線がかすかに見える。夜の湿気は、記録を濡らす。濡れた記録は、簡単に拭える。
三人が血の線の場所に戻ると、線は薄くなっていた。乾いたのではない。広がって、薄くなっている。誰かが上から布でそっと押さえたような広がり方。広がった先の一部は、壁の目地の中に入り込んで消えている。やはり、吸い込まれている。
「ここ」
香月が目地の下を指した。ほんの僅か、黒が濃い。目を凝らすと、板の合わせ目が紙一枚ぶん、開いている。さっきはなかった隙間だ。開いて、すぐ閉じた。誰かが通った痕跡。血は、そのとき中へ吸い込まれたのだろう。
「叩く」
芹沢は金属棒で合図を送った。三回、三回、二回。返事はない。さらに強く叩く。音は厚く吸われる。父の言葉が頭をよぎる。音は壁を削る。削られるまで叩くにしても、時間がかかる。その間に、向こうはどこかへ移動してしまうかもしれない。
「ねえ」
瑞貴が小さな声で言う。「もし、向こうが『観客席』じゃなく、『舞台転換の小部屋』だったら?」
「どういうこと」
「つなぎ目の小部屋。板を回して、俳優が一瞬だけ入って、反対側から出ていく場所。照明が落ちている間に。そこで、姿を変える。手に持つものを変える。服のボタンを掛け直す。ここも同じ。観客には見せないけど、必ず通る場所」
「だとしたら、出入口は一つじゃない」
香月は壁の角度を目で追った。「別の角度に、別の回転軸がある。あの紙束の『角度』のメモと一致する場所があるはず」
「角度は人を欺く」
芹沢は父の字を胸の中で繰り返した。「角度が違えば、同じ壁でも見え方が変わる。可動壁の内側に通路があって、そこから覗き窓で食堂を見下ろせる。反対側からは廊下を覗ける場所もあるかもしれない」
三人で鏡面の端を目で追い、足で床の段差を探り、手で目地をなぞった。ある角度でだけ、反射がずれる場所がある。光の筋が細く曲がる。そこへ指を差し込み、斜め上へ押す。板がわずかに浮いた。ほんの少し。しかし、先ほどより軽い。中から誰かがロックを外して、また別の場所で止めた、という感触。
「今夜は、追いすぎない方がいい」
香月の判断は冷静だった。「向こうは『見られている』ことを嫌う。焦って動くと、次の閉じ込めが来る。全員で、手順を決めてからやる」
食堂に戻る途中、また短い揺れが来た。今度は先ほどより軽い。板が一枚回り、隣の板が少しだけ戻ったような、そんな揺れ。誰かが見学席に座り直した、と言われても信じてしまいそうな微妙な動き。背中に、見られている感じがまた戻る。見られていると、足音が不自然になる。足の運びに意識が行きすぎる。自然に歩けなくなる。舞台の上と同じだ。
「観客はいつだって見えない席に座る」
瑞貴がもう一度言った。今度は笑わなかった。「見えない席は、見えないまま、最前列にもなる。そこから手が伸びるときが一番危ない」
食堂に戻ると、柴田たちも戻っていた。結果は似たようなものだった。配電盤の前に、粉の足跡。扉の内側の目地に、新しい擦り傷。誰かが通った痕はあるが、誰がいつ通ったかは記録できない。カメラも、鏡の角度で欺かれている可能性がある。堀内の持っていた工具の一部が、食堂の隅に落ちていた。ペンライトと、細いドライバー。どちらも血はついていない。
「今夜はここまでにしよう」
柴田は決めた。「全員で食堂で休み、交代で見張る。合図は五分ごと。壁の側に二人、窓の側に一人、配電盤の側に一人。扉に印をつけ直す。目印テープは剥がされたが、今度は彫る。紙やすりは?」
「ある」
新田が手を挙げ、工具箱から紙やすりと彫刻刀を出した。「家具の修理用に持ってきたやつ」
鏡の縁に、目立たない程度の小さな刻みを入れる。番号と短い印。角度の基準。消されにくい記録。瑞貴は紙束の写真をもう一枚撮った。証拠の断片は、少しでも多く手元に置いておきたい。誰かが見せないようにしているものほど、こちらは見える形で残す。
準備が整ったころ、日付が変わった。夜はさらに深く、海は遠く、館の内側の音だけがくっきりする。椅子の鳴り、配管の咳払い、木ねじの軋み。音を数えると、落ち着く。数は裏切らない。裏切るのは、数を使う人だ。
最初の見張りは、零司と芹沢。壁の側に立ち、三分ごとに耳を当て、五分ごとに合図を送る。香月は窓の側。外の気配を見る。新田は配電盤の側。唸りの変化を聞く。柴田と瑞貴は記録係。時刻、音、動き、匂い。匂いの欄には、香月が短い言葉で書き込む。「鉄」「潮」「粉」「古布」。
十五分、何もない。三十分、廊下の向こうで木が軋む。四十五分、足下灯が一度だけ瞬く。五十分、遥か遠くで、三回、三回、二回。叩く音が返ってきた。薄い。削られて、細い。それでも、返ってきた。
「聞こえた」
芹沢は紙に書く。時刻と、方角。零司は壁の一枚を軽く叩き、反応を探る。反応はない。向こうも動いている。動いているのに、ここからは触れない。見えない席の観客が、こちらの反応を待っている。
やがて、夜の真ん中を過ぎた。眠気が足元から上がってくる。立っているのに、床が少し柔らかくなった気がする。柔らかい床は、危ない。足を取られる。意識が落ちる。
「交代」
柴田が声をかけ、見張りが入れ替わる。香月の目はまだ冴えている。彼女は窓から顔を離し、食堂の空気を嗅いだ。変化はない。ただ、空席の前の空気が、ほんの少し冷たい。空のグラスの内側に、細い水滴が一つ、また増えている。結露か、誰かの呼気か。それはわからない。
瑞貴は、さっきの通路で見た紙束の最後のページを思い出し、手元の紙に巨大な円を描いた。円の内側に、扉、廊下、通路、覗き窓、食堂、配電盤。円の外側に、無数の小さな点を散らし、そのいくつかに短い線で「観客」と書いた。点は動かない。点からは、見えない線が伸びている。線は、誰かの動きを測るためのものだ。測る者は、見えない席に座る。
夜明け前、館がまた短く揺れた。今度は音を伴っていた。遠くで板が回り、金属が噛み合い、誰かの足音が一つ、二つ、三つ。合図ではない。歩き方が一定だ。舞台裏の歩き方だ。見られることを前提にしていない足音。音は途中で消え、代わりに、波が近づいた。
誰も、声を出さなかった。声は、壁に吸われる。ただ、全員が同じことを考えた。ここは舞台で、観客がいる。観客は見えない。見えないのに、手を出す。その手は、扉を回す。扉は心に従って回る。心は、こちらにある。
芹沢は父のスケッチブックに指を置き、紙の上で小さな約束を作った。今日、もう一度、覗き窓に戻る。紙束の続きに触れる。筆跡の違いを、確かめる。父の字と、他の字とを、並べる。瑞貴は隣で、短く頷いた。零司はカメラの電源を入れかけ、やめた。香月は窓から離れ、空席を見た。新田は配電盤に手を置き、唸りの高さを指で測る。柴田はテーブルの端に手を置き、数を数えた。十三。数は、変わらない。変わらないまま、形を変える。
夜はゆっくりと薄くなった。薄くなるほど、面の向こうが透けるような錯覚が強くなる。鏡の曇りが取れ、彫った印がまたはっきり浮かんだ。誰かが消そうとしても、今度は消しにくい。こちらの線は、こちらのものだ。
誰も口に出さなかったが、全員が知っている。ここから先は、見えない観客に向けて演じるのではなく、見えない観客をこちらへ引きずり出す作業になる。舞台の上に、客席の暗がりをのせる。光で。音で。記録で。笑いで。沈黙で。方法はいくつかある。怖いのは、その全部が「向こう」の想定の中にあるかもしれないことだ。
それでも、やるしかない。
館は小さく軋み、海は遠くで砕けた。朝の最初の光が、窓枠を細く縁取り、食堂のテーブルの木目に滑った。空のグラスの縁が、その光を細く返す。誰のものでもない席に、誰のものでもない光が落ちる。
見えない観客は、そこにいる。こちらも、そこにいる。扉は、こちらの心に従って回る。回させる。回るまで、叩く。削る。記す。数える。笑う。黙る。立つ。座る。歩く。振り返る。仕草一つまで、記録する。
芹沢は深く息を吸い、胸の奥で、父にだけ届くように言った。
「見ていて。わたしが、見るから」
揺れはもうなく、館は静かだった。静けさは薄く、しかし確かに、誰かの視線の形をしていた。




