第十二章 間取りの亡霊
午後の遅い時間、芹沢はひとりで父の書斎に入った。廊下の足下灯はまだ点く前で、窓からの光だけが本の背に帯のように落ちている。机は古い。天板の端が丸く減り、手の跡のような艶がある。引き出しには小さな鍵穴が見えた。父が最後まで鍵を掛けていた引き出しだ。
机の上のトレイには、父の鍵束が置いてある。館の管理用の合鍵、物置、地下室、配電盤。細い真鍮の一本を抜くと、引き出しの鍵穴がわずかに吸い込むように動いた。鍵は滑らかに回った。
中には封筒が三つと、薄いスケッチブックが一冊。封筒の宛名は工務店や建材商の名前で、見積書が入っていた。スケッチブックは薄い紙で、表紙に鉛筆で「間取り」とだけ書いてある。めくると、線が走っていた。十三角の輪郭。壁の厚み。階段の勾配。メモの走り書き。どのページにも、完成の印はない。途中で止まっている。図の端に赤鉛筆の短い式。角度と距離の関係式、反射角、視線の線、そして言葉。
音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。
紙の余白に、父の筆圧が残っている。迷いは少ない。早く決めて、決めたあとで何度も見直した跡だけがある。芹沢は何度も、その三行を目でなぞった。意味はすぐには取れなかった。けれど、父が真剣に考えた末に残した言葉だということは分かる。
「音は壁を削る」。騒音対策の比喩か、あるいは文字通り、響きが材を擦り減らすという意味か。「角度は人を欺く」。鏡面の壁のことだろう。「扉は心に従って回る」――扉に心などないはずだ。それでも、扉を動かすのは人間だ。決めるのは人の心だ。そういうことか。
その三行を胸に刻むようにして、芹沢はスケッチブックを閉じ、上着の下に挟んだ。引き出しに鍵を戻し、息を整える。ドアノブに手をかけると、廊下の空気が入ってきて、塩の匂いと古い木の匂いが混ざった。
階段を降りる。踊り場で一度振り返り、さらに降りる。二階の廊下に足を出した瞬間、胸のあたりに小さな違和感が走った。見慣れたはずの景色が、どこか薄い。
鏡面壁に貼った蛍光の目印テープが、一本もない。
「……嘘」
昨夜、堀内の指示で、鏡の枚数ぶん、端に番号を書いて貼った。斜めに、千鳥に、長さを変えて。それが、どれも消えている。剝がし跡も少ない。粘着の残りもない。床に落ちた切れ端も一つも見当たらない。誰かが意図して、丁寧に剝がした。
「全部、ないのか」
堀内は駆け寄って、目地を指でこする。鏡は冷たく乾いている。テープの糊がわずかに残っていればすぐ分かるはずだが、指には何もつかない。堀内は歯を食いしばった。
「見られることを、誰かが嫌がってる」
言葉は低く、しかしはっきりしていた。
新田は壁から目を離せない。肩が震え、手が胸の前で固まっている。そこへ香月がそっと近づき、上着ごしに肩を抱いた。
「大丈夫。これは、確認がやり直しになっただけよ」
言いながら、香月も顔色が良くない。誰かが意図して「見え」を消していった事実は、じわじわ恐怖を増やす。見られたくない。記録されたくない。そこに意思がある。
瑞貴は、鏡と廊下を見比べて、唇の端だけを少し上げた。
「可動壁の中に、わたしたちの知らない廊下がある。あるいは、見えているこの廊下が“表面”にすぎない。どちらでも、確かめる価値はあるよね」
芹沢は父のスケッチブックを胸に押し当て、頷いた。堀内は腕時計を見て、短く言った。
「夜の探索を提案する。三班に分かれよう。相互に五分おきに位置を報告。叩く合図は三回、三回、二回。戻れなくなったときのコードは“白”。いいね?」
「了解」
返事はそろって出た。決めることで、少し呼吸が楽になった。
班分けはすぐに決まった。零司と香月。堀内と嶺木。芹沢と瑞貴。
それぞれに懐中電灯、合図用の金属棒、緊急用のテープ。芹沢は白チョークとスケッチブックも持った。父の線と自分の線が、重ねられるかもしれない。
探索は二十一時に始まった。足下灯を落とし、必要最小限の明かりにする。廊下の空気は夜の湿気で重い。靴底の音がいつもより近く聞こえる。
芹沢と瑞貴は、食堂側からスタートした。鏡面を指で軽く叩き、耳を当て、目地を探る。床のわずかな段差、壁の継ぎ目の揺れ。どれも見落とさないように進む。
「さっきの三行、何度も頭で繰り返してる」
芹沢が小声で言う。
「音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る」
「いい呪文ね」
瑞貴が肩越しに笑った。「扉が人の心に従うなら、あの扉は誰の心に従って回るんだろ」
「父の……だといい」
「だといい、ね」
足音がわずかに追いつく。廊下の曲がり角を、懐中電灯でなぞる。黒曜石のような壁の一枚が、わずかに色を違えて見えることがある。昼には気づかなかった濃淡だ。
「ここ、目地の線が荒い」
瑞貴が指を当てた。指先が小さな段差を拾う。人の爪で引っかいたような、細く浅い傷が並んでいる。
「誰かが探った跡」
芹沢は膝をつき、床に顔を近づけた。チョークを取り出し、目地に沿って薄くしるしを入れる。懐中電灯の光が粉を白く浮かせる。
五分の合図の時間が来た。金属棒で壁を叩く。三回、三回、二回。音は鈍い。すぐ近くで消える。壁が音を飲み込む。芹沢は父の言葉を思い出す。音は壁を削る。削れるほど鳴らせば、壁のどこかが疲れるかもしれない。けれど、合図は軽くでいい。
零司の班から返事が来た。三回、三回、二回。堀内の班からも同じ合図。生きている、という確認に、肩の力が少し抜ける。
さらに奥へ。曲がり角をもう一つ折れた先で、芹沢は立ち止まった。
「待って」
壁の継ぎ目が、細く浮いている。夜目の慣れた視線でしか拾えないほどの浮き。紙一枚ぶん。指の腹を縁に当てて、そっと押す。冷たい。だが、微かな柔らかさがある。
「いける」
瑞貴が懐中電灯を芹沢の手元に向ける。二人で息を合わせ、押す。押すだけではだめだ。押す角度をわずかに変える。手首をひねる。回転軸を探る。指の下で、石の板がほんの少しだけ浮き、内側で金属が擦れる音がした。乾いた、甲高い音。聞き覚えのある音。可動壁だ。
「回ってる」
わずかな回転。開口は狭い。闇が黒く、廊下よりさらに黒い。懐中電灯を差し入れる。光が吸われる。埃が舞った。白い粉の粒が光を持ち、ふわりと漂う。床は細かい粉でうっすら白い。壁と同じ黒の奥に、灰色の箱のようなものが立てかけてある。脚立だ。細い三段ほどの簡易脚立。足の部分に粉が付いている。その粉の上に、靴跡がいくつも重なっていた。大きいのと小さいの。浅いのと深いの。新しいのと古いの。
「誰か、頻繁に通ってる」
瑞貴が囁いた。囁きが自分の耳にも薄い。芹沢は喉が乾くのを感じた。水が欲しいのではなく、唾を飲み込むこと自体が怖い。飲み込む音が、壁に吸い込まれてしまいそうで。
「戻って、報告しよう」
芹沢がそう言った瞬間、背中の空気が変わった。冷たくなったのでも、温かくなったのでもない。動いた。背後の板が、静かに、その場で閉じた。
「……え」
二人は同時に身を翻した。開いていた隙間はもうない。継ぎ目は、さっきよりも揃っている。紙一枚の浮きすら消えた。懐中電灯の光は黒い面で跳ね返り、その奥はない。
「閉まった」
瑞貴の声は、妙に冷静だった。冷静さは、怖さの裏返しだ。芹沢は慌ててチョークで壁に印をつけようとした。粉は黒い面に薄く乗ったが、すぐに湿り、広がらない。
「合図を」
芹沢は金属棒で壁を叩いた。三回、三回、二回。音は出た。出たが、薄い布を被せられた太鼓のように、鈍く短い。二枚目の壁で止められたような音。耳に返ってこない。
もう一度。三回、三回、二回。返事は来ない。壁の向こうで、廊下の空気がわずかに動く気配はあった。けれど、それは風のようなもので、人の返事ではない。
「届いてない」
芹沢は喉の奥で言った。指先が震える。震えを止めようとすると、震えが強くなる。心臓の鼓動が耳の裏で響く。響きもまた、壁に吸われる。
瑞貴は懐中電灯を持ち直し、狭間の方に光を戻した。脚立。足跡。粉。粉の粒が光を受けたり失ったりして、呼吸をしているように見える。粉の匂いは石の匂いに近い。乾いていて、少しだけ鉄の味が混ざる。
「すてきじゃない」
瑞貴が笑った。声は小さく、はっきりしていた。からかいでも、強がりでもない。少しだけ、楽しんでいる。
「ここ、観客席」
芹沢は振り向いた。観客席。誰が、何を見る? 自分たちを見るのか。それとも、ここから何かを見る者がいるのか。どちらでも、居心地の良い言葉ではない。
「観客って、誰」
「さあ。でも、この狭さ、光の吸われ方、音の消え方。客席というより『覗き箱』かな。わたしたちを見える形に切り抜く場所。誰かがここへ来て、あの脚立に乗って、壁の外を見ていた。見ながら、壁を回した。舞台の早替えと同じ。板を一枚回すだけで、目の前の現実は変わる」
瑞貴の話し方は、いつもの軽さを少し抑え、舞台用語を並べず、事実を継いだ。
「戻れる道を探そう」
芹沢は壁の継ぎ目をもう一度探った。指に触れる冷たさは変わらない。押しても、引いても、回らない。音ももうしない。わずかに、微かな風だけが内側から外へ抜けている気がした。どこかに通気の穴があるのだろう。穴は見えない。
「叩き続けようか」
「意味があるならね。でも、『音は壁を削る』ってあったでしょう?」
瑞貴の視線が芹沢の胸元――スケッチブックに落ちた。「削るほど叩くのは時間がかかる。ここの壁は、叩いた音がすぐに薄くなる。厚い」
芹沢は、父の字を指でなぞった。扉は心に従って回る。扉は、今は動かない。心は焦っている。
「父さん」
小さく呼ぶ。呼んで、情けないと思った。子どもではないのに。けれど、口が勝手に動いた。父の名前が喉を通って、壁に触れ、そこで止まる。
返事はない。粉が、一粒、芹沢の頬に落ちた。くすぐったい感覚だけが残る。
「落ち着こう」
瑞貴は壁から背を離し、脚立に目をやった。「座れる所はない。立ったままだと疲れるけど、動き回って消耗するのは避けたい。合図は五分ごとに続けつつ、ここで分かったことを書き出そう」
「書くの?」
「記録は裏切らない。記憶は裏切る。間取りの中にいるなら、間取りをこちらで描く」
芹沢は頷き、スケッチブックを開いた。黒い狭間の幅、高さ、壁の材の色、粉の粒の大きさ。脚立の段数、素材、ビスの錆び具合。足跡のサイズ。踵の減り。新旧の重なり。書きながら、呼吸が落ち着いてきた。
五分。合図。三回、三回、二回。返事なし。
十分。合図。返事なし。
十五分。合図。返事なし。
どれだけ時間が過ぎたか、分からなくなる。時計を見ると、針は確かに進んでいる。進んでいるのに、頭の中の時間は円を描く。壁の中にいると、外の時間が遠い。
「ねえ、芹沢」
瑞貴が懐中電灯を一度消し、すぐ点けた。闇の重さを確かめるみたいに。「もしここが観客席だとしたら、何を見るための?」
「……わたしたちが、どうするか」
「そう。閉じ込められたとき、まず誰が叫ぶか、誰が叩くか、誰が諦めるか。誰が泣くか。誰が名を呼ぶか」
瑞貴は芹沢の顔をのぞき込んだ。懐中電灯の反射が瞳に小さく乗る。
「ごめんね。意地悪な言い方した。でも、ここはそういう場所に見える。測られる場所」
「測られる、って何を」
「心。角度じゃなくて、心の方」
芹沢はスケッチブックの端を強くつかんだ。父の字。扉は心に従って回る。従わせる心は、どうすれば動く? 回してほしい、と願うことか。回るな、と拒むことか。
「じゃあ、こうしよう」
瑞貴は壁に向き直った。手を広げ、指の腹で黒い面を押す。押しながら、静かに話す。
「ここを作った人は、何を見せたかった? 何を隠したかった? どうやって私たちを座らせたかった? その順番を逆からなぞる。壁に触れる手の位置、目の高さ、呼吸の深さ。ぜんぶ『演出』に合わせて」
瑞貴は身体の向きを一度変え、壁の端から端まで、同じ圧で撫でていく。芹沢も反対側から同じことをした。冷たい。ざらつきは少ない。ところどころ、わずかに滑る部分がある。油の薄膜のような感触。それは回転の軌跡だ。
「ここ」
二人の指がほとんど同じ位置で止まった。さっき最初に開いた縁の、少し下。指で押すのではなく、手の甲で、そこをわずかに叩く。音は小さい。音は小さいが、さっきまでより固い。固い音は、材が近いところにある合図だ。
「回転の芯が近い。押すんじゃない。引く?」
芹沢は試しに、縁に爪を立て、ほんの少し手前に引いた。動かない。次に、手のひらで斜め上へ、押す。微かに、内側で金属が触れる音がして、板が紙一枚ぶん、浮いた。
「今!」
二人で合わせる。押す角度を揃える。ゆっくり、慎重に。音はさっきより長く続いた。板がほんの少しだけ、二人が通れるほどではないけれど、指がもう一本分入るくらいには開いた。そこへ、瑞貴が持っていた薄いプラスチックシートを差し込む。折りたたみの薄い板。差し入れて、こじる。板はさらに数ミリだけ、動いた。
「開けられる」
芹沢の声は小さいが、確信があった。心が少し軽くなる。扉は心に従って回る。ならば、心を強くするしかない。
そのとき、壁の向こう側から小さな音がした。かすかな擦過音。誰かが向こう側で、同じ壁に触れたような音。芹沢と瑞貴は顔を見合わせ、息を止める。
「合図?」
瑞貴が囁く。
芹沢は金属棒を取ろうとして、やめた。代わりに、壁を指で三回、三回、二回、軽く叩いた。返事はない。音は相変わらず、耳に戻らない。
「誰かいる」
瑞貴の声が、今度は本当に震えた。震えは恐怖だけではない。期待と、怒りと、緊張が混ざった震え。
「父さん?」
芹沢は、もう一度小さく呼んだ。壁は黙っている。粉がまた、二粒落ちた。
「もう一押し」
瑞貴が体重をかけた。芹沢も。板が、わずかに回った。薄い隙間の向こうに、黒の濃さが変わる。どこか遠くで波が鳴った。館のどこかで、金具がひとつ、乾いた音を立てた。
「まだ、だめ」
瑞貴が唇を噛んだ。「内側から、何かで押さえてる」
押さえ。ロック。観測孔。堀内が話していた言葉が頭をよぎる。外からは開かないようにしてある。中は出られる。入ることは想定されていない。
「戻る方法を、先に決めよう」
瑞貴は諦めていなかった。「五分ごと合図は続ける。ここに来るまでの角の数、曲がりの順番、印の位置。ぜんぶ言葉にしよう。壁の中で、言葉は動かない」
芹沢は頷いた。スケッチブックに書く。曲がり角三つ。最初の角は曲率が甘い。二つ目は直角に近い。三つ目は、床がわずかに落ちている。目地の傷の位置、指の跡の高さ。粉の量。
何度目かの合図の後、遠くからようやくかすかな返答があった。三回、三回、二回。とても遠い。壁に削られて、細くなっている。それでも、確かに返ってきた。
「聞こえた!」
芹沢の胸が熱くなる。壁に額を当て、今度は板ではなく、目地の隙間に向かって声を入れた。
「ここにいる! 食堂の東、二つ曲がって、三つ目の角の手前の継ぎ目!」
返事は、また遠くで、薄く返ってきた。言葉は聞き取れない。叩く音だけが分かる。三、三、二。彼らが動いている。探している。方向を測っている。
瑞貴は、懐中電灯を消し、暗闇の中で笑った。その笑いは、強がりではなく、何かを認める笑いだった。
「ねえ、芹沢。もし――もし、向こうが回してくれなかったら」
「そんなこと、言わないで」
「言わなきゃ、心が決まらない」
瑞貴は壁にもたれ、目を閉じた。「ここが観客席なら、観客は近い。近い観客は、時々、舞台に手を出す。手を出す観客は、観客ではなくなる。そうなったら、舞台は幕を引く。……だから、こっちはこっちで幕を引く準備をしておこう」
「何をするの」
「記録を置く。ここに、誰がいたか。何を見たか。どこへ向かったか。壁の中に、文字を残す。削れるほどの音じゃなくて、削れないほどの文字で」
芹沢はうなずき、チョークで壁に書いた。小さく、しかし読みやすく。日付。時刻。二人の名前。見つけたもの。聞こえた音。父の三行。扉は心に従って回る――その下に、芹沢は父の名を、初めて壁に書いた。
「父さん」
書いてから、声に出した。今度は呼ぶようには言わず、報告のように言った。「ここにいる。ここで待つ。でも、ただ待つだけじゃない。扉がどちらへ回るか、こっちで決める」
外で、足音が増えた。叩く音も増えた。三、三、二。今度は少し近い。壁が、ほんの少し、内側から息を吸ったように見えた。金属の細い音。さっきと違う方向の音。鍵が触れられている。
瑞貴と芹沢は、同時に身構えた。押す場所は、もう掴んでいる。回す角度も、身体に入っている。心は、決めた。
「いくよ」
「うん」
二人は壁に手を当てた。黒い面は冷たく、しかし少しだけ、前より薄い。外側から、同じ力が重なった気配がある。板が紙二枚ぶん、浮いた。
息を合わせる。押す。手首をひねる。肩で送る。板が、回った。
隙間が、光に変わる。廊下の白い、細い明かり。足下灯の骨のような光が、狭間に落ちた粉を照らす。粉は、その光の中で一瞬だけ白く踊り、次の瞬間にはまた黒に吸われた。
「見えた!」
瑞貴が声を挙げる。向こう側で、誰かが短く笑った。香月の低い声。零司の息。堀内の短い指示。嶺木の「そこだ」。それらが重なり、壁はさらに開いた。
芹沢は、父のスケッチブックを胸に抱えたまま、狭間をくぐり出た。足下灯の光が足の甲に当たる。外の空気は湿り、塩の匂いが濃い。壁の内側の空気よりも、ずっと生きている匂いがする。
「無事か」
堀内が短く言い、芹沢の肩に手を置いた。香月は瑞貴の腕を掴み、強く引いた。
「遅い」
そう言いながら、目は濡れていた。
芹沢は、出たばかりの狭間を振り返った。板はまだ半分開いたまま。黒い縁が、獣の口のように見える。そこに、白いチョークの文字が、薄く輝いていた。父の三行と、芹沢自身の字と、父の名。
零司は何も言わず、カメラを持ち上げかけて、やめた。両手で板の縁を押さえ、堀内の指示に合わせて、ゆっくり閉めた。閉じてしまった板の前に、芹沢の書いた文字がもう見えないことが、少しだけ痛かった。それでも、壁の向こうに残した、という事実が、重さを持って残った。
「戻ろう」
柴田の声が廊下の向こうからした。どこかかすれている。「一旦、ここは閉じる。記録を整理して、もう一度。今夜は『見た』という事実だけでいい」
「誰かが、テープを剝がした」
香月が言う。声は低い。「見られるのを嫌がる誰かがいる。見せたい誰かもいる。壁は、どちらにも従う」
芹沢は、胸のスケッチブックを押さえた。紙の上の父の線が、身体の内側の線と重なる。音は壁を削る。角度は人を欺く。扉は心に従って回る。父の声は聞こえなかったが、言葉は残っている。残っているなら、使える。
歩き出すと、遠くで海が鳴った。鳴り方は少しだけ変わっている。低く、長い。館の梁が応えるように一度だけ軋み、廊下の足下灯が、ほんのわずかに光を強くした。
瑞貴が隣で笑った。今度の笑いは、心のどこかにちゃんと届く笑いだった。
「やっぱり、ここは舞台だよ。観客席から見えるものは限られてる。でも、舞台の上の俳優は、客席の暗がりに向かっても、台詞を言う。届くかどうかは分からない。それでも言う」
「言うことが、回すことかもしれない」
芹沢が応えた。「扉は心に従って回る」
廊下の曲がり角で、一同は一度立ち止まり、耳を澄ませた。向こうの角から、かすかな足音がひとつ、消えた気がした。誰のものでもない、足音。こっちを見ていた誰かの、席を立つ音。それは三歩で遠ざかり、二歩で消えた。
誰も追わなかった。追えなかった。今は、記録と整理が先だ。焦ると、壁は喜ぶ。
戻る途中、芹沢は振り返って、さっき出た狭間の方をもう一度見た。黒い面は静かで、何も語らない。ただ、廊下の光の端がそこで切れて、薄い影が少しだけ揺れた。その揺れは、まるで誰かの指先の合図のようにも見えた。
「父さん」
声に出さず、唇だけで、もう一度呼んだ。返事はない。それでも、さっき壁の向こうで粉が二粒落ちたこと、その小さな感触は、確かなものとして残っている。
食堂に戻ると、空のグラスは相変わらずそこにあった。昨夜と同じ位置、同じ欠け。誰の前でもない。芹沢は無意識に、水滴がついていないか確かめて、手を引っ込めた。触らない方がいいものもある。
「書こう」
堀内が言い、机の上に紙を広げた。「見取り図を、いまのうちに起こす。『間取りの亡霊』に、こっちの線を重ねる」
亡霊。芹沢はその言葉を心に置いた。亡霊とは、形を持たないのに、動かす力だけは持っているもの。父の未完の間取りは、いま館のどこかで動き続けている。ならば、こちらも未完の線を重ねる。完成はなくても、対抗はできる。
ペンが走る。壁の線。曲がり角。狭間の位置。脚立。粉。足跡。合図。返事。書くことは、息を整えることに似ていた。
書き終えるころ、廊下で誰かの足音がした。三歩。間。二歩。止まる。扉の向こうで音は消えた。扉は閉じたままだ。心は、まだ決めきれていない。決めるのは、これからだ。
芹沢はペンを置き、父のスケッチブックに手を伸ばした。紙の端に、赤鉛筆の薄い線が一本だけ引かれている。線の脇に、父の字で小さく書かれていた。
「見ている者がいる」
読み上げず、胸の中だけで繰り返した。見ている者がいる。ならば、こちらは見せる者になる。見せるものを選ぶ。切り出すのでも、隠すのでもない。選ぶ。それが、扉を回す力になるかもしれない。
外で、波がもう一度だけ高く鳴った。館が息を吸い、吐いた。夜は深く、しかし、先ほどまでより少しだけ薄かった。薄い夜は、指で押せば、紙一枚ぶんだけ、へこむ。そこから風が入る。その風を逃さない。それが今夜の仕事だ、と芹沢は思った。




