第十一章 仮面の食卓
夕暮れの赤はとうに剥がれ落ち、窓の向こうは煤で塗った紙みたいに暗くなっていた。波が近い。波頭が斜面にぶつかって砕ける音が、床下からゆっくり上ってくる。館の梁は、重たい呼吸のように軋んだ。
私たちは食堂の扉の前で立ち止まり、互いの顔を見た。誰も腹は減っていない。減っていないのに、椅子を引き、皿を並べ、パンを切り、スープをよそおうとしている。食べることをやめると、心はすぐ乱れる――昼間、誰かがそう言った。誰だったかは、もうはっきりしない。言葉は、誰の口を出ても同じ形になる。
「ここで食べよう。全員で。対面で」
瑞貴が言った。彼女の声は薄かったけれど、端は硬い。反論しようと舌を動かす前に、柴田さんが続ける。
「座り方を決めよう。昔と同じに。サークルで集まっていた頃の配置に戻すんだ」
「やめたほうがいい」
香月さんが静かに遮った。短い言葉だったが、ナイフの刃のように鋭かった。「過去は、今をまっすぐにしない。歪むだけよ」
「昔のままに戻せば、見えなかったものが見える。今の私たちには、整える儀式がいる」
柴田さんは、机の上に置いた手を少しだけ開いた。その掌の白さがやけに目についた。
乾いた笑いが何人かの喉の奥でちぎれて、床に落ちた。拾う人はいない。結局、全員が椅子を引いた。足の裏がタイルを擦る音が、雪の上を歩く音に似ていた。
「では、席順を」
瑞貴が端末を開き、指で素早く画面を滑らせる。「あの頃の写真がある。見せるね」
小さな画面には、明るい昼の食堂、無邪気な顔、近すぎる距離。画面の笑顔は、こちらをまっすぐ見つめている。私たちは、同じ場所に座り直す。零司は窓際。香月さんはその向かい。堀内は壁際の柱の影。芹沢は配膳台に近い席。新田さんは入口側。嶺木さんは角。柴田さんはその隣――そして、空いた席が一つ、テーブルの短辺側にぽつりと残った。
誰もそこに座ろうとしない。椅子は真っ直ぐテーブルに向き、その前には何も置かれていなかった。
「では、本日の演目」
瑞貴は軽く咳払いをして、わずかに口角を上げた。「春名の思い出を、順番に。楽しかったこと、笑えること。明るい話だけ、ね。暗いのは、今は要らない」
演目。言って、彼女は自分の言葉に自分で笑った。演目という言い方は、舞台の言葉だ。ここは舞台だ、と誰かが言っていた。観客は見えない。見えない観客の前で、私たちは自分の台詞を言う。
最初は、瑞貴からだった。彼女は肘をつかず、背筋を伸ばし、春名の話を明るく始めた。新歓の夜、彼女が酔いつぶれた春名の髪にリボンを結んだこと。文化祭の準備で夜明けまで残り、ふたりで見た最初の朝焼けが、こんな色だったこと。瑞貴の言葉はよく通り、場を温めようとする熱を持っていた。
次は柴田さん。春名の論文の話。彼女が書いた拙い草稿に、赤で丁寧に誤りを入れてくれたこと。赤は批判でなく、保護色だった、と彼は言う。笑いが少し起きた。薄く、すぐ消えた。
香月さんは、春名の手の話をした。薬指の根元に小さな傷があり、彼女は緊張するとそこを親指で撫でる癖があった。「春名さん、見てるとね、ここをこうやって」――と自分の指で示す。その仕草が小さくて、誰かの喉が鳴った。
芹沢は、春名が好きだったスープの話をした。塩をほんの少し、砂糖をひとつまみ。甘さは味ではなく、心の傾きだと笑った春名の声。芹沢の声が次第に細くなる。塩と砂糖の区別が、途中で曖昧になった。
思い出が続くほど、言い淀みが増えた。明るい回想のはずなのに、笑いは刃こぼれし、沈黙の間が伸びる。間は最初、呼吸を整えるために必要な一拍だった。それが二拍になり、三拍になり、四拍になる頃には、沈黙は椅子の背もたれより高く積み重なって、私たちの肩に影を落とす。
スプーンが皿に触れる音が、やけに大きい。パンを裂く指先に、余計な力が入る。飲み水のグラスが、底で小さく音を立てる。その小さな音に、視線が集まっては離れ、集まっては離れる。
「もう、俺は記録をやめるよ」
零司がふいに言った。カメラをテーブルの真ん中に置き、両手を前に出して見せる。まるで警察に取り押さえられる前の犯人みたいだ、と一瞬思い、すぐにその例えの悪さを心の中で消した。零司は視線を上げず、手の甲の筋だけが光っていた。
「今は、見届ける側に回る」
宣言のような、独り言のような声だった。たしかに彼は、撮ることをやめた。レンズの黒い瞳は伏せられ、食卓は丸裸になった気がした。切り出す者がナイフを置くと、残るのは輪郭のない塊だ。塊は形を保てず、広がる。広がるものは、境目を食う。
そのときだった。
天井から、細い粉塵が降りた。最初は一筋。次に三筋。砂のようで、灰のようで、光を受けると少しだけ銀色に見えた。誰も動かない。粉はテーブルクロスに落ち、皿の縁に落ち、私たちの髪に静かに乗った。誰かが反射的に上を見上げ――
電球がひとつ、短く点滅して切れた。
暗転。
視界が、布で覆われたみたいに一気に詰まる。息の音が近くなる。椅子の軋みが遠くなる。無音の壁が、また立った。あの階段でテープが記録した「第二の沈黙」が、食堂にも形を持ったのだ。
数秒。長い数秒。誰かが椅子を後ろへ引き、遠くで波が一度だけ大きく砕ける音。天井のどこかで、電気が迷う音。
そして、光が戻った。
戻った光の中で、最初に違和感に気づいたのは、私ではなかった。芹沢の視線が一点で止まり、そこから動かなくなるのが見えた。私は彼女の視線の先を追った。テーブルの端。皿、ナイフ、フォーク、パン籠。そこに、見覚えのないグラスが一つ、増えていた。
空のグラス。水滴はない。誰の前にも置かれていない。テーブルの短辺、空席の前でもない。ほんの少しだけ中央からずれた位置に、整った姿勢で立っている。
瑞貴がそれを手に取った。指の中ほどでそっと保持し、光にかざす。底に細い円。縁に極薄の欠けがひとつ。欠けは新しくない。長い時間の中でいつかついた、小さな傷。
「これで、十二人分揃ったね」
笑って言った。笑いは細かった。誰も笑わない。笑いの欠片がグラスの縁から滑り落ち、床で砕ける音が耳の奥で鳴った気がした。
「違う」
香月さんが目を伏せ、小さく告げた。「十三は、もうここにいる」
喉の奥に薄い氷ができ、息がそこに触れて音を立てた。誰も口を開かなかった。空席と空のグラスと、私たちの数。十三という数字は、この館の形であり、私たちの恐れの形だ。足りない一つは、すでに在る。いるのに、見えない。見えないものを数えると、数えた指の方から冷たくなる。
窓に波頭が叩きつけられ、ガラスが低く唸る。館全体が大きく軋んだ。椅子の脚が床に鳴り、皿の縁がわずかに跳ねた。
「落ち着いて」
柴田さんが言った。声は震えていない。震えない声は、時に薄情に聞こえる。「引き続き、思い出を。これは儀式だ。儀式は中断しない方がいい」
「儀式は、誰のため」
香月さんが問う。「私たちのため? それとも、観客のため?」
「どちらにも、有効だ」
瑞貴が答える。グラスを元の位置に戻し、指先で縁を軽く弾いた。澄んだ音はしなかった。鈍い、小石みたいな音だけが出た。
儀式は続いた。思い出は尽きそうで、尽きない。春名が遅刻した日の言い訳。春名が嫌いなものを頑張って食べた日の顔。春名が窓枠に腰かけ、海を眺めていたときの、少しだけ不機嫌な横顔。春名という名前が、重たい糸になってテーブルの中央に落ち、そこから広がって私たちの手首に絡みついていく。
絡まれると、動きが小さくなる。小さくなった動きは、細かくなる。細かくなると、音が増える。音が増えると、壁が寄ってくる。壁は音が好きだ。音を食べると、厚くなる。
堀内がパンを一切れ取り、皿の上で二度、三度と向きを変えた。
「このグラスは、誰が置いた?」
「知らない」
新田さんの声は即答に近かった。即答は嘘に見えやすい。でも、今のは嘘じゃなかった。彼は本当に知らなかった。知らない、という事実が、彼の両肩を小さく下げていた。
「停電の間に出入りは?」
「ない」
零司が短く言う。「目は閉じてない」
「でも、光は落ちていた」
芹沢がつぶやく。「見えない時間は、存在する。記録に残らない時間。『第二の沈黙』」
無音に名を与えると、それはすぐ形を持つ。形を持った沈黙は、道具に似てくる。道具は誰かの手の中に収まる。誰かは、その手の感触を覚える。覚えた手は、同じ動きを繰り返す。
「座って」
柴田さんが言う。立ちかけた堀内が戻る。椅子の脚がきしむ。香月さんは空席をちらりと見て、顔を戻した。空席の前には、何もない。皿も、ナイフも、ハンカチすら。
「ここ、誰の席だった?」
瑞貴が画面を見ながら問う。かつての写真の中の空席は、そこには空いていない。誰かが座っている。小さな笑い声の矢印。春名の隣。矢印の先の名前は――
「消えてる」
画面のその部分に、ノイズが走っていた。たぶん、保存時のエラー。ピクセルが欠け、色が溶け、名前の文字の骨組みだけがうっすら残っている。「志」の上半分。「田」の右側。読み取れない。読み取れないものは、後から好きなように呼べる。
「私が、座る」
芹沢が立ち上がり、空席へ歩いた。誰も止めなかった。彼女は椅子を少し引き、腰を下ろす。背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いた。空の前に、座る。空は軽く、軽いものほど、背中に重く乗る。
「春名さん」
芹沢は唇だけで名を呼んだ。「聞こえてる?」
返事はない。天井の粉塵はもう降っていない。切れた電球は暗く、残りの三つが薄く光っている。光の薄さは、私たちの気配の薄さと似ていた。
儀式は、さらに続いた。言葉は細く、手元の動きはさらに小さくなり、スープは冷え、パンは硬くなった。冷えたものは、早く重くなる。重くなったものは、皿の上で音を出す。カトラリーの金属が、薄く震えながら鳴る。その震えが耳の奥に当たるとき、私は急に父の字を思い出した。私は止めなければならない。何を? 扉? 壁? 印を消す指? 呼び声? 儀式?
ふいに、瑞貴が笑った。笑いは空気を一度だけ持ち上げ、すぐ落とした。
「ねえ、みんな。素敵なこと、思いついた」
「やめて」
香月さんの声が先に飛ぶ。「“素敵なこと”は、こういう時、ろくな結果を生まない」
「じゃあ、『必要なこと』。いい?」
瑞貴は空のグラスに指を入れ、その縁を指の腹で静かに撫でた。音は出ない。出ないはずの場所で、別の音がした。壁の中のどこか。金具が、細く鳴った。誰かが息を飲む。
「春名の思い出を、もう一巡する。さっきは“楽しいこと”だけだった。今度は、“聞いておきたかったこと”を言う。後悔でも、謝罪でも、疑いでも。“言えば良かった”を、ここに置く」
「やめろ」
柴田さんの声が低く落ちた。「儀式の目的は、心を整えることだ。乱す目的で言葉を置くな」
「整えるために、乱すの。舞台でもそう。場を動かすには、一度散らさないと」
「観客のためだろ」
香月さんが吐き捨てる。「見えない誰かのために、痛みを見せるの?」
「見えない誰かは、もう、ここにいる」
瑞貴は、空席を見ず、空のグラスだけを見た。グラスの内側に私たちの顔が歪んで映る。歪んだ顔は、正しいよりも本当らしく見えるときがある。
「……じゃあ、私から」
私は自分の声が他人のものに聞こえた。言ってしまったものは、取り消せない。取り消せない言葉は、壁に当たる。壁は反響で返す。返ってきた声は、最初の声より少し高い。「あの時、止めればよかった。あの夜、階段で、私、聞こえないふりをした。靴音。三つ。もう三つ」
誰も顔を上げない。上げないことに、救われる。
次に、零司が言う。
「俺は、切り出した。たくさん、切り出した。何枚も何枚も、見えるものだけ。だから、見えなくなったものがある。たぶん、俺はいくつかを殺してる。写真の外に追いやって」
「私も」
香月さん。「私は、確かめずに断ったことがある。あの時の春名の『手伝って』を、『自分でしなさい』と切って捨てた。私は、正しいことが好きすぎる。正しさは、時々、手段になる」
新田さんは震える声で、謝った。「私は、拾った紙を、二度、ポケットに入れた。『十三人目』。怖くて、見せるのが遅れた。数は、増えない。私が増やした」
堀内は、淡々と。「私は知っていた。鏡は盲点を作る。知っていたのに、楽しんでいた。ここが“良い設計”であることに、目が眩んだ。良いは、時々、悪いより悪い」
言葉が落ちるたび、空のグラスの中に目に見えない水位が上がる気がした。何も入れていないのに、縁まで満ちていく錯覚。満ちたとき、何が溢れる? 溢れたものは、音がする? 音は、また壁に食われる?
「ありがとう」
突然、そう聞こえた気がした。誰の声でもない。天井でも、床でもない。グラスの内側の、薄いガラスの膜の向こう側から。錯覚だ、と言い切れるほど、強くなかった。言い切れないほど、弱くもなかった。
私たちは黙った。黙った沈黙は、最初の沈黙と違う種類だった。耳を塞ぐためのものではなく、耳を空けるためのもの。聞こえないものを聞こうとするための、薄い空洞。
やがて、柴田さんが立ち上がった。椅子の脚が床で音を立てる。その音を合図に、儀式は終わったことになった。誰も「終わり」と言わなかったのに、終わったことになった。
「片付けよう」
柴田さんの声に、全員がわずかに息を吐く。安堵ではない。次へ進むために、身体を前に押す音だ。皿が重なり、ナイフが布に包まれ、パン籠は空になった。
空のグラスは、そこに残された。誰も触れない。触れると、何かが確定する気がして、誰も指を伸ばさなかった。
その時、窓の外で、海が一度だけ異様な鳴り方をした。遠雷のような低い音が、地面の下から広い面で上がってくる。館が耐えるように身を固くし、柱と梁はぎしぎしと音を立てた。
「ブレーカー室」
堀内が目で合図を送る。誰かが頷く。二人一組で動くルールを、誰も疑わない。私と芹沢が左、香月さんと零司が右、瑞貴と新田さんが食堂側の扉。柴田さんと嶺木さんは、残りの器具の確認。動きは決めていた。決めていたのに、誰かの足音が一つ、数に合わなかった。数えたくないものは、自然に増える。
食堂の扉を出る直前、私はもう一度振り返った。空席。空のグラス。白いテーブルクロス。切れた電球。天井には粉塵の痕が薄く残り、黒曜石の壁は、私たちの影を二重に映している。影は少し遅れて、私を追ってくる。遅れの幅は、紙一枚ぶん。私はその紙を指で裂くようにして、廊下へ出た。
廊下の足下灯は弱々しく、しかし、さっきより骨ばって見えた。骨ばった光は、影の内側に筋を作る。筋は、身体の地図だ。地図があると、迷いは逆に深くなることがある。地図の線は、可動壁の線とよく似ている。三は扉。扉は三つで開く。私の頭のどこかで、そのフレーズが錆びた針みたいに引っかかっていた。
ブレーカー室は異常なし。メーターは安定を示し、小さな蛍光灯は白く光っている。床の隅の金属粉は、また少し増えていた。増えるはずのないものが、増える。可動壁の機構は、どこかで息をする。息は、壁の中に吸われ、壁の中から吐き出される。
「戻ろう」
堀内の合図で、私たちは再び食堂へ向かった。曲がり角の手前、私は立ち止まった。鼻の奥で、塩の匂いに混ざって、微かに甘い匂いがした。砂糖をひとつまみ。春名のスープ。匂いは瞬き一つの間に切れ、次の瞬間には、何も残っていなかった。
食堂に戻ると、空席は空席のまま、空のグラスはそこにあった。何も増えていない。何も減っていない。誰かが安堵の息を吐く。瑞貴は、端末に何かを短く打ち込み、画面を伏せた。
「続きは、明日」
柴田さんが言った。「今日は眠れ。眠れないなら、横になれ。横になるだけでも、体は休む」
「眠りは、壁を薄くする」
瑞貴が冗談めかしに付け足した。「起きていると、壁は厚くなる。観客は喜ぶ」
「観客の話をやめて」
香月さんは肩をすくめ、食堂の灯りに背を向けた。「観客がいるとしても、名前は呼ばない。呼んだら、席が埋まる」
皆が散っていき、食堂には私と芹沢だけが残った。彼女は空席を見つめ、私は空のグラスを見た。グラスの向こうに、私たちの顔が薄く重なる。私はグラスに顔を近づけ、声にならない声で言う。「三は、扉」
芹沢はうなずいた。机の上の白い粉塵を指で集め、指先で軽く弾く。粉は、光の中で細く裂け、すぐ消えた。「扉を開けるのは、誰?」
「わからない」
本当に、わからなかった。わからない、という感覚は、最近、前よりも怖くない。怖くないのが、逆に怖い。慣れることは、鈍ることだ。鈍った刃は、余計に深く食い込むことがある。
私たちは最後に、空のグラスの位置を紙に記録した。テーブルの端からの距離、窓からの距離、欠けの位置。欠けは北西の縁。北西という言い方が、この部屋に合っているのかどうかも不確かだが、言葉が必要だった。言葉で縫い止めないと、ものはすぐ、別のものになる。
食堂を出る前、私たちは同時に振り返った。習慣になりかけている。最後の一瞥。その一瞥が、何かを決めてしまうのではないか、という怖さと、決めなければもっと怖い、という焦り。
廊下に出る。扉を閉める。鍵をかける。足音を二つずつ重ねる。壁は黙っている。鏡は目を閉じているふりをして、瞼の下でこちらを見ている。
部屋に入って背を扉に預けた時、私は遅れて気づいた。空のグラスに、薄い水滴が一つだけ付いていたことに。光が戻った直後にはなかった。戻ってから、誰かが触れた? それとも、部屋の湿度が、ガラスの内側にだけ小さな結露を作った?
答えは出ない。出ないから、記録する。私はメモに書く。空のグラス、水滴一点。位置不変。人数不変。空席、空のまま。十三、すでに存在。
窓の外。波がまた一つ、砂利を掬うように砕けた。館の体が低く鳴り、天井のどこかで粉塵が少しだけ落ちた気配がした。落ちる粉は、音がしない。音がしないものほど、確かにある。
目を閉じる。深く息を吸い、止め、吐く。三は、扉。扉は、三つで開く。食卓は、仮面だ。仮面は、顔よりも顔らしい。私たちは、仮面のまま食べた。食べ続けた。食べ続けることで、乱れを遅らせた。遅らせた乱れは、次に来るとき、きっと深く、静かに来る。
眠りは遅い。遅い間に、私はテーブルの上の空のグラスが、満ちては空になる夢を見た。満ちるのは水ではなく、声だった。溢れるのは涙ではなく、影だった。影が床にこぼれ、靴の底で音もなく広がる。広がる影の向こうで、誰かが小さく指を振った。呼ぶでも、拒むでもなく。そこにいる、というだけの動き。
目が覚めても、その指の形は消えなかった。私は天井を見つめ、粉塵の小さな流れに視線を乗せた。流れは、私のまぶたの重さに合わせて緩やかに途切れ、また繋がった。
翌朝、食堂の扉を開けたとき、空席は――やはり空席のままだった。空のグラスは、昨夜の位置から一センチも動いていなかった。ただ一つ違うのは、欠けの縁に触れる光が、昨日よりも冷たく見えたこと。光は温度を持たないはずなのに、持ってはいけないはずなのに、確かに、冷たく見えた。
そして、私たちはまだ、食べ続けることを選ぶのだと思った。食べ続けることは、生き続けることだ。生き続けることは、見続けることだ。見続けることは、誰かの視線を受け続けることだ。視線は、壁の向こうから来る。壁は、鏡だ。鏡は、私たちの顔を返す。返された顔は、仮面に似ている。似ている、というのは、他人事ではない。
十三は、もうここにいる。空席は、空席ではない。空のグラスは、空ではない。私たちは、数を数えることをやめられない。やめない限り、数は増える。増えた数は、言葉の中に居場所を作る。居場所を作った数は、扉になる。扉は、三つで開く。開いた先に、食卓が続いている。仮面のまま、ここに。
波が窓に当たり、館が低く歌った。歌は詞を持たない。詞のない歌は、長く残る。残るものの方が、怖い。私はペンを置き、指先に残ったガラスの冷たさを、ゆっくりと忘れるふりをした。忘れるふりは、忘れることの最初の形だ。最初の形は、いつも美しい。美しいものほど、割れる音は静かだ。静かな音は、壁の向こうへ届かない。だから、ここに残る。ここで、増える。ここで、私たちと一緒に、食べ続ける。




