第十章 鏡の廊下
午後の光は弱く、館の長い廊下は水の底のように青かった。風はしばらく小康状態で、窓ガラスが鳴る代わりに配電盤の奥で微かな唸りが続いている。私たちは食堂のテーブルを端へ寄せ、機材を広げた。三脚、固定カメラ、ガムテープ、白チョーク。それから、堀内が手書きで用意した、廊下の角度と鏡面配置の簡易図。
「今日は、実験に時間を使おう」
堀内は言った。眼鏡のレンズが曇り、その曇りを指で拭いながら、ゆっくり言葉を選んでいる。
「死角を潰す。鏡の反射角を数値で押さえ、カメラの画角を固定する。映る像が実像か鏡像か、判定できるように、鏡面には目印を付ける」
「目印って?」
「このテープだ」
堀内は蛍光オレンジの布テープを掲げた。視界に入るだけで脳がそこを中心にしてしまう、いやに目立つ色だ。テープの端にマジックで番号を書き、鏡面ごとに異なる長さで千鳥に貼る。貼るたび、鏡は醜くなる。美しいものをわざと醜くする作業は背中のどこかを鈍く痛ませたが、誰も反対はしなかった。
「角度は?」
零司が三脚の脚を伸ばしながら尋ねる。
「鏡面からの反射線と、カメラの主軸の角度差を十五度単位で記録。壁ごとに三条件、四十五、九十、百三十五。ここは十三角形だから、角ごとに正確な直角が出ないけど、相対で比べれば傾向は見える」
「数学の授業か」
瑞貴が肩をすくめ、半分は本気の笑いをこぼした。彼女が笑うと、周囲の空気が少し薄くなる。薄さは軽さに似て、でも同じではない。
芹沢は別の作業に取りかかった。白チョークを手に、廊下の床の縁、黒曜の壁の目地、柱の根元へ、父のスケッチで推定した「可動壁の三辺」をなぞるように印を付ける。一本は踊り場の角をかすめ、一本は廊下の折れのところを横切り、もう一本は食堂前の壁面に。どの印も、太すぎないように、でも夜でも見えるように、迷いのない線で。
「ほんとうに、三だけ、動くのかな」
芹沢は自分に問いかけるみたいに呟いた。
「三は扉。扉は、三つで開く」
「昨日の紙、だね」
私が言うと、芹沢は一瞬目を伏せ、また線を引いた。白い粉が指に移り、粉はすぐ汗で湿る。湿った白は、不吉なほど肌になじむ。
作業は夕方まで続いた。私は角度を読み上げ、堀内が記録する。零司は三脚の位置を測り、床にテープで位置を固定する。新田さんは延長コードをまとめ、香月さんは鏡の目印の縁を指で軽く押さえて粘着力を確かめていた。柴田さんは、見張り表と行動記録の欄を新しく増やし、そこに今日の日付を記した。数字は黒々と、紙の上に残った。
夜が来る。海はまた荒れはじめ、窓の外は灰色から濃紺へ、濃紺から墨へと、ためらいのない変化で沈んでいった。廊下の照明は常夜灯のみに落とし、カメラの録画をタイマーでセットする。三方向、同時記録。東から西、西から東、そして中央の直進。撮影開始二十二時ちょうど、撮影終了二十二時十五分。誰も廊下には出ない。誰も音を立てない。廊下は空っぽのはずだ。空っぽの廊下を、三つの目で視る。
時計の針が二十二時を指す。小さな赤いランプが同時に灯り、三台のカメラが一斉に喉を鳴らした。私たちは食堂に退避し、息を飲むようにしてその十五分をやり過ごした。食堂のランプは布で半分覆い、光の量を減らした。光は少ないほど、肌に触れる面積が小さくなる。その小ささが夜を深く見せる。
十五分は長かった。時計は規則正しく進むのに、時間は一定ではない。館の壁の中に軋みが走ると、その一秒は二秒にも三秒にも伸び、誰かの咳がひとつ漏れると、その一秒は半秒に縮む。私の心臓の鼓動は一拍おきに強弱をつけ、強いときは音になり、弱いときは音にならない。音にならない音は、無音に近い。無音は、壁だ。
やがてタイマーが切れ、赤いランプが順に消えた。私たちは食堂のテーブルに機材を引き寄せ、再生を始めた。三画面を並べて見る。東カメラ、西カメラ、中央カメラ。どれも青黒い廊下、オレンジのテープ、白いチョークの線。最初は同じだった。ほんのわずかな空調の風で、テープの端がかすかに揺れる。鏡には私たちがいない。廊下は空っぽだ。
最初は、そう見えた。
一分が過ぎ、二分が過ぎ、三分を回ったとき、中央の画面だけ、奥行きが不自然に伸びた。レンズのせいではない。さっき固定した焦点距離と画角は記録している。なのに画面の奥が、まるでゴムみたいに伸び、遠くのはずの角が近くに感じられる。壁の継ぎ目が、ひとつ増えた気もする。違和は目の端から始まり、目の中心へ移り、喉の奥へと落ちた。
「待って」
零司が一時停止を押し、フレームを一枚ずつ送る。奥の暗がりに、淡い影が一度だけ長く延び、次のフレームで縮む。影は私たちのものではない。人の影の形をしているのに、足が床に接していないように見える。床との縁が、浮いている。
「影が、遅れている」
芹沢が言った。中央の画面だけ、影が遅れて伸び、遅れて縮む。東と西は変化がない。天井の足下灯の明滅が、中央だけ別のテンポで脈を打っているようにも見えた。
「二重露出に似ている」
堀内が小さく呟く。薬品の匂いの残る暗室を思い出すような口ぶりだった。
「鏡像と実像が、時間差で重なっている。鏡で反射した像が、カメラの画角に一度入り、次の瞬間、実像が滑り込む。像が遅れる。像は光速で遅れない。遅れるのは、像ではなく、壁だ」
「壁が遅れる?」
「可動壁。壁ごと回す。板の向こうに別の廊下があり、板を回転させると、反射面と実面が入れ替わる。その切り替えがわずかに映り込んだ。舞台の早替えと同じだ」
瑞貴がにやりと笑った。
「出た、舞台。私、劇団出身だよ。衣装の早替えなんて、壁ごと回すのが基本。ここは舞台。観客に見せたい面を見せ、見せたくない面を隠す。壁は演者。壁が喋る。今のも、壁の台詞」
「冗談めかして言うな」
香月さんが低く言い、しかし口の端にわずかな興奮が混じるのを私は見逃さなかった。彼女は画面から目を離さず、指先でテーブルを二度、三度と軽く叩いた。二度、三度は儀式の回数だ。三は扉。扉は三つで開く。
「もう一回、最初から」
零司の指示で再生を巻き戻す。三画面を同期させ、音声を消し、映像だけを追う。やはり中央だけが奥行きを伸ばし、影は遅れて伸縮した。オレンジのテープの長さが一瞬だけ変わって見え、白チョークの線の一本の端が、ねじれ、直り、そして固まった。
「ここだ」
堀内がペン先で画面を突いたのと、瑞貴が「今の、いい」と笑ったのは同時だった。堀内はメモに時間を記す。二十二時三分十七秒、中央カメラ、奥行き変化、影伸縮。堀内の字は細く硬い。紙に刺さるような筆圧で、しかし乱れない。
深呼吸を一つして、私たちは再生を止めた。食堂のランプの布を少しだけ上げる。光が増すと、現実に戻ってくる。戻るほどに、現実は薄くなる。薄い現実は、どこからでも破れる。
「休憩しよう」
柴田さんが言った。全員が頷く。緊張は長く持たない。持たないものを無理に持つと、どこかが先に折れる。折れた音は、必ずあとで響く。
温め直したスープは塩気が強く、舌に触れるたび現実が戻る気がした。パンは冷え、ナイフで切ると粉が落ちる。粉は白い。白はチョークの白と似ているけれど、味があるぶんだけ安心する。私たちは言葉を少しだけ戻した。冗談を半分。本音も半分。笑いは浅く、氷の上の水みたいに薄かった。
そのとき、柴田さんが、匙を置いた。音は小さかったのに、全員がそちらを向いた。柴田さんは目を伏せ、少し間を置いてから顔を上げた。喉仏が一度上下した。
「私は、この集まりの招集メールを、出していない」
時間が、短く止まった。止まる、というのは、音が消えることではない。音の前に透明な壁が立つことだ。無音の壁。第二の沈黙が、食堂の空気を飲み込む音がした気がした。
「嘘?」
瑞貴が笑いを無理に作る。それはすぐに消えた。
「でも、私の端末には、あなたからのメールが届いているよ」
香月さんが端末を取り出す。受信トレイの一覧に、数日前の日付で並ぶ「招集」の件名。差出人欄には柴田の名。本文は簡素だ。集合日時、場所、注意事項。結びに短い挨拶。その挨拶は、柴田さんがよく使う言い回しに、よく似ていた。
「送信履歴を見せて」
柴田さんは自分の端末を開き、送信トレイを表示した。空白。過去の仕事メールや家族への連絡は残っているのに、「招集」の件名はどこにもない。
「誰かが、私の名を使った」
柴田さんは、自分に言い聞かせるように言った。声はかすれている。声は乾くと、砂のようにざらつく。ざらつく声で「誰か」を言うのは難しい。誰か、は大きすぎる。誰か、は鏡の向こうにもいる。
沈黙を破ったのは、新田さんだった。彼は手にしていた紙コップを、少し強く握りすぎた。薄い紙が歪む音がして、彼は慌てて力を緩めた。
「じゃあ、誰が、私を呼んだんですか」
震える声。彼の顔は青く、目は赤い。睡眠不足の色だ。けれど、震えの原因は眠気だけじゃない。呼ばれた、という事実は、人を弱くも強くもする。呼ばれた場所に立っている自分が、その場の正しさを信じたいのに、その正しさはどこにも書かれていない。書かれていない紙は破りやすい。
その瞬間だった。食堂の照明が、一斉に瞬いた。ぱちん、と音を立てて明滅し、天井の蛍光灯が三度、四度、短く点滅した。ブレーカー室の方から、低い唸りが重くなり、床を伝って私たちの足へ上ってくる。空気が、薄い紙をめくるように二重になった。
「見てくる」
堀内が椅子を引き、立ち上がる。体重のかけ方に迷いがない。彼が食堂の扉に手をかけたとき、黒曜の壁の向こうから、甲高い金属音がした。針で皿を引っかいたときみたいな、短く鋭い音。それは一度ではなく、二度、三度、続いた。乾いた歯車が噛み合う瞬間の声。可動壁が、ほんの少しだけ、動いた。
「こっちだ」
零司が通路へ出る。私たちも続いた。足下灯が細長い楕円を床に落とし、その楕円は走る私たちの影で伸び縮みする。影は遅れてついてくる。昨日の映像のように。遅れて伸び、遅れて縮む。遅れは距離ではなく、時間だ。
金属音のした辺りに来ると、空気がひやりと変わった。私は自分の汗が冷えるのを感じた。堀内は壁の目地に指を当て、耳を押し当て、静かに息を止めた。鼻先に黒曜の冷たさが触れ、ガラスのような無臭が肺に落ちる。
「ここだ」
堀内が囁く。芹沢はすぐに廊下の床を見た。白チョークの線。三つの印のうち、ここにあったはずの一本が、ない。たしかにここに引いた。食堂前の壁面の、柱から二十センチの位置。白い線は、跡だけが薄く残って、ほとんど消えている。指で擦ったわけではない、湿らせた布で、丁寧に拭った跡だ。白い粉はどこにも見当たらない。粉は風で舞うはずなのに、ここには舞った形跡がない。
「誰かが、消した」
香月さんが言った。声は震えていなかった。そのまっすぐさが怖い。
「今さっき、動いた音がした。動く前に、印を消した。印があると、動きが記録されるから」
「証拠を、消してから動かした」
零司が言葉を継ぐ。切り出すことと、隠すことの関係を思い出す。見えるものを切り出すと、見えないものが増える。見えないものが増えると、見えているものの意味が変わる。意味は後から決まる。
「ブレーカー室」
堀内が短く言い、先へ進んだ。私たちも二人ずつの間隔を保ちながら続く。廊下の角を曲がるたび、鏡のテープが視界に入り、数字が小さく跳ねる。テープは目に刺さる色で、刺さるたび、目の奥に残像を作る。残像は、しばらく消えない。
ブレーカー室の扉の前に立つ。扉は閉まっている。鍵は食堂に置いてあるはず。瑞貴が走って取りに戻り、息を切らして戻ってきた。鍵を差し込む。金具がすべり、扉が開く。中は狭く、スイッチとメーターが整列し、小さな蛍光灯が白く照っている。異常はないように見える。けれど、床の隅に、銀色の粉が微かに残っていた。非常階段で見たのと同じ、細い金属粉。指で触れると、冷たい。粉は金属の味がした。人の舌は金属を味で判別できる。血の味に似ている。
「ここにも、機構が通っている」
堀内がメーターの下の配管を指した。配管は壁の中へ入り、鏡面の裏へと続いている。可動壁の基部がここにあるのだろう。電源、モーター、ロック。ロックが外れると、壁は紙一枚ぶんだけ浮く。浮いた壁は、誰かの指で押される。押す指は、印のある場所を嫌う。
「戻ろう」
部屋を閉め、鍵をかけ、私たちはゆっくり廊下を戻った。足下灯の楕円はさっきと同じように薄く、しかしさっきより硬かった。硬さは、踏まれ方で決まる。踏む足が多いと、光は硬くなる。硬い光は、影を深くする。
食堂に戻ると、空気はさっきより重く感じられた。柴田さんはテーブルに両手を置き、深く息を吐いた。瑞貴は自分のメモを取り出し、今日の欄に新しい項目を書き加える。「可動壁の動作音、二十二時四十一分、食堂前、印消失」。字は彼女の癖のある丸みで、しかしその丸みの奥に、冷たい芯があった。
「もう、ここは単なる建物じゃない」
香月さんが言った。視線は窓の外に向いている。窓に映るのは私たちと、夜の海と、室内の灯り。三つは重なったり離れたりして、まるで三枚の薄いガラスの上を別々の時間が滑っているみたいだった。
「誰かが私たちを呼び、誰かが私たちを撮り、誰かが私たちを動かしている」
「観客がいる」
瑞貴が肩をすくめた。冗談めかした調子は消えていた。
「舞台に、観客は必要。でも、観客が舞台を回すとき、舞台は自分の足で立てない」
「観客は、見えない」
零司がぼそりと言った。
「見えない観客は、鏡の中にいる」
「鏡の中にいるものは、こちら側のものを真似する」
芹沢がチョークの粉を指先で弾いた。粉は机の上で小さく散り、すぐに止まった。止まる粉と、消される線。残るのはどちらだろう。
「もう一度、印をつけ直したほうがいい」
堀内が現実に引き戻す。
「位置は同じに。太さを少し増して。消されても、跡が残るように」
「消す人が、次はもっと上手に消す」
香月さんの指摘は冷静で、だからこそ怖い。
「上手に消す人は、いつか自分の指紋も消す」
「指紋を消す人は、いつか自分の顔も消す」
瑞貴の言葉は詩のようで、詩はときに真実より痛い。
それでも、私たちは動くことにした。再びチョークを持ち、白い線を引く。消された一本を同じ場所に、少し太く、少し固く。手の震えは少し収まり、線はさっきより真っすぐになった。真っすぐな線は、消しにくい。消しにくいものほど、標的になる。
廊下に出るたび、鏡は黙ってこちらを見た。貼られたテープの番号が、私たちの顔の上に数字を落とす。私は自分の額に「七」が落ちるのを見た。七は私の数ではないのに、その瞬間だけ、七は私のものになった。数字は所有者を選ばない。選ぶのは、数字を読む者だ。
夜はさらに深くなり、海の音は遠く、配電盤の唸りが近くなった。館は生き物みたいに呼吸し、吸うたびに冷たくなり、吐くたびに音が消えた。第二の沈黙は、部屋と部屋の間に挟まる薄い板のように増殖し、歩く私たちの肩を軽く叩いた。
誰かが、笑った。笑いは小さく、すぐに消えた。誰の笑いか、分からなかった。笑いが消えた場所に、白いチョークの粉が一粒、落ちていた。粉は、靴の底で踏まれる前に、私の指で拾い上げられた。指先に乗せると、粉はすぐに溶けた。溶けた白は、私の皮膚の色と混ざり、見えなくなった。
私はその夜、記録にこう書いた。中央カメラ、奥行き伸長。影、遅延。観測孔、金属粉、配電盤下。招集メール、差出人偽装。食堂前、印消失。書きながら、手がわずかに震えた。字が踊る。踊る字は、鏡に映すとまっすぐに見えるかもしれない。鏡は正直だ。正直さは、時々、嘘より冷たい。
ベッドに戻る途中、私は廊下の端で立ち止まり、もう一度、印の消えた場所を見た。そこには新しい白い線があり、線の端に、爪で引っかいたような細い傷がついていた。可動壁が動いたときにできた傷かもしれない。傷は小さく、しかしそこから冷気がわずかに吹き出している気がした。吹き出す冷気は、肌に触れてすぐに消え、残るのは、音のない重さだけだった。
私は三つ数え、息を吸い、止め、吐いた。三は扉。扉は三つで開く。開いたら、閉じる。閉じたら、また開く。誰かが開け、誰かが閉め、誰かが見ている。見ている誰かは、ここにはいない。ここにいない誰かが、ここにいる私たちの影を引っ張る。影は遅れ、伸び、縮む。遅れる影は、いつか本体を追い越す。
部屋に戻り、鍵をかけ、背を扉に預ける。耳を扉に当てると、廊下の息が聞こえた。廊下は生きている。鏡は目を閉じ、壁は耳を開き、床は薄く震える。その震えは、心臓の鼓動と同じ速さではない。遅れたり、先回りしたりする。遅れと先回りの間に、第二の沈黙が挟まる。
目を閉じると、白い線が浮かぶ。三つ。一本、二本、三本。一本は消され、書き直され、一本はまだ無傷、もう一本は、今夜のどこかで消される予感を持って震えている。震える線は、眠らない。眠らない線は、夢に出る。夢の中で、私は白い線を指でなぞり、その先にあるドアを押す。押すたびに、誰かの声がする。開けてしまうところまで。私は振り返らない。振り返ると、影が二つになるから。
明け方近く、館は一度だけ深く息を吐いた。吐いた息は、低い唸りになって配電盤の中に吸い込まれた。電気の匂いがかすかにする。電気は匂いがないはずなのに、古い建物はそれを覚えている。覚えている匂いは、鼻ではなく、皮膚で嗅ぐ。
私は、眠れないまま、目を開けて天井を見た。天井の小さな染みが、数字の三に見えたり、鍵穴に見えたり、観測孔に見えたりした。見え方は、意志では変えられない。変えるのは、壁の方だ。壁は動く。動くたび、私たちの見え方は変わる。見え方が変わるたび、私たちは同じ場所にいながら、別の場所に送られる。
その別の場所で、誰かが私の名を呼んだ気がした。低くも高くもない、湿りも乾きもない声。私は返事をしなかった。返事をすると、第二の沈黙が破れてしまう気がした。破れた沈黙は、壁にならない。ただの空気になる。空気は、軽い。軽いものは、どこへでも行ける。どこへでも行けるものほど、戻ってこない。
朝が来る。光は薄い。光は薄いほど、影を柔らかくする。柔らかい影は、踏んでも音を立てない。音を立てないものは、壁に吸い込まれやすい。吸い込まれた音の行き先を、私はまだ知らない。知らないというのは、怖い。怖いというのは、生きている印だ。
廊下に出ると、白い線は二本、しっかりと残っていた。消された一本は、書き直したばかりの線がまだ粉っぽく、触れると色移りしそうだった。床に新しい足跡はない。鏡のテープは夜の湿気で少し剥がれかけ、しかし番号だけははっきり読める。
私は記録に、もう一行書き加えた。印一本、消失、再描写。可動壁、動作音、再現せず。メール偽装、未解決。鏡の廊下、奥行きの伸長、未解明。未解明、未解決、未再現。未の文字が並ぶと、紙の上に薄い霧がかかる。霧は、指で払えない。
三は扉。扉は、三つで開く。一本は消された。残りは二。二は、迷いの数だ。迷いは、壁を育てる。壁は、影を育てる。影は、私たちの名前を育てる。育った名前が、知らない差出人の欄に並ぶ。そこから、私たちは呼ばれる。呼ばれた場所が、ここだ。
誰が呼んだのか。鏡の奥から、誰かがこちらをまっすぐ見ている。見ている目は、私の目に似ている。似ている、というのは、他人事ではないということだ。似ているものは、入れ替わりやすい。入れ替わったものは、元の場所に戻りにくい。
私は、白い線の前で立ち止まり、指先で空を押した。空は硬かった。硬い空は、天井だ。天井は、壁の一部だ。壁は、扉になる。扉は、三つで開く。そのうちひとつが、今夜また、誰かの指で、消されるかもしれない。消されるたび、私たちは少しずつ、鏡の中へ寄っていく。寄っていくたび、こちら側の廊下は、奥行きを増やす。
映像のように。
影のように。
そして、呼び声のように。




