七日目
八月三十一日。
僕は、今日という日を永遠に忘れることはないだろう。
夏の終わり。
何も変わらない風景の中、担当医の宮本さんが青ざめた表情のまま僕の前へと現れ――告げた。
僕にとって最も大切な存在―――朝陽美春先輩が静かに息を引き取ったことを。
朝の検査時点では、先輩はむしろいつもよりも表情が明るく、看護師や宮本さんに冗談を言うほど元気に話していたという。
だが、次の検査に向かうまでのわずかな時間の間に、彼女は静かに旅立ってしまったのだ。
理解が追いつかなかった。
病状が悪化していることも、終わりの時が近いことも、頭では分かっていた。
けれど、昨日あんなに楽しそうに笑っていた姿を思うと、せめてもう少し――あと少しは大丈夫だと、どこかで信じ切っていた自分がいた。
気づけば、宮本さんの制止を振り切って、僕は先輩のいた病室へと駆けだしていた。
……しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。
整えられた白いシーツと枕だけが残され、窓際のカーテンは大きく開け放たれている。
そこから差し込む晩夏の陽射しが、静まり返った病室に揺らめき、涼し気な風が白布を小さく揺らしていた。
―――それはまるで、最初から先輩が存在しなかったかのように。
生温い空気。規則正しく刻まれる時計の針の音。
壁や天井の色も、その場所も何も変わらないけれど、先輩を形どるものはもう何もなかった。
たとえ先輩が亡くなっても、世界は変わらず続いていく。
けれど、僕の周りだけ時間が止まってしまったかのように視界が歪み――。
「―――佐倉さんっ!?」
声をかけられる間もなく、僕はその場で崩れ落ちるように倒れ、冷たい床に頬をつけていた。
◆
――次に目を覚ました時でさえ、この世界は何も変化はなく、灰が世界を覆いつくしていた。
病室の外からはざわめく声が聞こえ、規則正しい機械の音だけがこの部屋にこだまする中、何百何千と聞いたこの慣れた音でさえ、しかし今だけはやけに煩く聞こえ、僕は布団を顔まで深く被りって世界を闇に包み込む。
その時、扉が軋む音がして、誰かがゆっくりと近づく気配がした。
椅子を引く音がして、その人は僕のすぐ横に腰を下ろす。
「佐倉さん……起きてる……かしら?」
聞き慣れた声だった。
見るまでもなく分かる――宮本さんだ。
返事をする気力すら湧かない僕を、宮本さんはしばらく黙って見守っていた。
やがて、言葉を選ぶ気配のあと、低く落ち着いた声が部屋にゆっくり満ちる。
「……実は……元々、朝陽さんの体調は、いつ亡くなってもおかしくない状況でした……」
……その事実は知っていた。
けれど、他人の口から過去形の文脈で語られると、意味が違う刃を持って胸に入ってくる。
「……そんな中でも、昨日まで生きることができていたのは――佐倉さん、貴方のお陰なんです」
短い沈黙。
紙が指の間で擦れる音。
小さく息を吐いて、彼女は続ける。
「……彼女は、亡くなる前に昨夜のことを楽しそうに話してくれました。医者としては本来外に出ることは注意すべきことだったけれど、それを止められないほどに……彼女は、とても幸せそうでした」
布団の暗闇の中で、僕の喉が勝手に震えた。
「……全部、知ってたんですよね? じゃあ……なんであの夜、僕を止めてくれなかったんですか!? あの夜に外に出なければ、美春先輩は―――」
「佐倉さんっ!」
強い声。そこで言葉は切断される。
「……それ以上は、私が言うことを許しません」
彼女はいつもの柔らかさを保ちながらも、芯に硬いものを灯して言う。
「確かに、あの夜に外に出なければ、という可能性はあったでしょう。でも――貴方だけは、あの日のことを否定しないであげてください。……悲しい事ですが、遅かれ早かれ、彼女は延命治療の末に命を落としていたはずです。……けれど、貴方が誘ったから。貴方が隣にいたから。朝陽さんは、安らかな気持ちでこの世を去ることができたのよ」
少しだけ声が震える。
「彼女にとっての幸せな一日を……どうか、貴方だけは、後悔に変えないで」
宮本さんの言い分に反論の余地はなかった。
けれども、だからといって先輩の死を受け入れられるわけもなく……僕はただ、静かに歯を食いしばっていた。
それから二日が過ぎた。
病院のカレンダーの小さな数字が二つ進んだだけで、世界はあの日から一歩も動いていないように見えた。
ぼんやりと天井を眺め、ぼんやりと廊下の気配を聞き、ぼんやりと何も考えないようにしていると、やがて現実が重く、底の方から這い上がってくる。
――先輩には親族がいない。
両親からの親権はとうに放棄され、その上、戸籍上の手続きすら曖昧なまま放置されていたという先輩は、本来ならば正式な手続きの後に身内で葬式や火葬が行われるものも、しかし、身寄りがないものと判断され、自治体で火葬のみが簡素に行われるのだという。
そこには特例や例外はなく、しかし僕がせめて今からどうにかしようにも、すでに火葬が今日行われようとしている以上、何もすることはできない。
先輩が亡くなったことでさえ未だ受け入れられていない中で、先輩は知っている誰にも見送られることなくこの世界から消え去ってしまう。
その事実がどうしようもなく苦しく、自分の中に重くのしかかる。
あの時、連れ出さなければ、という、あの時封じたはずの後悔が、どこからともなく姿を変えて戻ってきて、指先が冷たくなる。
ーーーそのときだった。
廊下の向こうから、全力疾走の足音が近づいてきたと思うや、すぐにドアノブが勢いよく回り、扉が開く。
そこには、白衣の裾をはためかせながら息を切らした宮本さんが立っていた。
額には汗、しかし目は真っ直ぐこちらを射抜いている。
「……っ、宮本さん!? ど、どうしたんですか……?」
「――――はぁっ、はぁっ、佐倉くんっ!!!!!」
呼吸を整える暇も惜しんで、彼女は言った。
「体調はどうですか!? 具体的には歩けますか!?」
「……え? いや、歩けはします……けど……?」
「よし、ならいいです!」
ぴしっと背筋を伸ばして、彼女はほんの一拍の躊躇のあと、ぜんぶを吹っ切るみたいに宣言した。
「……いいですか!? 今から私は医者の宮本ではなく、野生の宮本です!」
何を言っているのだろうか?
そう思った僕の表情を見越したように、彼女は畳みかけるように言葉を繋げる。
「今からなら間に合います! 急いで準備をしてください! ーーー彼女が待ってるんですから!」
患者に対して早く動けだなんて、医者が患者に口にする言葉ではない。
しかし今の彼女は言った。
今は医師ではないと。
それならば僕は何も言わず、何も言うことなく、ただ、今までのすべてを置いて、立ち上がった。
――――そしてベッドから立ち上がった刹那ーーーー世界がほんのわずかに色づいたように見えた。
◆
そうして僕は、半ば強引に、しかし自分の確かな意志で宮本さんの車に乗った。
外に出るとき、眩い場会の陽の光を浴びることに宮本さんに聞こうと思ったけれど、彼女が何も言わなかったので僕も何も言わなかった。
そしてしばらく走って、信号待ちの赤で車が止まる。
宮本さんはハンドルから片手を離し、短く息を整えてから言った。
「……よくない話とあまりよくない話、どっちから聞きたいですか?」
本来、こういう問いをする時は大体いい話があるんじゃないのかとも思ったけれど、それを聞く空気でもなく、僕は言葉を返した。
「……じゃあ、あまりよくない話からで……」
「……わかった」
そう口にすると同時に信号は青へと変わり、車が走り出す。
「……実は、佐倉君の病院の移転が決まった。詳細は追って話すけれど……要するに、君があの病院にいられるのもあと僅かということになる」
傍から見れば、ただの移転。
けれど、この場においてのその言葉はつまり、先輩と過ごした地から離れるということを指し示していて。
宮本さんなりに気を使ってくれたのだろうが、けれど先輩のいない病院にいるよりは気は紛れるだろうとも思うと同時にふと最初の問いを思い出す。
「……じゃあ、よくない話、ていうのは……?」
よくない話と前置きされたことで身構えていたが、宮本さんは少しだけ柔らかい溜息を零し。
「……君の病……白蝕症の治療法が確立された」
「―――っ!?」
身構えていたが故に、衝撃の事実に咄嗟に宮本さんの横顔を見た。
本来であればこれはきっと良い話として用意していたのだろう。
……けれど、宮本さんの表情から読み取れるのは後悔。
多分、宮本さんはもう少し早ければ先輩を救えたという、そういう思いを抱えているのだ。
でも、それは……。
「なんですか、よくない話っていうから身構えてたのに……すごく良い話じゃないですか」
自分でも驚く程に言葉が滑らかに出た。
「……いや、でも……」
「先生が言ったんですよ? 貴方だけは後悔するな、って。……先輩が夢見た病気の治療法が確立されて、この病で苦しむ人がいなくなる。……それだけで、先輩がいたことに意味がある。先輩の生きた証がこの世に生まれたんですから……それはなによりも良い話、でしょう?」
僕のその言葉に宮本さんは短く瞬きをして、唇の力を抜いた。
「……そう……そうだね……朝陽さん……そして、佐倉くんの力があって初めて生まれたんだものね……えぇ、それは確かにとても良い話よね……ありがとう、佐倉くん」
ーーーその話ののち、僕らはそう多くは語らなかった。
けれど、目的地に着くまでの空気を見兼ねてか先生は絶えずいろいろな話をしてくれた。
医者を目指し始めたきっかけや、医者になってからの苦悩、その他嬉しかったことや仕事の愚痴など、ただ僕は相槌を打っているだけだったけれど、それがどことなく心地よく、優しかった。
◆
ーーーやがて、僕らは目的地に着いた。
降りた途端に鼻をくすぐる焼香の匂いと乾いた空気。
建物の入り口には、達筆な黒い文字で先輩の名前が掲げられていた。
まるで朝の陽ざしのように明るく、美しい春のような綺麗な名前。
葬場に入り、案内に導かれるように歩いて行った先で、僕はただ呆然と立ち尽くした。
すすり泣く声すら聞こえないその空間には、宮本さんと僕、そして、静かに横たわる朝陽さんしかいない、あまりにも小さく、静かすぎる場所だった。
その場で呆然と立ち尽くしていると、ふと、少し前を歩いていた宮本さんが僕に向かって振り返る。
「……佐倉くん。……遅くなったけれど……これを君に」
小さな声で僕の名を呼ぶと、宮本さんは懐から一通の封筒を取り出した。
白地の封筒に、丸い筆跡で僕の名前が書かれている。
「これって……っ」
見ただけで、誰が書いたのか分かった。
体が先に理解して、心臓が一拍強く打つ。
「……彼女から預かっていたんだ。『葬式の時に渡してほしい』と、そう言われてね」
結果的に葬式はなかったけれど、と付け加える宮本さんだったけれど、そんなことは一切耳に入らなかった。
僕は受け取った封筒を見つめ、手が震えるのを止められなかった。
これは紛うことなく遺書というものだろう。
それはつまり先輩がこの世に残した、最後の言葉で。
先輩の遺した言葉が、文字が、時間を遡って僕の方へ歩いてくるーーー。
ーーーーーーーーーー
―――夏来くんへ。
正直遺書なんて書くつもりもなかったし、書く人がいるなんて想像もしてなかったから、どう書けばいいのかわかんなくて、少しだけ緊張してるんだけど……伝わってるかな?
拝啓、とか、夏来様とか、いろいろ考えたけれど、やっぱり私にとって一番呼び慣れた名前がいいなって思って、こう書き始めました。
……多分、私はもうすぐこの世を去ると思います。
もしそうなってしまったら、きっと君は後悔すると思う。
……だけどね。
私がここまで生きてこられたのは君のおかげだから、そんなふうに思わないでほしいんだ。
外に出られない私にとって、最後に外の景色と夢の世界を見せてくれた君は、まるでフィクションのヒーローのようで。
私にとって、特別な人だったんだから。
私たちの出会い、覚えてるかな?
佐倉 夏来っていう名前を初めて聞いたとき、どんな人だろうって思ってた。
桜のように綺麗な人かな?
夏のように明るい人かな?
同じ病気だから、分かり合えるといいな――って。
そう思っていたのに、実際に会ってみたら暗くて、卑屈で、からっぽで。
到底、話し合いなんかできないなって最初は思ったよね。
それから何度も会いに行ったけれど、君はずっと不愛想で、すぐにそっぽを向いちゃう嫌な奴で。
自分を隠そうとして、誰にも頼ろうとしなくて。
……心の奥ではずっと誰かに触れてほしいと願っているのに、それを表に出さない矛盾だらけの人だった。
それでもね。
私は最後まで、夏来くんと一緒にいたことを、一つも後悔したことなんてないんだよ?
苦しい時間ばかりだった私の人生で、君と過ごした日々だけが、宝石みたいにキラキラしてるの!
私は夏が嫌い。
暑いし、日焼けするし、汗かくし、虫は多いし、蝉の声もうるさいし。
そしてなにより。
夏来くんとお別れをしなきゃいけないから。
君は暗くて、卑屈で、からっぽ。
……でも、実は全然違ったね。
本当の君は明るくて、少しかっこつけで。
そして――少しだけ卑屈な、優しさがたくさん詰まった人。
……やっぱり、私はさっきの言葉で嘘をついたかもしれません。
後悔していないなんて、嘘です。
もし、私が人生を悔いることがあるとすればそれはーーーーー。
ーーーもっと君と一緒に生きたかったな。
花火、一緒に見たかったな。
水着、見せてあげられなかったな。
君と見るひまわり畑は、きっと綺麗なんだろうな。
実際の砂浜は、やっぱり違うのかな?
……なんて。
やっぱり、叶わない願いを言うのは変、かな?
……でも、君は変じゃないよって言ってくれるよね。
ねぇ、夏来くん。
私は君と出会えて、本当に幸せでした。
私は夏が嫌い。
でも、それ以上に。
君と出会えた夏が好き。
私に生きる意味をくれた君が好き。
夏来くん。
この手紙をちゃんと見てくれているかな?
見ているといいな。
私は、夏来くんが好き。
大好きです!
伝えることができないと思っていたのに夏来くんは私のところに来てくれて、最後の夢を叶えてくれた時、私は生きてて良かったって思えたんだよね!
けれど、私は、君のこれからの人生の中にはいません。
君にとって、私の存在が大きかったらいいなって思うけれど、私は、夏来くんがちゃんと前を向いて、これからを幸せな人生だったと言ってくれるなら、私はそれだけでいいの。
だから、あえてこの言葉を使うね。
さようなら、夏来くん!
夏来くんと出会えたこの一年間は、本当に楽しかったよ!
私は夏来くんに恋をして、本当に良かった!
好きになって、本当に良かった!
夏来くん。
短いけれど、最高の夢をありがとう。
そして、さようなら。
P.S.
私にくれた指輪は返しておくね。
いつか、君が出会う素敵な人に、ちゃんと違う指輪を渡してあげてね。
先輩との約束、だからね。
便箋の最後の一行に指が触れて、インクがほんのわずかに光ったように見えた。
紙の端を持つ指先が震え、手紙に大きな水滴が零れ落ちる。
―――――先輩は、いつも自分勝手だ。
初めて出会った時も、人の気持ちも考えずに自分だけ勝手に話して、満足げに話し終えたらすぐに帰っていく。
それでも、いつだって先輩は僕に道を示してくれた。
手紙を読み終えて、便箋を丁寧に畳んで封筒に戻すと、宮本さんがそっと小さな箱を差し出した。
天鵞絨張りの、掌に収まる大きさ。蓋には、薄く擦れた銀色の飾り縁。
「……思えば……これを今朝渡した時点で彼女には自分の最期が分かっていたのかもしれないわね……」
そう口にする宮本さんに、僕は目元を擦りながら一礼する。
「ありがとうございます」
僕は両手でそれを受け取り、ゆっくりと開くと、そこには深い布地の窪みに刺さった銀色の輝きを放つ指輪が、彼女の気配の名残のようにそこにあった。
僕はそれを再び閉じると、足が自然に先輩の眠る場所へ向かっていた。
ゆっくりと、ひと足ずつ。
花の香りと焼香の香りの混ざった匂いが徐々に強くなる。
喉はからからに乾き、涙で視界が歪む中、僕はようやく辿り着いた先輩の元で、声は出さずに、心の中で言う。
―――先輩、すみません。
僕は今から、先輩との約束を、一つだけ破ります。
箱の蓋の中から見える先輩の綺麗な顔の横、枕の白の際に、僕は持っていた小さな箱をそっと置くと、箱の角が布に沈みながら小さな影ができる。
先輩は、いつか僕が出会う素敵な人に違う指輪を渡してあげてと言った。
でも、それはできない。
僕にとって。
僕の人生において最も素敵な人が、美春先輩なのだから。
その時、すべてがそこで繋がった気がした。
止まっていた時が、微かな軋みを立てて動き出す。
僕にとっての七日目が、終わり始める。
世界は急速に色づき始めながらも、僕の視界は歪み、何も見えなかった。
涙が堰を切って溢れ、頬を熱で伝って落ち、肩が小刻みに震える中で、僕はそっと言葉を落とした。
「……さようなら、美春先輩」
長い夏が、ようやく終わる。
先輩のいない夏が。
そして、君と僕が恋をした夏が―――――。




