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夏に恋した君と僕  作者: 朝雨 さめ


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6/8

五日目




次の日の朝――。

カーテンの下から漏れ出す淡い光が、太陽が昇り始めたことを薄暗い部屋に告げる。

他の患者さんや忙しなく働いてくれる看護婦さんの喧騒は未だ始まっておらず、この病室には僕の静かな息遣いと無機質な機械音が満ちている。

最早聞きなれてしまった精密機械の音は慣れれば風流なもので、昔に美春先輩とこの音をビートにラップバトルをしたこともあるぐらいだ。


僕はその音を背にベッドからそっと身を起こし、床に足を下ろした。


ふと、何気なく周囲を見渡すと、そこかしこに美春先輩との思い出がたくさんある。

本来であれば誰も入ってくることができないこの病室に、しかし扉を開いてくれた偉大な先輩。


――そんな、僕を救ってくれた先輩に僕ができることは何なのだろうか。


その答えを、先輩が去ってからずっと考えていた。

先輩はすでに僕に感謝をしていると言っていたけれど、それはただ僕が先輩と同じ病を持っていたからなだけで、僕自身が何かを成したわけじゃない。

だからせめて何か一つだけでも先輩の中に、僕という存在を残すために。

そして、僕にしかできないことをやるために。


―――僕は杖を持たず、ベッドからおもむろに立ち上がって歩みを進めた。


一歩、また一歩と足を進めるも、やはり足の筋力が落ちているのかうまくバランスが取れずにすぐにその場で崩れ落ちてしまう。


まるで途中から地面がなくなったかのように錯覚するほどの虚脱感に襲われながらも、しかしまぁ想定内の事態で僕は安心した。

そもそも白蝕症の人が歩けるまで回復するのは人にもよるがおおよそ年単位。

たった一日。それも始めたばかりで成功するなどとは思っていない。


……とはいえ、僕たちには人生の時間が限られている。


文字通り足踏みをしている暇はない。

僕は今、一年という長い時間を取り戻すために自分自身にできることをやるだけだから。


――そうして僕は一度歩くことをやめ、まずは直立で、まるで仁王像のように立ち尽くした。


推察として、全身の筋力がないことで体を支えることができなくなっているということであるのなら、まずは歩くことよりも立つことを可能にする必要がある。


「―――っふぅ……」


ただ、数分もしないうちに額から汗がにじみ落ち、震える足元の冷たい床に滴り落ちた。

立っているだけ。それだけのことなのに、こんなにも辛いことになるとはそれこそ夢にも思っていなかった。

昔は外で何十分も走り回ってた頃からすれば到底考えが及ぶはずもない。

……でも。

美春先輩は、女性という筋肉がつきにくい中でも努力し続け、二年の末に歩くことができている。


ならば僕なら、もっと早くできるはずだ。

幸い、まだこの病気になってから一年。

長い時間だけど、取り返せない時間じゃない。


まずは先輩と肩を並べて歩けるように、そして気持ちを面と向かって伝えられるように。

そんな想いを胸に、筋肉の震えを超えて僕は立ち続ける。


……気がつけば、足は痺れるように重く、肺は焼けるように熱い。


「……っ、はぁ……っ」


誰にも聞かれたくない、情けない息遣いが、やけに大きく病室に反響する。

そのとき。

ガラリ、と病室の扉が開いて―――。


「佐倉さん、少し失礼します――ってちょっと!? なにしてるんですかっ!?」


―――白衣の看護師が目を丸くして駆け寄ってきた。

一方の僕はというと、すぐに動くことができないので、そのまま両手を挙げて、まるで現行犯のように凍りついた。

恥ずかしい体勢だが、看護師のほうはそれどころじゃないとばかりに僕の体を支えてベッドに腰掛けさせる。


「杖もなく立ってたら危ないじゃないですか! 何考えてるんですか!? それに汗だくじゃない! 熱でも出したらどうするの!?」


ものすごい剣幕で矢継ぎ早に飛んでくる叱責に、返す言葉もなく……こうなったらもう項垂れるしかない。

看護師の言うことは至極当然。

とても耳が痛い話だけれど、僕はあくまで病人でお世話になっている身。


だからまぁ……。


「す、すみませんでした……」


僕はそういうと同時に再びベッドに横たわるのだった―――。







午前の問診や検査が終わったあと、僕は経過観察のために診察室にいた。

正面の椅子には、いつものように白衣を羽織った担当医である宮本さんが腰掛けている。

宮本さんは少しクセのある髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥からこちらを観察するような視線を投げてきた。


「――で? 朝から変なことしてたって、本当?」


思わず訂正したくなるような言い回しをする宮本さんに、しかし僕は踏みとどまって返事をした。


「……いや、変なことっていうか……まぁ、ハイ……」


普通に立っていただけですというのも少し含みがあるような言い方になってしまうから、というのは黙っておこう。


「まったく……早朝に看護師さんが慌てて報告に来てたから何事かと思ったわよ……。危ないじゃない?」


宮本先生はペンでカルテを軽く叩きながら、ため息を吐いた。

おっしゃる通りで……と、言いたいところだけど。


「でも……僕に残された時間は少ないから……」


そう呟くように言った言葉に、宮本先生は再び小さくため息をついて、しかしすぐにふっと、いたずらっぽく口元を緩めた。


「なるほどねぇ? ……筋肉がついたら、美春ちゃんが振り向いてくれるかもって思ってるんだ?」

「なっ……! いや、そ、そんなつもりじゃ……!」

「なによ~顔真っ赤にして! 図星じゃないの~?」


と、わざとらしく目を細め、机に頬杖をつく宮本さんのその余裕たっぷりの調子に、しかしまぁ言い返す言葉は見つからないでいると、宮本さんはカルテに目を通しながらも今度は真面目な口調で言葉を続けた。


「……なんにせよ、無理をするのはダメよ? いくら体調がよくなったとはいえ、この症例の人が歩けるまでに回復するのは一年以上かかるんだから……時間がないのも分かっているつもりだけど、かといって無理をするのは一番の回り道なのよ? 分かった?」


宮本さんの言葉は間違いなく正しいと思う。

医師という治療の専門職になるには相当の勉強量が必要だろうし、そこからこの病院の医師として多くの人の命を救ってきた彼女の言うことは理論として従うべきなんだろう。

けれど、その言葉に従うほど理性が残っているのなら僕は今こうして怒られていない。


「……はい、わかりました……」


僕は口ではそう告げるものの、しかし胸の奥は未だに燻っていた。




―――病室に戻ると、僕はすぐに杖を手放し、両の足で床に歯向かう。

身体はまだ重く、汗が滲み、傷んだ肺が抗議するように軋む。

それでも歯を食いしばり、漏れ出す息を整えながら足を前に踏み出す。


「……っ、はぁ、はぁ……」


窓の外から射し込む朝の光が、カーテンの隙間からわずかに床に細い筋を描いている。

僕はその光に手を伸ばすように、必死に身体を動かし続けた。


―――そうして体を動かしていると、ある一つの事実に気が付いた。


「……あれ、なんか……?」


僕は抱いた違和感を確かめるためにゆっくりと歩みを進める。

そしてやはりその違和感が正しいものだと再確認した。


―――そう、最初よりも身体が軽いのだ。


はじめは数分も立てなかったのにも拘らず、今では普通に歩くことが可能になっている。

灼けるように熱かった肺はいまや鳴りを潜め、汗はいつの間にか引いていた。


確かに足の痺れや痛みは未だ残っているものの、それでも最初に比べれば明らかにマシと言えるほどに動きやすい。


……もしかしてと思い、僕は今度は近くに置いてあった机を持ち上げようと試みた。


当然、腕の痛みと腰に響く痛みが増して持つことは叶わなかった―――がしかし、挑戦すること十数回目。


「――――っ……しゃぁ!」


僅かに数センチ程度だったが、机を浮き上げることに成功した。

そして痛む腕は多少の痺れを残しつつも最初の頃よりは大きく痛みが軽減されていた。


「これって―――!?」


そして頭に浮かんだ、希望に満ち溢れた仮説。


もし、もしこれが事実だとするのならば――――。


そう思う気持ちは次第に膨れ上がり、僕は仮説を証明するために、無我夢中で身体を動かし続けた。




―――気が付けば、窓から差し込む光は白から紅へと変わっていた。


普段通りの病室に響く規則正しい機械音と、そして普段とは違う、僕の激しい息遣いが病室に木霊する。

僕はベッドの脇に捕まりながら息を整える。

額から汗が滴り、喉は焼けつくように乾いているが、僕の唇は自然と笑みに歪んでいた。


「……っ、はぁ……はぁ……間違いなかった……間違いじゃなかったんだ……っ!」


痛みはもうなかった。

感覚が麻痺しているわけじゃないことは僕が今証明している。

これは間違いなく病気にかかる前と同じような感覚。

地面から伝わる重力は未だに重く感じられるが、それでも心地よい重さだった。


僕は息を整え、希望に満ちた目で立ち上がり、少し前では考えられないほどに軽快な足取りで病室のドアに手をかけた。


少しばかりの深呼吸をして、病室のドアを自分の手で開けると、涼しい風が身体を駆け抜けた。

夕焼けによって白い病棟は紅く染まり、遠くでは蝉が五月蠅いほどに鳴いているが、そのどれもが心地よく感じる。


まるで新しい世界の扉を開けたかのような感覚に身を任せて、僕はこの仮説を立証できたことを伝えるべく、診察室へと自分の足で、一歩ずつ歩みを進めた。







―――存在しないものを見るような表情というのはこういうものなのだろう。


僕は、信じられないとばかりに口を大きく開けて、その口に負けないほどに目を見開いている担当医――宮本さんに挨拶をする。


「こんばんは!」

「あっ、あわ、え、え……っ?」


あまりの動揺に、ただ唇を上下に動かすことができていないその姿に思わず笑ってしまうが、宮本さんはそれどころじゃないと言わんばかりに首を横に振っていた。


しかしまぁそうだろうよと鼻を高くしながら僕は宮本さんの前に歩いていく。


つい今朝まで杖を持たないと歩けないでいた少年が、今や目の前に立つどころか、杖もなく病室から診察室まで歩いてきているのだ。

そんなもの当然こんな顔になるのも理解できる。


まぁ、ここに来るまでに幾人かの看護師も同じような表情をしていたから既に驚かないけれども。


―――と、ついに脳に理解が追いついたのか、宮本さんはまるで猫のように素早い動きで僕の体を触り始めた。


「なっ!? な、な、なんで……!? いやっ、ていうか、ほ、本物……っ?」


宮本さんの両手が、まるで壊れ物でも扱うかのように僕の肩や背中、脚の筋肉を押しては確かめ、肘や膝の関節を動かしては小さく悲鳴を上げる。


その仕草があまりにも慌ただしく、そして真剣だからこそ、僕は思わず口元を緩めてしまった。


「どうですかこれ? すごくないですか?」


自分でも子供みたいな言葉だと思う。

けれど、これ以上に表現できる言葉なんて今は全然思いつかなかった。

この身体がもう一度自分の意思で立ち上がり前へ進める――それだけでどれほど嬉しい気持ちになったことか。


「……は~……っていやっ! すごいなんて言葉で片付けられるわけないでしょ……っ!? 身体は大丈夫なの!?」


宮本さんは苦しげに吐き出すようにそう言い、僕の顔を見据えた。

その目には、驚きと戸惑い、そしてほんの少しの――恐れが混じっているように思えた。


「……だって、し、信じられないわ……!? 普通なら最低でも一年……いや! もっとかかってもおかしくないのに……?」


宮本さんに浮かび上がる当然の疑問。

しかしその問いに対す津\る答えを、僕は今、手に入れている。


「……宮本さん……もし、その前提が間違っているとしたら、どうでしょうか……?」


そう答えると、宮本さんは一瞬口をつぐみ、それから何かに気づいたかのように顎に手を当てて考え込む仕草を見せた。


「……っ、まさか、無理にでも体を動かすのが治療法……? い、いえ、でもそれは医学として……でも現に実例が……え、えぇ……っ?」


まるで思考の出口を見失った迷路の中で立ち尽くすかのように、言葉を断片的に繋ぎながら僕を見ていた宮本さんは何かを探すように机の引き出しの中の書類を漁り始めた。


「……確かに理論上でも筋繊維は刺激を与えれば修復のサイクルが早まるとは言うけれど……。でも、白蝕症では急速に衰えた筋組織がそのまま壊死する可能性も……いや、絶対安静を謳う病院に通うことがそもそも間違っていたということ……? い、いえ、それにしても見た目上で変化がない上にたった一日でここまで筋力が戻るなんて信じられない……っ! こんなの研究も、論文も何ひとつ当てはまらないじゃない……!」


宮本さんは片手で額を押さえ、深い呼吸を繰り返す。


その姿は、ただの困惑ではなかった。

理性を越えた現象に触れてしまった科学者特有の、認めざるを得ないがゆえの畏れ……いや、今回に限っては動揺だろうか――そんな色が、声の端々に滲んでいた。


「……でも、現に佐倉さんは自分の脚だけで、ここまで歩いて来たんでしょう? ……全く……事実は小説より奇なりとは言うけれど、論文をひっくり返してしまっては医者としての立場がないじゃないの……!」


宮本さんはその後しばらく、まるで言葉を失ったかのように僕を見つめていた。

言葉の節々に、今までやってきたことがひっくり返されたことの自責が含まれていたけれど、その口調は明るく、希望に満ち溢れていた。


「……今回のことはもしかしたら偶発的で、奇跡的なものかもしれない。それは今後研究しなければならないけれど……」


そこまで言って、宮本さんの目に一瞬だけ光が宿った。

それは医師としての理性を超えて、ひとりの人間としての希望が零れ出た瞬間だった。


「……まずは佐倉くんの体が良くなって本当に良かったわ……それと同時に、本当に……本当にありがとう。今回のことで、あなたの存在がもしかしたら、これから何人もの患者を救うきっかけになるかもしれないんだもの……!」


その余りある賛辞に僕は思わず背筋を伸ばす。

胸の奥が熱くなるのを感じながらも、気恥ずかしさを隠すように話をそらした。


「……僕の無茶が誰かの助けになるなら……すごく嬉しいです。……と、じゃあ……! この足で、美春先輩に見せてきます! きっと驚くと思いませんか……!? 絶対、喜んでくれますよ!」


―――そうして僕が病室の方へ足を踏み出した瞬間、しかし宮本さんの鋭い声が僕の背中を刺した。


「っ、待ちなさい!」」


あまりの剣幕に思わず振り返ると、彼女はまっすぐ僕を見つめながら白衣の袖をぎゅっと握っていた。


「え……っと、あの、まだ何か……?」


僕の当然の疑問に、しかし宮本さんは顔を伏せながらゆっくりと答えた。


「……あ、いえ……佐倉さんがどれほど喜んでいるかは私にも分かるわ。……だけどほら、今日はもう遅いし、朝陽さんもこれから検査だから……彼女に見せるのはまた明日でいいかしら……?」


宮本さんの言葉にふと時計を見やると、時刻はすでに午後の六時を示していた。

病院の就寝時間が午後九時であることを考えれば、確かにこの後に検査が控えているのなら話す時間は少ないだろう。


だから。


「……わかりました」


僕は宮本さんの指示に従った。


治療法が確定していないとはいえ、快方へ向かうということは、それがそのまま僕らの限られた時間を取り払うことを意味する。


だから。


――僕は気楽に考えてしまったんだ。





―――その夜。

僕は胸の奥に燃えるような高揚を抱いたまま、静かにベッドの上で天井を見つめていた。


明日、ようやく先輩に恩返しをすることができる。


いきなり先輩の部屋に僕が行ったらどんな顔をするだろうか。

驚きや戸惑い、喜ぶような顔が思い浮かび、想像するだけで胸が高鳴ってしまう。


が、そんな物思いに耽っていると、なにやら病室の外から慌ただしく行き交う足音や短い指示の声が耳に入り、嫌な予感を感じた僕は、思わず毛布を静かにのけて、音を立てないようにベッドを抜け出した。

誰かに気付かれないように足音を殺しながら廊下へ出ると、消灯後の病院は、昼間見た時よりも異様に広く感じ、そしてなにより冷たかった。


そんな異質な気配の中で、僕はざわめきの中心―――ナースステーションへと引き寄せられていく。


この病院は小さな病院だけれども、夜だとしても対応できるように宮本さん含めた何名かの医師の中から交代で一人と、看護師が常に二人勤務しているのだが、そのうちの二人ともの看護師たちが慌ただしく何かを用意し、静かに会話をしているのが明りに照らされていた。


ただ、静まり返った病棟の中では小声でも響き渡り、その会話が確かにはっきりと僕の耳に入ってくる。


「朝陽さんの容体は……?」

「今は安定してますが……いつ悪化するか……」

「そう……先日から足が動かないとは聞いてたけど……あんなに細くなって……」

「はい……あっ、私、車椅子を準備してきます」

「えぇ、お願い―――」


―――朝陽さん……つまり、美春先輩の容体が悪化した……?


そう思うのと同時、その先は何も聞こえなかった。


視界がグラつき、心拍が上がる。


しかし僕はそれらを抑え、そして看護師らに気づかれないように再び立ち上がり、前を向いた。


思うところはたくさんある。

けれども下を向いている時間はもうない。


僕自身が、これからできることのために。

僕は前を見続けなくてはいけないのだから――――。



























―――先輩が亡くなるまで、あと、二日。

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