四日目
暗い世界に規則正しい機械音だけが鳴り響く。
身体に感じる痛みと、機械の冷たさだけが感じられるこの世界で、しかし前回とは違ったわずかな温もりが手に感じられた僕は思わず瞼を開けた。
あれからどれほど時間が経っただろうか。
美春先輩の父親を名乗る屑相手に無理をしたせいで、さらに多くの管をつけられている腕はまるで自分のもののようではなく、今や腕一本指先一つも動かせる気力もない。
――と、そのまま視線を徐々に下げていった僕は、その先にいた存在に思わず目を見開いた。
「―――っ、み、はる……せ……ぱい……!?」
あまりに無理をしすぎたせいで声を出すこともままならない僕の言葉に、しかしそこにいるはずのない美春先輩は、それに気づいて僕の手を握ったまま微笑んだ。
「起きたんだね……って、あ、それはそっちのセリフでもあるか」
依然としてそう明るく話す先輩に、いろいろと聞きたいことはあれど、どこから話せばいいのかと思うように思考はまとまらず、声を紡ぐことができない。
……それを見かねてか、美春先輩は僕の唇に指をあてて、静かにするようにというジェスチャーをした。
「……昨日の夜に目が覚めてね……全部、看護師さんから聞いたよ。……私の父親のこと」
僕はそう口にする美春先輩に、わずかに口を開き、謝罪の言葉を述べようとして、再び美春先輩は言葉をつづけた。
「……私ね、実はお父さんとお母さんの間で望まれないまま生まれた子供だったんだよね」
……笑って言うその声色は冗談のようでいたけれど、決して冗談ではないことはすぐに分かった。
美春先輩の指先が、僕の手を握りながらもわずかに震えていたから。
そして、美春先輩はその震えを抑えるかのように、静かに、思い出すかのように口を開いた。
「小さい頃からなんとなく分かってたんだ。……私は家の中で居場所がなかったから。……お母さんはいつも疲れた顔で、暴力こそはなかったけれど、私を見るとため息を吐いてね? ……お父さんは私のことを事務的に対応するかのように、必要以外のことは何にもしてくれなかった……それが普通じゃないって気が付いたのは中学生になった頃だったけどね」
言葉を続けながら先輩は少しだけ視線を落とし、ベッド脇の機械の点滅を見つめた。
機械音に混じって、ほんの一瞬だけ先輩の吐息が漏れる。
――初めて聞く、先輩の身の上話に僕は静かに耳を傾ける。
「……でもね……? だからこそ私はこの病気になったときにちょっとだけホッとしたんだ~。あぁ……もうこの家に居なくてもいいんだ~って。知ってると思うけど不便も多いし、身体も痛くて辛いこともあるけど、それでもここに来てからみんな優しいし、顔色を窺わなくてもいいから楽だからね」
先輩の言葉に、一切の偽りはなかった。
だからこそ先輩の言葉はより深く、心に届く。
「……でもね、やっぱりどんなに扱いが酷かったとしても、私にとって父親はやっぱり父親で……。初めにお父さんがここに来てくれたって聞いたとき……。私、少しだけ嬉しいって思っちゃったんだよね」
美春先輩は、わずかに自嘲するように笑った。
「……あんなお父さんだったけど、最期には来てくれるんだって……。私のこと、ちゃんと見てくれるんだって……。そんなふうに思えるぐらいに、私って未練があったんだなって……」
その言葉に僕は、黙って耳を傾けるしかなかった。
話すことができないからではなく、聞かなければいけない、そう思ったから。
「ま、実際は夏来くんが聞いた通り、あの人は私なんかに一切興味がなかったんだけどね。……あるのはただの世間体を気にした最低限の義務だけ。……愛なんて、欠片もなかった」
先輩はそう言って視線を落として目を伏せる。
泣いてはいないけれど、乾いた声が病室の空気を揺らす。
「……馬鹿みたいでしょ? 最初から期待してなかったはずなのに、最後ぐらいは優しい言葉が欲しかったなんて。……けど、いざそんな事実を知っても……う~ん……なんか、思ったより気にしなかったんだよね~!」
……と、暗い表情が一転、美春先輩は少し口を尖らせながら僕の感覚のない指を弄り始めた。
呆気にとられているとき、先輩は少しはにかみながらこちらを向いた。
「なんていうか……それ以上に幸せなことがあったから……」
そう言った美春先輩は、ほんの少し頬を紅潮させ、困ったように笑っていた。
病室の薄暗さの中、その笑みだけが小さな光のように見え、僕もまたなぜか恥ずかしく感じてしまう。
この言葉の意味が分からないほど、僕らはもう子供ではないのだから。
「私、親に捨てられたとき、この世界に私の居場所はないんだって思って自殺しようとしたことがあるの。……結局ビビっちゃってできなかったけれど、今は全くそう思わない。……君に……夏来くんに出会えたから」
彼女の目は、まるで遠い夏の光景を思い出すように、静かに潤んでいた。
言葉は静かだったけれど、その熱が確かに指先に伝わる。
「あんな父親に口先で言われるより、夏来くんにちゃんと守ってもらえたことが私、なにより嬉しかった! 生まれてきて、本当に良かったって思えたんだよ?」
そう話す先輩の姿は弱々しくも誇らしげで。
苦しみや絶望を超えてなお、自分の人生を抱きしめているように見え、先輩のその笑顔を見た瞬間、僕の胸の奥が熱くなる。
こんなにも弱り切った身体で、それでも「生まれてきてよかった」と言える人が、どこにいるだろう。
その言葉の重みが、彼女の命のすべてを物語っていた。
――だから。
「……み、はる……せんぱい……」
掠れた声しか出せない自分が、心底もどかしい。
本当はもっと大きな声で伝えたかった。
彼女の言葉を一片たりとも否定させないために。
―――父親のあの冷たい笑みを思い出す。
可哀そうだろうと、口先だけで吐き捨てた声。
けれどどうだろうか。
今のこの先輩を見たら絶対にそんなことは言えない。
いや、言わせない。
決して先輩は哀れなんかじゃない。
もし世界中の人間が先輩を可哀そうだと呼んでも、僕だけは否定し続ける。
先輩の生を、先輩自身の言葉を、最後の瞬間まで信じ抜く。
その誓いを刻むように、僕は動かない指先に力を込めた。
ほんのわずか、それでも確かに。
先輩の手を、握り返した。
美春先輩は驚いたように目を瞬かせ――そして、ふわりと微笑んだ。
「……うん。夏来くんがそう思ってくれるなら、私はもう十分幸せだよ」
その声が、規則正しい機械音よりも確かに僕の心臓を打ち続けた。
僕はちゃんと言葉を発せていなかったけれど、それでも、美春先輩は理解してくれた。
―――と。
「……ねぇ、夏来くん」
ふと、美春先輩は視線を天井に向けた。
その瞳には、この狭い病室では到底収まりきらない何かを映しているように見えた。
「少しだけ私の夢の話、してもいい?」
その静かで優しい声に、肯定する意思を込めて僕はわずかに指先に力を入れる。
「ふふ、ありがとう。……そうだなぁ~、私ね? やっぱりまずは高校に行きたかったな~! あっ、夏来くんは高校までは行ってたんだっけ? いいな~! 高校の制服着てみたかったな~!」
先輩の声は、叶わなかった時間を語っているはずなのに不思議と明るかった。
「あ、あとね……夏といえばやっぱり海だよね~! 私、砂浜歩いたことないんだけど足痛くないのかな? ねぇ、どう思う? ……あっ、もしかして私の水着とか想像してない~? や~夏来くんのえっち~!」
……まぁ、多少自由に言いすぎている気もするけれど、今日だけは許してあげよう。
……別に間違ったことも言っていないし。
「それからそれから……あ、今の季節はひまわりとか綺麗なんだろうな~! 山とか登った先にあるひまわり畑! 素敵じゃない?」
先輩はそう言いながら、ぎゅっと僕の手を握り直した。
その力は弱々しいはずなのに、今の僕には強く感じた。
そして、先輩はカーテンの閉まった窓を眺めて呟く。
「――ねぇ、夏来くん。……叶わなかった夢を、叶うことのない夢を語るのって、変かな?」
暗い部屋に映る先輩の表情は、少しだけ寂しそうだった。
―――変なんかじゃない。
そう伝えたいのに、声が出ない。
だからせめてさっきよりも強く指先だけに力を込めたけれど、先輩の瞳は変わらずカーテンの先を見つめていて―――。
「……でもね、やっぱり一番は……」
しかしその言葉とともに先輩はこちらをしばらく見つめたのち、首を横に振った。
「いや、これは半分叶ったようなもんだからいっか。……海にも行けなかったし、ひまわり畑も、山の頂上も見られなかったけど……こうして夏来くんと夢の話をして、一緒に景色を想像して、それを分かち合えることができて、私はもう、十分幸せ者だから。ほら、だってね? 私ってずっと病室に縛られてきたでしょ? どこにも行けないから誰とも深く関われないしほんとにつまんない人生だな~って思ってたところで夏来くんに出会った。君に出会って私の世界はこんなに広くて、こんなに明るいんだって初めて知れたんだよ?」
その言葉に、僕は胸を突かれたように黙り込む。
「だからね、夏来くん。私、海を見られなくてもいい。ひまわりに囲まれなくてもいい。山の風を浴びられなくてもいい。……こうして、夏来くんと夢を語り合えたことが、私の人生で何よりの宝物……いや、夏来くんと出会えたことが私にとって何よりの幸せだった! ……本当にありがとう、夏来くん!」
そう言葉を紡いだ先輩の瞳は、今を生きている眩いばかりの光で満ちていた。
美春先輩から受けた言葉は僕にとってかけがえのないものだった。
美春先輩は僕がいたことに救われたと言うけれど、僕も先輩に救われているのだと、今すぐに伝えたくな。
身体は熱く、心が燃え上がるのを感じた……のに、どうにも頭は冷静だった。
……微かな予感、ともいうべきだろうか。
僕にはどうしてもこの言葉を告げる先輩が何かを覚悟しているかのような……そんな強い意志を感じた。
それはまるで自分の命の終わりを知っているかのような―――。
「あっ、そうだ! 今は無理かもしれないけど……あとで夏来くんの夢も聞かせてね!」
と、僕が施行をまとめるよりも早く先輩はそう言ってベッドからゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ検査の時間だから私も戻るね! ……またね!」
そう言い残して振り返った先輩の笑顔は病室の白さに勝るほどの輝きで、僕の思考を遮るように、脳裏に焼き付いて離れなかったーーー。
―――先輩が亡くなるまで、あと、三日。




