二日目
目を覚ますと、そこにはいつもと変わらぬ天井が広がっていた。
――薄暗い病室。
時折、頭上にある機器の発するわずかな電子音が静寂を縫い、まるで呼吸するかのように空気が脈打っている。
僕は目頭を指で軽く押さえ、眠気を拭いながらも手元にあるボタンを押すと、ベッドが静かに軋みながら角度を変え、上体が起き上がる。
ふと視線の先に見えた掛け時計は、午前六時を指していた。
ここでの生活を続けて思うことは、まるで年寄りの生活みたいだということだ。
治療のための精密機器が多く置かれていることからこの部屋には電波を発するテレビはおろか携帯電話ですら持ち込めないという、外の世界とは遮断された無菌の空間……の割に窓は付いているし開けても問題はないというのだから僕にはよくわからないけど……。
とはいえ連絡を取るような相手もいないし、特段ゲームにハマっているということもないから僕にとって大きな不便はないけれど……強いて言えば、情報を得るために読む新聞と、暇つぶしに読む本の影響で少し視力が下がるのは困るぐらいだろうか。
カーテンを開けることができない都合上、遠くを見ることができない僕の視力が下がるのはまぁ当然だろう。
僕はベッドの脇に置かれた杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
―――僕の一日は、遊び盛りの高校生にとっては酷くつまらないものだろう。
朝起きてから採尿を採り、そこから血圧や心拍数などを確認して、医師へ渡す用紙に記入していく。
そこから朝ごはんが運ばれてくるまでは基本的には自由時間だが、体を動かすことは以ての外なので再びベッドに腰掛けて本を読む。
……とまぁ、これが僕の基本的な一日の始まりなのだが、それでもその中にささやかな変化が差し込むこともある。
今日の変化は、手に取った一枚の新聞から始まった。
「……花火大会……?」
目を滑らせていた新聞の隅に、ふとそんな見出しを見つけた。
っと、その前にこの新聞について説明する必要があるのだが、実は僕が読むこの新聞は、世間に出回っているような正式な新聞ではない。
この病院が独自に作っている、小さな印刷物。
病棟内の催しや、注意事項、季節のコラムなどが載った、いわば連絡書のようなものだ。
聞けば、この新聞が生まれたのは今から四年前。
つまり、この病院にとって初めての白蝕症である美春先輩が外に出られないことを理由に作られた内部的な娯楽というわけだ。
そしてその連絡書である新聞には、『花火大会を開催する』と記載されているが……去年はこんなのはなかったはずだし……。
というか、こういう連絡が来るってことは―――。
と、まぁ僕の想定通り、朝だというのにも関わらず、今日も元気に病室のドアを開けて女性が中に入ってきた……が。
「やぁ夏来くん!! 新聞は見たかね!?」
「あぁ今見ましたけど……なんですこれ……っていうか、その恰好は一体……?」
僕の目の前に立っていたのは、病院着ではなく――艶やかな紺色の浴衣姿の先輩。
可愛い、という感想を抱くのは当然のことだったけれど、それでも冷静を装って僕は先輩の意図を汲んだ。
「あぁ、この花火大会ってもしかして美春先輩が企画したやつですか?」
「正っ解~!」
僕の問いに美春先輩は嬉しそうに頷くと、浴衣の袖を揺らしながら一歩こちらへと近づいてきた。
その足取りは相変わらず軽やかに見えたが、どこか慎重でもあった。
浴衣を着たことがないから僕にはよくわからないが、足元まで伸びた裾は非常に歩きにくいだろうことは容易に想像できる。
が、しかしそんなことなど一切気にしていない様子の先輩はいつものように僕のベッドに腰かけた。
「ねぇ、夏来くん。今日の夜、テラスで花火を打ち上げる予定なんだって。……どう? 一緒に見に行かない?」
まるで、昔から決まっていたことを伝えるかのように、先輩はごく自然に言った。
だからこそ、だろうか。
「……僕と一緒に行ってもいいんですか?」
自分の声が思ったよりも小さくて、言葉が空気に溶けてしまいそうだった。
先輩は当然のように僕と一緒に見ることを望んでくれているけれど、それってつまり花火大会を一緒に見てもいいと思ってくれているというわけで……。
けれど美春先輩はそんな僕の思惑を知ってか知らずか……。
何のためらいもなくはっきりと頷いた。
「もちろん! 夏来くんと見たかったんだから当然でしょ!」
―――そう言いながら、浴衣の裾を靡かせている先輩は。
顔が少しやせ細っていて、健康的とはとても言えないようなものだったけれど、僕にとっては誰よりも、なによりも輝いて見えた。
空調設備によって一定の涼しさが保たれたこの空間では、体温など上がるはずもないけれど、しかしこの時だけは僕の体は確かな熱を帯びていた。
そしてその熱は、僕の胸の奥にあった小さな火種を灯した。
「……はい。じゃあ、夜になったら……一緒に」
「うん。約束だよ!」
彼女はそう言って僕の小指にそっと自分の指を重ねてみせた。
先輩の指先は微かに冷たく、僕の熱が伝わってしまわないかが心配だったが、しかし先輩はそのまま可愛らしい、綺麗な花火が咲いたような明るい笑顔だけを浮かべていた―――。
◆
先輩が去ったその後、僕はいつものように検査を受けるために病室を出る。
廊下にはまだ朝の気配が残っていて、どこかしんと静まり返っていた。
けれどその静けさは、いつもとどこか違って感じられた。
まるでこの真っ白な世界に、ほんの少しだけ色が差しはじめたような、そんな感覚。
――と、気が付けばいつの間にか辿り着いていた採血室の椅子に僕は座り、今日の夜のことを考える。
花火大会。
これまでに何回かかつての友人と行ったことはあるけれど、異性と見るのはこれが初めて。
それも、僕が好きな美春先輩と見ることができるのならば……ほんの少しだけこの病気になって良かったと思えるかもしれない―――。
「―――はい、おしまいです! 佐倉さん、今日は痛がらなかったけど……もしかして何か考え事?」
「――っえ?」
と、看護師の声に、僕の意識が現実へ引き戻される。
確かに、いつもは細い針が腕に刺さる感覚や血を見るのが嫌で躊躇していた採血のことなんて微塵も意識になかった。
注射が苦手なはずの僕が、こんなふうに気もそぞろになっているなんて……自分でも驚いた。
でもそれは、僕が心の底から今夜の花火大会を待ち望んでいることを示しているようで、思わず自然と笑みがこぼれてしまう。
「……あぁ、別のこと考えてたら案外気にならないものですね」
「ふふ……それなら良かった。それじゃこの調子で次は――――」
―――それからいくつかにも渡る検査をいつもよりも早く終えて、僕は自分の病室に戻ってきた。
相も変わらずカーテンは閉ざされ、冷房の音が低く唸り、壁に映る影の濃淡の一つも変わらない場所。
けれど、今日だけは少し雰囲気が違った。
先輩が僕と一緒に見たいと言ってくれた。
そして一緒に見るために企画してくれた。
たった一言、立ったひとつの出来事なのに。それだけで心の奥底が叫んでしまうほどに舞い上がっているのがわかる。
そういえば先輩、夜にも浴衣で来るのだろうか。
さっきの先輩の浴衣姿……可愛いって言葉にできなかったし……。
よし、次こそはちゃんと言おう……!
そう思いながら、時間まで暇をつぶすために僕はベッドに腰かけて、いつも読んでいる本を手に取る。
……けれど。
普段ならば本のページを開いてすぐに目が滑ってしまうのに。
物語に没入して集中できてしまうのに。
今日に限っては、何度同じ段落を読んでも、まったく頭に入らなかった。
どんなふうに花火が上がるのだろうか。
煙の匂いはどんなだっただろうか。
……そして、光が僕たちの見えない空を照らすとき、先輩はどんな顔をするのだろうか。
僕は逸る気持ちを抑えながらも、何度も、何度も本のページを行ったり来たりしていた―――。
◆
気が付けば長い自由時間も終わり、カーテンの隙間の光が淡いオレンジ色に染まり始めた。
ふと耳をすませば、病院の廊下でどこかざわついた空気が流れ始め、病室、という変わり映えのしない空間に新しい風が入り込む。
僕もまた食事を終え、検温と投薬が済んだあと、いつもの杖を手にして病室の外へ出て歩みを進めた。
すれ違う看護師たちはどこか忙しなく動いていて、けれど普段とは違ってそれぞれの顔には笑顔が浮かんでいた。
そんな普段見えない人らの表情に心が温かくなっていると、ふと後ろから声をかけられた。
「あっ佐倉! 今日花火見に行くんでしょ? 一緒に行かない?」
振り向くとそこには、僕と同じくこの病院に入院している少年――古川裕太くんが少年らしいワクワクに満ちた表情でこちらを見ていた。
……けれど。
「あ~、ごめんね! 今日は先約があってさ……」
僕より五つ下の少年、裕太くんの願いを断るのは少し苦しくもあったけれど。
でも、裕太くんはその言葉に意味深な笑みを浮かべた。
「あ~! あれでしょ! 美春ねーちゃんとでーとだ!!! でーと!!」
「デッ……! い、いや、別に向こうはそんなんじゃ……」
「ん? 向こうは??? じゃあ佐倉はでーとだと思ってるんだ~! うわぁやらし~!」
「―――っ!!」
五歳も離れている少年に揶揄われるとは思いもしなかったけれど、しかし僕は何も言い返すことができなかった。
しいて言えば、やらしいなんて言葉どこで覚えたんだ?ぐらいだけど、そんな軽口を叩けるほど今の僕には余裕はない。
「ふ~ん、じゃっ楽しんでね! 僕はさっちゃんとこ行ってくる~!」
そしてそれを五歳下の少年に察せられることのなんて恥ずかしさ。
……とはいえ、裕太くんはあの年にしてはかなり大人びているだろうからまぁいいだろう。うん。
―――しばらく歩くと、病院の中だというのに、遠く離れていても聞こえる喧騒が耳に入った。
ナースステーションを抜け、少し先の広い空間。
そこには手作りの提灯がいくつも吊るされて揺れていた。
赤や青の光がぼんやりと滲み、蛍のように灯る。
その喧騒の中心では、誰かが持ち寄ったラジカセが、どこか懐かしい祭囃子を流していた。
窓は締め切られ、そこには空調の乾いた空気が流れているというのに、確かな夏の匂いがした。
まるでお祭りのようなその空間に、僕も思わず足が吸い込まれていくと見慣れた顔が見えた。
その人はいつもの白衣ではなく、祭の法被を羽織って、その穏やかな眼差しで周囲を見守っていた。
「あら、ようやく来たんですね佐倉さん。体調はどうですか?」
「あ、宮本さん。そうですね、いつもより……少しだけ心拍が早い気がします」
僕の担当医の宮本さん。
けれどその表情はいつもは冷静沈着な彼女ではなく、口元に柔らかな笑みを浮かべていた。
それはまるで、医師という仮面を脱ぎ、一人の人間としてこの時間を楽しんでいるようだった。
「ふふ、それは正常ですね。……ただ、いつもと同じく、夜空だからといって外に出てはいけませんからね?」
「わかってます。……それにしても、すごいですねこれ……忙しい中、本当にありがとうございます」
そうして僕が深く頭を下げると、宮本さんはいつもの厳格な雰囲気を一切感じさせず、朗らかに言った。
「いえいえ……これは私たちにとっても楽しい行事で……それに、私のほうこそ……佐倉さんには感謝してもしきれないんですよ?」
「……え、それってどういう……」
普段とは違う宮本さんは静かに近くの椅子に座り、僕もそれに倣ってゆっくりと隣に座った。
「……これは二人だけの秘密にしておいてね?」
そう枕詞に置いた宮本さんは、静かに、どこか遠くを見るように、少しだけ目を伏せながら話し始めた。
「……実は、佐倉さんが来る前まではね、あの子……朝陽さんはあんなに明るい女の子じゃなかったの……」
「え、そうなんですか?」
それは意外だった。僕と初めて会った時から明るい以外の感想を抱いたことはなかったから。
「えぇ。それに……実は何度も自殺未遂を繰り返すこともあったわ……」
――――っ!
衝撃だった。
いや、当然美春先輩はそんな過去を話すことはないから僕が知る由もないのだが、あの底抜けに明るく、自暴自棄になっていた僕を救ってくれた彼女がそんなことを、という衝撃が、僕の拍動を早める。
「でもね? 彼女と同じ病を持つ貴方の存在が、彼女にとって救いになったんだと思う……。言葉にするのは難しいけれど、人って、自分と似た痛みを持つ誰かがいるだけで、少しだけ心が軽くなるものだから……」
「……」
宮本さんの言葉は、確かに僕の心に突き刺さる。
それは、何より僕が一番知っている感情だから。
「……それから、彼女は貴方に会うために前以上にリハビリに取り組むようになって、明るく、前向きな性格にもなっていってね? ……それが、本当に嬉しかった。彼女の底抜けの明るさはこっちまで元気がもらえるから、医者や看護師っていう辛い仕事でも癒されて……私まで頑張ろうって気持ちになるの。……だから、彼女に明るさをくれた貴方には……いえ、私だけじゃなくて、この病院の誰もが貴方に感謝しているのよ」
宮本さんの言葉に、僕はただ黙って聞いていた。
―――僕は、何も知らなかった。
この一年間の中で、先輩はそういった弱みは絶対に見せない人だった。
……いや、たまに不安そうな顔をすることはあったけれども、それでも僕に助けを求めることはなく、自分一人で抱え込む人だった。
……過去の先輩を救うことは、今の僕にはできない。
けれど、もし、今の僕が先輩にとっての希望や、心の拠り所であるのならば……。
僕には友人も家族もいない。
そんな僕にとって生きる希望である先輩が今、生きていてくれているのなら―――。
「……最初はどうしてこんな病気が僕なんだと思ったこともありましたけど……今では、僕がこの病気になって、ここに来れてよかったと思います。……それに、美春先輩だけじゃなくて、僕らと真摯に向き合ってくれる宮本さんや看護師の方々と出会えて、僕は本当に良かった。本当に、ありがとうございます」
そう言って僕は再び痛む体に無理をしながらも深いお辞儀を宮本さんに捧げた。
――病とは、ただの不幸じゃない。
それが繋ぐ縁も確かにあるのだと僕は知った。
辛いことも、苦しいこともあるかもしれないけれど、そこで出会う縁は、きっと何物にも代えがたい宝物になるのだから。
――と、僕が顔を伏せていると、ぽた、ぽた、と床に何かの水滴が垂れるようなものが見え、ふと隣を見ると、法被の袖口を握りしめたまま、宮本さんが目元に当てていた。
……勝手に強い人だと思っていた。
泣かない人だと思っていた。
けれど今、その肩は小さく震えていて、瞳は子どものように赤く潤んでいた。
「……な、なんで泣くんですか。やめてくださいよ……」
そんな風にいう僕に対して宮本さんは急いで目元を拭って、微笑んだ。
「泣いてないよ。……ただ、ちょっとだけ風が沁みただけさ」
そんなことを言いながら、彼女は視線を祭りの中心に向けた。
風なんて吹いていない、という野暮なことはさておき、しかしまぁ今日は意外な人の意外な一面を見れたから良しとしよう。
「……それじゃ、楽しんでね、夏来くん。いい思い出になるように、ね」
そう言い残し、宮本さんは再び祭りの中心へと入っていった。
そこには先ほどまでの弱みを見せていた彼女はすでに消え、提灯に照らされたいつもの彼女がいた。
◆
やがて夜が深まる。
微かに見える空は墨を流したように静かで、月さえも雲の陰に隠れていた。
そんな中、僕はテラスがよく見える室内に置かれた長椅子に腰を下ろして、美春先輩の到着を待っていた。
高まる心臓の音を抑えるように、僕は時折、周囲へ視線を向けた。
いつ、先輩が現れても先に見つけられるように。
……けれど、美春先輩の姿はなかなか現れなかった。
その時、胸の奥にざわりとした不安が広がった。
それはただの焦りではなく、もっと深くて、どこか既視感のような、言葉にできないざわめきだった。
何かあったのだろうか。……体調を崩したのかもしれない。
それとも、無理をしてしまったのだろうか。
そんな思考が、自然と彼女の病室のある棟へと向かっていた。
テラスから離れ、病棟へと足を向ける。
廊下の照明が静かに灯っていて、足音と、強く突く杖の音がやけに響いた。
この時間はエレベーターが使えないので、痛む体で一段ずつ階段を上る。
わずかに足元を照らす明かりを頼りに、一歩、また一歩と階段を上がって、ようやく美春先輩がいるという病棟までたどり着いた。
上がった息を抑えながらも、何度も杖を突いてようやく美春先輩の病室の前まで来て、僕はふと足を止めた。
急いでドアを閉じたのか、ドアは半分ほど開いていた。
静かな声が中から漏れ聞こえてくる。
「……すみません……だ、だいじょうぶです……あ、あと少し……もうすぐ……」
その苦し気な声に、僕は思わず先ほどの疲れや苦しみを忘れて息を呑んだ。
――美春先輩の声。
恐る恐るドアの隙間から中を覗くと―――そこには、浴衣を身にまとい、看護師に支えられながら、ゆっくりと体を起こそうとしている美春先輩の姿があった。
微かに見えるその表情は苦しげで、額にはうっすらと汗が滲んでいるようにも見える。
けれど、それでも目元には、ここからでもわかるほどの強い決意が宿っていた。
「……約束っ……したから……っ……!」
杖に頼らず、手すりを頼りに立ち上がろうとするその姿は、あまりにも小さく、あまりにも大きく見えた。
浮かれすぎていた、といえばそれまでだが、この夏、この夜、この一瞬のために、彼女がどれほどの思いで、決意をもって準備をしていたのかを――僕はこのとき理解した。
ドアの前に立ち尽くす僕の手が、無意識のうちに、杖を握る力を強めて、鈍い音が鳴る。
―――そして僕は扉の陰から一歩引いて……その場を離れた。
彼女は、僕が見ていないところで、文字通り血の滲むような努力をしてここに来ようとしている。
だから僕は知らなかったふりをえする。
見たことも、聞いたこともなかったことにして。
――そして。
先輩が浴衣姿でテラスに現れたのは、それから数分後のことだった。
すでに花火は始まり、テラスでは何人かの子供たちが楽し気に花火を楽しんでいる。
美春先輩は僕の隣に座って、そっと笑った。
「ねぇ夏来くん? どう? 楽しい?」
――先の苦しさを一切感じさせないいつもの美春先輩の表情に、僕は思わず涙が出そうになった。
……けれど、それを必死に抑え、確かに答える。
「はい、すごく。……先輩と見る花火は、とても幸せです。……それにその……浴衣……可愛くて……よく似合ってると思います……」
「え~? そう? ……ふふっ、それはよかった、ありがとう、夏来くんにそう言ってもらえて本当に嬉しいよ。……あ~あ、本当は私たちも花火をもって遊びたいんだけどね~!」
美春先輩はそう言いながら外を見つめた。
綺麗な瞳には、鮮やかな光が疎らに輝いている。
その光が、明るさが。普段とは違った空気感が。
きっと背中を押してくれたんだろう。
……僕は、美春先輩の手を握り、目を見つめた。
「っえ、夏来、くん……?」
わずかに揺れた美春先輩の瞳を、しかし一切僕は逸らさずに言う。
「……来年、僕が歩けるようになったらまたここで一緒に花火大会をしましょう。来年だけじゃなくて、再来年も、その先も―――」
その時、美春先輩が用意したのだろうか、それとも病院側からの計らいか。
甲高い音とともに、白い一筋の雲が暗闇に線を描き―――。
「―――僕が、先輩の隣に必ずいますので」
僕の言葉と同時に、病院を震わす音と光が、僕らを包み込んだ。
その光景に、僕は急に訪れた恥ずかしさからか、美春先輩から視線を外した。
――――外してしまった。
視界の端に映った、花火の光に照らされた先輩の影が―――まるで音もなく落ちる蝉のように、ぐらりと揺れ―――。
「……っ、先輩……? ――美春先輩っ!?」
僕が顔を向けた時には、先輩は鈍い音とともに床に倒れこんでいた。
浴衣の袖が床に広がり、先輩の輝いていた瞳は瞼によって隠されている。
その光景に、僕は自身の弱い身体のことなど気にせず思わず彼女を支え、声を張り上げた。
筋肉を失っている僕の体は、叫ぶだけでも激痛が走った。
けれど、今はそんなことはどうだっていい。
「先輩っ!? っ、宮本先生っ――! 看護師さん!! 誰か助けてください!! お願いしますっ!!! 誰かっ!!!!!!!?」
僕自身が発する声だけが脳内に響き渡り、花火の音はもはや耳にすら届かなかった。
様々な色で照らされた先輩の顔を慌てふためくしかできない僕のもとに、いつの間にか誰かが駆け寄り、白衣の人影が視界を遮った。
「お願いします……っ、美春先輩をっ、助けてください……っ!!」
その時、大きな花火が夜空に咲いていた。
空が焼けるように鮮やかであればあるほど、その下で倒れた先輩の姿だけがこの世界の温度から切り離されているように感じられる。
花火の残光が空に消えると、すべてが急に静まり返った。
それはまるで、この夜に、本当に終わりが訪れたかのように――。
―――先輩が亡くなるまで、あと、五日。




