盛夏
―――僕は夏が嫌いだ。
八月の始まり。
息をするたびに肺の奥まで灼けつくような熱が入り込み、皮膚はじっとりと湿る。
熱気溢れる太陽が容赦なく空から降り注ぎながら、蝉の声だけが空気を裂くように響いていた。
"五月蠅い"という漢字があるならば、今だけは"八月蠅い"とでも書き換えてもいいんじゃないだろうか。
そんなふうに思ってしまうほどに、盛夏という季節には僕にとっての快適さも情緒も何ひとつ存在しない。
ふと窓の外に目をやると、眩いばかりの陽射しが世界を照らし、視界の先に映る白く照り返すコンクリートの地面は陽炎に揺れていた。
まるで空間そのものが灼熱によって歪み、現実と幻の境目が曖昧になっているようなそれは、見るだけでもこちらを否応にも暑く感じさせる。
幾らか着込めばマシになる冬と違って夏は対処に限界があるし、出来ることならば外に出たくはない。
そう思いながら、僕は黙ってカーテンを閉めようとして―――。
「あ〜夏来くんカーテン開けてる〜! いっけないんだ〜!」
鋭い声が、背中越しに飛んできた。
しかし僕は振り向かずとも、それが誰の声かは分かっていた。
「美春先輩こそ、こんなとこまで来ちゃっていいんですか? また怒られますよ?」
僕がそう言うや、彼女―――僕の二歳年上の女性、朝陽美春先輩は少し嫌そうな顔をしながらも僕の近くまで歩いてきた。
「うへぇ……それは言わないでよ~……ていうかあの人が厳しすぎるんだよ! 私だってもうこんなに元気なのにさ!」
そう口にする彼女の声はその名前の通り、春の陽気のように暖かくて、朝日のように明るくて、まるでこっちまで思わず笑顔になってしまうようなそんな声。
けれども僕はその問いに対して冷静に返した。
「はいはい、でも安静にしておくに越したことはないでしょ?」
「え~~~、夏来くんは真面目だねぇ~? あっ、彼女いたことないでしょ?」
「……それ、何の関係があるんですか?」
「あっ、図星だ!」
――と、僕らのそんな不毛なやり取りが暫く続いた頃、お互いに盛り上がって……というより、美晴先輩の声が大きすぎるせいで部屋の外にまで聞こえてしまったのだろう。
部屋の外から誰かが走ってくるような音が聞こえたかと思えば、そのまま勢いよく僕の部屋が開かれ、鬼のような形相をした女の人が、ズシズシという音が聞こえてきそうなほどに重い足取りで僕らの前に現れた。
「こらーーーっ!!! 朝陽さん、ダメでしょ!? 勝手に人の病室に入ったら! それに佐倉さんもカーテンは開けないでくださいね!?」
彼女はそう言うやすぐに僕の窓のカーテンを閉めて僕らに向き直った。
「わっ、ご、ごめんなさーいっ! でもでも、ほら、見てくださいよ! 夏来くんがあんまりにも不健康そうな顔してるから、ちょっとでも日光浴びたらいいかなって思って〜……!」
「それは私たちが判断することですっ! それに朝陽さんも無理して来て、また倒れたらどうするんですか!」
そう言って叱る白衣を着た女性―——僕の担当医である、宮本静香さんの怒声が病室の壁に反響して、鈍い音を伴って僕の頭に突き刺さった。
宮本さんの眉がつり上がっているのを、美春先輩は申し訳ないといわんばかりの顔で受け止めつつも、どこか申し訳なさよりも楽しそうな空気すら漂わせている。
怒られてるという自覚はあるとは思うけど、それが響くかどうかは別問題のようだ。
とはいえ美春先輩は宮本さんの言葉に反論しようにも、彼女の言葉はすべて正しいものであるために何も言えずに押し留まってしまう。
まぁ、それは仕方のないことだろう。
なぜなら、美春先輩も僕も、病院のベッドの上で日々を過ごしている、"病人"なのだから。
――白蝕症。
僕と美春先輩が罹ったこの病は、世界でも数百万人に一人発症するかしないかという希少な症状であるために、世間には聞き覚えのない病気だろう。
発症初期から筋肉の張りや骨の強度が低下し始め、時間の経過とともに筋組織が脆弱化し、筋肉量が著しく減少していくことにより骨が浮き出てくる病。
肉体が徐々に崩壊し、白い骨が見えるようになることに準えて、"白く蝕まれる病"と名付けられたそれは、希少な症例でありながらも難治性の新疾患とされている。
そして、この病が難治性ということからわかる通り、現代の医学ではまだ未解明の要素が多く、唯一判明している事と言えば、これを治療できる確実な方法がないという事実だけだ。
進行を遅らせる研究はされているが、根本的な回復を可能にする手段はいまだ見つかっていない。
難治性――とは聞こえがいいだけの、不治の病。
それが、僕と美春先輩に課せられた、運命という名の死刑宣告。
―――僕がこの病院に来たのは、今から一年前のこと。
この病の予兆を最初に感じたのは、ちょうど高校二年の春だった。
僅かに腕を振るだけでも骨の軋むような違和感があり、手の力がうまく入らなくないことが多く、体育の授業を見学する日が増え、小学生から続けていたサッカーも辞め、やがて階段を登るだけで膝が震えるようになっていった。
当然、いくつかの総合病院で検査を行った。
けれど、血液検査、MRI、筋電図、骨密度測定など、多くの専門医に診られるたびに僕が覚えているのは、まるで”面白い実験材料が手に入った”と言わんばかりの歪んだ医師の顔だった。
とはいえ何の知識も持たず、体の自由も日々効かなくなっていく僕にできることは、ただ指示に従うのみで、そこからは精密検査という名の研究を続けられたことで、この病名がわかるまでに数ヶ月かかった。
ある時、ようやく告げられた"白蝕症"という名前を初めて聞いたとき、僕はその語感のあまりの静けさに、まるで詩の一節でも聞かされたかのような錯覚を覚えたのを覚えている。
けれど、現実はそんな美しいものではなかった。
まずこの診断が下されたときに言われた言葉は、ただ一つだった。
残念ながら、現状でこの病に対する治療法はない、ということ。
要するに、僕の人生は、この時、終わりを迎えたのだ。
そこから先は……放心状態だったこともあってあまり思い出したくもないが、病院での研究と銘打って試験的な薬を投与されること数十回。転院すること数回。
あちこちで検査され、調べられ、断られ、また送られ……。
……そして、僕が静かに壊れていく自分の身体を抱えながら、何のために生きているのかすら分からなくなりかけていた頃――山奥にある、この病院に出会った。
話を聞くところによると、白蝕症に特化した研究が進んでいる数少ない施設らしいとのことだったが、正直この時の僕にとってはただ一つ。
―――何でもいいから楽にしてくれ、ということだけだった。
……どこに行っても同じような言葉、同じような対応。
いくら名医と称される人物ですら、自身の範疇の外であればただの人。
治療対象というよりも研究対象として扱われてきた僕は、この世界のすべてに絶望していたが……。
しかし、僕の予想に反して、ここに通ってからたったの数日で次第に身体が快復に向かっていった。
動き回ることはできないものの、自分で起き上がり、ご飯も食べることができ、杖さえあればなんとか自分でトイレに行くこともできるようになった。
あまりの成果に、僕のことを担当してくれている医師にこの病院に対して色々聞いてみて、僕はこの病院が優れている理由として、一つの真相にたどり着いた。
それが、僕の二歳年上の女性―——朝陽 美春先輩の存在だった。
―――この病院に僕と同じ、白蝕症の女の子が先にいたことで、ここはどの病院よりも研究が進んでいるということらしかった。
この時、僕と同じ病に、僕よりもずっと早くから向き合い、ここで生きてきた彼女がいると知れたことは、僕にとってどれほどの希望であったかはもはや言うまでもないだろう。
……僕がこの病院にやって来たとき、彼女はすでに五年という歳月を、この白く塗りつぶされた病棟で過ごしているのだという。
この病院でたった数日過ごした僕でさえ何もないこの場所を空虚だと感じていたから、きっと五年もいる彼女にとっては季節の移ろいも、年の改まる瞬間さえも、どこか遠い世界の出来事のようだったのかもしれないと、ぼんやりと思っていた。
漂白されたシーツの上で、蛍光灯の白光に照らされながら、静かに過ごすしかないこの日常。
まったく、白く蝕まれるとはよく言ったものだ。
―――それから病院の廊下を、ようやく僕が杖ありきで歩き慣れた頃だった。
バタンッ、という音ともに唐突に開けられた病室のドアの向こうに、見覚えのない若い女性が笑顔でこちらを見つめてきた。
新しく配属された看護師だろうかと僕が思うよりも早く、彼女はこう言った。
「えっと、佐倉くん? でいいのかな。え~、君は私のおかげで助かったのだから、今から君は私の後輩です! いいね?」
初めは、変な人だと思った。
けれど、ベタかもしれないけれど。
その言葉を、僕は今でも昨日のことのように覚えている。
そこからほどなく会話でこの人が僕の先輩にあたる朝陽 美春さんだということを知り、なんというか……想像していたよりも元気な人だなと思った。
それ以来、彼女はときどき自分の病室を抜け出しては、僕の部屋に顔を出すようになった。
しかしそれは次第に日課のようになり、今では彼女がここにいない日のほうが珍しいくらい。
もちろん、静かに過ごしたいときもある。
投薬の影響で眠気に負けそうな日もあるし、一人でいたいときだってある。
けれど、それでも彼女の声が、姿が、どれほど僕の心を救ってくれたか、僕自身が一番よく知っている。
多分、同じ病を抱える彼女だからこそ、僕の痛みを言葉にせずとも感じ取ってくれるのだろう。
その静かな共感に、僕は幾度も救われてきた。
彼女がかつて一人でこの白い世界に立ち向かってきたからこそ、今こうして、僕の孤独を自分のことのように包み込もうとしてくれていることに、僕は本当に感謝をしている。
……医師の話によれば、彼女はこの病と向き合いながら、二年の歳月をかけて、杖なしで歩けるようになったらしい。
ならば僕も、来年の今頃には、自分の足で彼女の病室に向かい、これまでのお礼を、初めて出会ったあの日のように元気に返せるのかもしれない。
そんな風に思えるくらいには、僕の日々は穏やかで、そして、かけがえのないものになっていた。
「はあ……。とにかく二人とも、これ以上何かあったら本当に病室から出入り禁止で完全遮断部屋にしますからね。分かりましたね?」
「は〜い……」
「……はい」
「ほら、じゃあ朝陽さんはついてきなさい!」
「む~~~……じゃ、またね! 夏来くん!」
手を振る美春先輩と、彼女を連れた宮本さんが部屋を出ていくと、さっきまでの騒がしさが嘘のように病室は静まり返る。
締め切った空間に漂うエアコンの匂いを、やけに強く感じながらも僕はベッドに横たわり、天井をぼんやりと見つめた。
―――日々、充実していたことに違和感がなかったわけじゃない。
いくら治療で快方に向かっていたとしても、どの医師も、看護師も、決してこの病が治るとは言っていないのだから。
この病に余命という概念は存在しない。
それは、人によって筋肉量や脂肪などが違うことが要因であるが、よくよく考えればわかることだったろうに、僕は目を背けてしまっていた。
たった数か月で日々運動をしていた男の僕でさえ筋肉量が著しく落ちる中で、たたでさえ華奢な体形に加えて運動もできない彼女が五年もの月日を過ごせていたことが奇跡に近いということを。
――僕は、夏が嫌いだ。
毎朝、目を覚ますたびにそう思う。
外の空は眩しすぎて、蝉の声はいつも耳に刺さってくる。
照り返す白いコンクリートと、陽炎に揺れる景色。
そのすべてが―――。
―――彼女のいない世界を強調してくるようで、たまらなく嫌いなのだ。
彼女は、美春先輩はこの日から一週間後の夜。
静かにこの世から去った。
彼女が消えたその日も、何気ない夏だった。
彼女がいたときからは想像ができないほど、真昼の病院は不自然なほど静かで、誰もが日常を装っていたが、確かに空気の奥で何かが違った。
彼女が亡くなったとき、看護師たちは何も言わなかった。
医師たちも淡々とした顔で、誰にも語らず、記録だけを残していった。
まるで最初から、何もなかったかのように。
……僕ももう子供じゃないし、彼ら彼女らが、内に思うところがありつつも、責任を優先し、仕事を遂行していることには敬意を払っている。
……だけど、それはどうにも僕には耐えがたい現実だった。
……だから、どうしても語らなければならないと思った。
この一週間のことを。
誰にも知られることなく、これからも知られることのないだろう彼女の、たった一つの命の物語を。
病室の天井の下で過ごした、春の陽のような女の子の最後の時間を。
これは、朝陽美春という僕にとってかけがえのない存在がこの世に確かに生きていた証を、みんなにも覚えていてほしいという僕の記録。
そして、これは、彼女が夏の中で去っていった、
――たった七日間の、静かな物語の始まりだ。