悪役令嬢であれ、と神は言った
金銀の燭台が整然と並ぶ王城の大広間は、まるで裁きの場を模すような空気に満たされていた。
赤い絨毯が敷かれた床の先、玉座の横に並び立つのは第二王子、リュシアン・クロイツ。
その隣には、純白のローブを纏い、何も知らぬ無垢を演じる一人の少女――セラフィーナ。
「……クラリス・エインズ。貴女との婚約を、ここに解消する」
その言葉は、まるで予め用意された台詞のようだった。
静まり返った空間に、ただリュシアンの声だけが響く。
彼女に対する視線は冷たく、好奇の目を向けられていた。
集まった貴族たちは口々に噂をささやく。だが、声を上げる者はいない。
これは王家が定めた“儀式”であり、神託によって導かれた正しき決断だと、誰もが知っていたからだ。
クラリスは、ゆっくりと一歩踏み出した。
「……であればお受けいたします。殿下」
その声音には、涙も怒りもなかった。
端整な顔立ちはわずかも崩れず、ただ真っ直ぐにリュシアンを見据えている。
――それが、余計に彼の癇に障ったのだろう。
「貴女の傲慢と冷酷は、長らく我が王家を悩ませてきた。だがセラフィーナは違う。彼女は神の声を受け、この国を癒やすために現れたのだ!」
リュシアンの声には、自らの正義に酔うような熱が宿っていた。
セラフィーナはその隣で、わざとらしい戸惑いの笑みを浮かべ、軽く頷く。
神託により選ばれし聖女。
それが、王宮における彼女の“役割”だった。
クラリスは、一切の感情を見せずに一礼する。
「では、これにて婚約は解消されましたこと、口頭で確認いたしました。――ご機嫌よう、殿下。聖女様」
背後に冷笑が起こる。
誰かが「ようやく国が救われる」と呟いた。
クラリスは、それらを振り返ることなく踵を返す。
光を背に、その姿は静かに遠ざかっていく。
それが、この国で“悪役令嬢”と神託が下った女の、最後の舞台挨拶だった。
◇
クラリス゠エインズワースが神の声を聞いたのは、まだ十歳の頃のことだった。
貴族の子女として生まれ、何一つ不自由なく育てられた少女。学問に優れ、剣も舞もこなし、礼儀作法にも瑕疵はない。周囲は彼女を将来の王妃候補と目し、本人もまた、それを当然と受け入れていた。その日までは。
――汝、悪役令嬢であれ。
最初は夢だと思った。けれど、同じ声は翌夜にも響いた。
眠りの底から届くような、冷たい、けれど抗えぬ響き。
声は、少女の心に直接届くようにして語りかけてきた。
――汝、名を汚されようとも恐れるな。汝こそが、ただ一人、我が言葉を受けるに値する者である。
この国において、神託を受ける者は常に一人。
それが、国法と信仰の礎であった。
選ばれし者は“聖女”とされ、その声に従って国が治められる。
だが、クラリスが授かった神の言葉は、誰もが期待する“聖女”ではなく、“悪役令嬢”だったのだ。
つまり、善き令嬢ではなく、悪を演じる者となる。それが、彼女に課された使命だった。
当時のクラリスは、戸惑っていた。
なぜ自分がその役を担わねばならぬのか。
なぜ人々に憎まれることが“正義”であるのか。
理解できなかった。怖かった。
それでも確かに、その声は真実だった。
冷たく、絶対的で、逃れようのない神命だった。
彼女は泣いた。夜毎、眠れずに震えた。
しかし、ある夜、鏡の中の自分を見つめながら、静かに誓ったのだ。
ならば私は、最後まで演じきってみせよう。
誰にも気づかれずとも、たった一人でも、この国を守る盾になる――と。
◇
あれから数日後、王都は混乱の中にあった。
始まりは、一通の密告書だった。
差出人不明、だがその内容は精緻で、具体的な証拠と日時が記されていた。
告発されたのは、“聖女”セラフィーナが関与する、王宮財務局の不正流用。
さらに、軍備品の横流し、辺境への干渉工作、そして――神託の偽造。
最初は誰も信じなかった。
神に選ばれし“聖女”が、そのようなことをするはずがないと。
だが、少しずつ積み重ねられていた矛盾と綻びが、確かな裏付けとなって浮かび上がってきた。
そして、あの日。
王城に招集された臨時評議会の場に、クラリスは現れた。
その姿は飾り気もなく、ただ一人の貴族令嬢として静かに歩を進める。
けれど、その足取りには揺るがぬ確信があった。
彼女がこの日のために、いかに多くを捨て、いかに長く“役”を演じ続けてきたかを、その佇まいだけが雄弁に物語っていた。
「これまでに積み重ねてきたすべては、国のため。私が“悪”を背負ってまで守ろうとしたものは、ここにあります」
席がざわめき、空気が揺れた。
誰かが息を呑み、誰かが目を伏せた。
あれほど“断罪されるべき者”と蔑まれていたクラリスが、今や、国の歪みを正す者として立っている。
「神託の受け手は、この国に一人のみ。偽りの言葉で国を導こうとした者に、相応の報いが下ること。それこそが、神が私に課した最後の務めです」
その言葉に、セラフィーナの顔が凍りついた。
リュシアンは何かを言いかけたが、声にならない。
クラリスはひとつ、息を吐くと――
静かに右手の手袋を外した。
「ないと思っていたでしょう。けれど、これがその証です」
彼女が袖をまくったその手の甲には、淡く金色に揺れる光の印が浮かんでいた。
それは神より選ばれし者にのみ刻まれる、“神印”と呼ばれるもの。
炎でも魔でも焼けず、どの呪術でも模倣できぬ聖なる紋。
会場に息を呑む音が響いた。
誰かが膝をつき、誰かが口元を押さえ、誰かがただ震えていた。
選ばれし者は、騒がずとも示される。
偽りの正義が崩れたその瞬間、勝敗は既に決していた。
評議会は、数時間に及ぶ審議の末、決定を下した。
セラフィーナは偽聖女の罪により、神聖冒涜および国家欺瞞の咎で処刑が宣告された。
また、リュシアン・クロイツは共謀の責を問われ、王位継承権を剥奪、王宮より追放となった。
だが、クラリスには何の称賛も、褒賞も与えられなかった。
彼女自身が、それを望まなかったからである。
「報いなど不要です。私はただ――神命を果たしただけです」
その言葉に、誰も反論できなかった。
それから数日後、クラリスは王宮を去った。
祝福も歓声もなかった。ただ、彼女の背に、淡い朝の光が差していた。
門を出る直前、彼女は一度だけ立ち止まり、振り返る。
そこには、“悪役令嬢”と嘲られ、誰からも疎まれた者の姿はなかった。
『真実の愛に気付いたと言われてしまったのですが』の連載版を毎日投稿しています。もし興味のある方いたら是非。