冬森の小さな厨房、無口な料理人と村娘の恋物語
昼下がりの宿屋は、仕込みの時間だった。
大鍋の中で、とろとろと玉ねぎが飴色に変わっていく。私は木べらを回しながら、ふわっと立ち上がる香りに鼻をくすぐられ、思わず顔をほころばせた。
「今日のスープは、絶対おいしくなるよ」
ひとり言に誰も返事をくれるわけもなく、返ってくるのは、薪のはぜる音と、外から聞こえる村のざわめき。うちの宿屋は村の中央広場の近くにあって、窓を開ければ市の準備をしている商人たちの声が聞こえてくる。
だけどその日の昼は、ちょっと違っていた。
玄関の戸が突然ガラガラと音を立てて開き、ひょろりと背の高い男がよろめくように入ってきた。
「…お、おい、ちょっと、大丈夫?」
私は慌てて鍋を離れ、布巾で手を拭きながら近寄る。男は旅装束だったが、泥だらけで、襟元にはほつれもある。何より顔が真っ青だった。
「す、すみません。宿を…探していて…」
そしてそのまま、ドサッと玄関先に崩れ落ちた。
慌てて水を汲み、濡れ布で彼の額を拭く。手首を取ると、脈はしっかり打っていた。私は胸を撫で下ろす。
「旅人さん、相当疲れてるんだね。うち、部屋空いてるから、しばらく休んでいくといいよ」
それから大急ぎでスープの火を弱め、薬草を刻んで、熱を下げるためのハーブティーを煎れた。
男のちにカイルと名乗るその人は、その後、丸一日眠り続けた。
「…あの、助けていただいて、ありがとうございます」
翌日、カイルは私の作った朝食パンとゆで卵、それに昨晩のスープの残りを見て、まるで王宮の晩餐でも出されたかのような顔をした。
「いや、そんな大げさな…普通の朝ごはんだよ?」
「いえ、こんなに…あたたかい食事、久しぶりで…。スープが、とても、やさしい味です」
スプーンを持つ手が、少し震えている。その姿に、私は何も聞かずに「おかわりあるよ」とだけ言った。
彼はこの村からずっと遠い王都から来たという。元は侍従だったが、何かの理由で追われるようにしてこの辺境の村まで流れてきたらしい。
「何か」は聞かなかった。聞かなくてもいいと思った。
カイルは几帳面な性格で、宿賃を払う代わりに、掃除や荷運びを手伝ってくれるようになった。だが、問題が一つだけあった。
彼が、まったく料理ができないことだ。
「ミーナさん、申し訳ありません。鍋を焦がしてしまいました…」
「あああ、昨日仕込んでた干しキノコが…!」
包丁を持てば手を切り、鍋を火にかければ黒く焦がし、パンを焼けば炭のよう。まるで料理に呪われているのかと心配になるレベルだった。
「ふふ…でも、味見係には向いてるかもね」
「味見係、ですか?」
「うん。だって、あなたが『おいしい』って言ってくれると、本当に自信になるんだよ」
そう言うと、カイルはぽかんとした顔をしたあと、頬をほんのり赤く染めて、小さくうなずいた。
「では…これからも、味見係として、勤めさせていただけますか?」
「もちろん! 代わりに料理は絶対にさせないけどね!」
二人の間に、くすりと笑い声が弾んだ。
その日から、カイルは「料理には手を出さない」という固い誓いを立て、代わりに私の作った料理に毎日まじめにコメントをくれるようになった。
「ミーナさん、このキャベツの煮込み、ほんのり甘くて、芯の部分までとろけるようです」
「それは、昨日の残り火でじっくり煮たんだよ。芯まで火が通るには、あれくらいの時間が必要でさ」
「なるほど…。まるで、ゆっくりと心を開く人のようですね」
「え、なにそれ、詩人?」
なんて言いながら、私はスープをかき混ぜる手を止めなかったけれど、心の中は少しだけ、ざわざわと熱を帯びた。
旅の途中で倒れていた彼を拾っただけ最初は、ただそれだけの関係だったはずなのに。
毎日、目を合わせるたびに、その笑顔を見るたびに、少しずつ、気持ちが変わっていくのが自分でも分かった。
これは、もしかしたら恋なのかもしれない。
だけど、彼にはまだ秘密がある。王都から逃げてきた「理由」を、私はまだ聞いていない。
スープのように、ゆっくりと温めながら、私はその日が来るのを待つことにした。
市場の朝は、騒がしい。
売り声、笑い声、荷車のきしむ音。木箱のぶつかる音。粉の舞う匂いに混じって、焼きたてのパン、干し肉、山羊乳のチーズ…さまざまな香りが、風に乗って漂ってくる。
「すごい…本当に、こんなににぎやかな場所が、この村に…」
カイルは目を見開きながら、戸惑うように人波を眺めていた。
「毎月の終わりには、こんなふうに市が立つんだよ。村だけじゃなく、近隣の集落や、旅の商人たちも来るの。だから品揃えもなかなかでしょ?」
私は小籠を肩にかけて、まっすぐ香辛料屋の方へと向かう。今日はスープ用の胡椒が欲しかったのだ。数日前から、常連の猟師たちに「体が温まる料理を」とリクエストされていた。
「…あれ? カイル?」
後ろを振り返ると、彼が屋台に足を止め、何かに見入っていた。
「どうかした?」
「この花…王都の庭園に咲いていた、香り草に似ていて。…懐かしくなってしまいました」
小さな紫の花。香草ティーに使われるミリナ草だった。たしかに少し高いが、料理にも使える万能選手だ。
「これも買っていこうか? お茶にしてもいいし、焼き菓子の香りづけにも使えるしね」
「…ありがとうございます。まさか、こんな場所で出会えるとは思いませんでした」
花を見る彼の横顔は、どこか遠いところを見ているようだった。王都の庭園。整えられた花壇と噴水、冷たい石の階段。そのどれも、私には縁のないものだ。
でも今、彼はこの村にいる。私の作る料理を「おいしい」と言ってくれる。それで、いい。
「さ、次は肉屋さん! 今日は鹿肉が手に入るかも!」
私は気を取り直し、彼の手を引いた。
そのときだった。
彼の手が、ぴくりと震えたのがわかった。だけど、離れなかった。
むしろ、そっと握り返してきた。
「…」
言葉はなかったけれど、それで十分だった。
市場から帰ると、私はすぐに台所へ飛び込んだ。買ってきた胡椒と乾燥ミリナ草を並べ、何を作るか、頭の中で順序を組み立てる。
「今日はね、ちょっと凝ったスープにしようと思うの。鹿肉を使って、ミリナ草の香りを立てて、胡椒でピリッと締める。仕上げにハチミツ少しだけ加えて、まろやかさを出してみようかな」
「…そんなにたくさんの味が混ざって、大丈夫なんですか?」
「ふふっ、大丈夫、大丈夫。味の重なりって、意外と喧嘩しないんだよ? 人間と同じ。合わないように見えても、実は意外と相性良かったりするの」
その言葉に、カイルが少しだけ目を見開いた。
「あ…」
「ん?」
「…いえ。ミーナさんって、料理を通して人を見てるんですね」
「なにそれ。なんか恥ずかしいんだけど」
笑いながら私は鍋を火にかけた。
まずは鹿肉をしっかり焼き色がつくまで炒める。香ばしい香りが立ったら、玉ねぎと人参を加えて炒め、湯を注いでじっくり煮込む。その間に、ミリナ草を手でちぎり、小皿にとっておく。最後に胡椒とハチミツで味を整え、火を止める直前に香草を入れるのがコツだ。
「味見、お願いしてもいい?」
「はい!」
スプーンを手にしたカイルが、真剣な顔で一口すくい、口に含む。数秒の沈黙私はその間、手が妙にそわそわしてしまうのを抑えきれなかった。
「…ああ、これは、温かい…というより、包まれるような味ですね」
「包まれる…?」
「はい。香草の香りが広がって、胡椒がその輪郭をはっきりさせて、最後にほんの少しだけ甘さが残る。それが、余韻になって…まるで、ずっと昔に読んだ詩のような味です」
「わ、わかったような、わからないような…」
でも、嬉しかった。
彼が、私の料理に込めた思いを、こんなふうに受け取ってくれるなんて。
「次はパンを焼こうかな。ハチミツ入りのやつ」
「ミーナさんが焼くなら、きっとそれも…」
彼はふと口を閉じた。そして、真剣な目で私を見た。
「ミーナさん。…この村に、もう少しだけ、滞在してもいいでしょうか?」
「え?」
「自分でも、何を探してるのかわからないけれど、少なくとも…今の僕にとって、ここは、少しだけ、帰りたくなる場所です」
胸の奥が、ほわっと温かくなる。まるで、今作ったスープのように。
「うん。いいよ。いつまででも、いていいよ。だって味見係がいないと、困っちゃうし」
「はい。味見係として、全力を尽くします」
彼が笑った。
その笑顔は、ほんの少し、王都の影を抜けていた。
秋の終わりは、茸の季節。
森に入った子どもたちが、籠いっぱいに収穫してきたというので、私は朝からその仕分けに追われていた。
「ミーナお姉ちゃん、この白いのって、食べられるやつ?」
「うん、それは白玉茸。焼くととろけるように柔らかくなるんだよ。バターと一緒に焼くと最高!」
「じゃあ、それ、三つちょうだい!」
「はいはい、三つね~。おまけに、今日だけシチューにも入れておくから、晩ごはん楽しみにしてて!」
そうやって子どもたちを送り出すと、厨房にはカイルがいた。いつものように、皿を拭いたり、釜戸の火加減を見たりけれど、その顔は、どこか曇っていた。
「どうかしたの? 朝からちょっと様子がおかしいよ」
「…ああ、いえ。少し、気になることがあって」
そう言って目線を向けた先には、昨日から宿に泊まっている客大柄な男が、窓際の席でビールを片手にくつろいでいた。
「彼…どこかで会ったような気がしてならないのです。だけど思い出せない。あの声も、背中も…記憶のどこかをくすぐるのに、はっきりとは思い出せないんです」
私はふと、昨夜の会話を思い出した。
「名乗ってたよ。ガリオスって名前で、王都の商人だって。品の良い服を着てるし、財布も重そうだった」
「…商人、ですか」
カイルの声に、わずかな棘が混じる。珍しいことだった。
「なんだか、ただの商人には見えませんね」
「気になるなら、話してみたら?」
「いえ、まだ。もう少し、様子を見てからにします」
そう言って、彼はまた作業に戻った。
夕暮れ時、厨房にふんわりと香ばしい香りが立ち込めていた。焼き茸の香り。白玉茸と木の子をバターで焼いて、最後に刻んだハーブを散らす。それだけのシンプルな料理だけど、香りが食欲をそそる。
「味見係、お願いしまーす!」
私はフライパンを持ってカイルの前に置くと、彼は真面目な顔で一つの茸を口に運ぶ。
「…うん、香りが素晴らしい。白玉茸のとろけるような舌触りと、ハーブの爽やかさがよく合っています」
「でしょ? 味の重ね方、大事だよね」
「はい。料理は…嘘をつかないですから」
そう呟いた時、厨房の扉がゆっくりと開いた。
「こんばんは。今夜も夕食をいただけるかね?」
入ってきたのは、あの“商人”ガリオスだった。
「もちろんです。今夜は焼き茸の盛り合わせと、鹿肉のスープをご用意しています。お好みで胡椒を加えてお召し上がりください」
「ふむ、いい香りだ。腕のいい料理人がいるようだな」
「どうぞ、こちらの席へ」
カイルが静かに案内する。だが、その背中は張り詰めていた。
「…相変わらず、よく働くな」
「え?」
「いや、似ている男を知っていてね。王都の城で、よく立ち働いていた侍従だった。…名前は、たしか、カイル」
空気が、一瞬で張り詰めた。
カイルの手が、ぴたりと止まる。
「あなたは」
「気づいたか。さすがだな。あれから、姿を消したと聞いていたが、こんなところにいるとはな」
「…どういうこと?」
私は思わず声を上げていた。
ガリオスが、ふっと笑った。
「俺は、王都の城で働いていた兵士だった。今は引退して、商売を始めている。こいつとは、少し縁があってね」
「…もう、王都には戻らない」
カイルの声は、低く、震えていた。
「わかっている。だが、あのまま消えたお前のことを、少しだけ気にしていたんだ。…安心したよ。生きていてくれて」
数秒の沈黙が流れた。
そのあと、カイルは静かに頭を下げた。
「…ありがとうございます」
ガリオスも、ふっと笑って席についた。そして、焼き茸の皿を見て、目を細めた。
「これは、うまそうだ」
「…今夜は、心を込めて作りましたので」
カイルの言葉に、私も思わず笑ってしまった。
きっと、この料理が、彼の心を少しずつほぐしてくれる。
焦らなくていい。ゆっくりでいい。料理のように、火を通して、時間をかけて、やわらかくなっていけば。
私は、厨房の灯の下、彼の横顔をそっと見守っていた。
冬の気配が、少しずつ近づいていた。
朝には霜が降り、森の葉は赤や金に染まっては、風にさらわれて消えていく。そんな日々の中、私は少しだけ、料理を変えた。
体を温めるスープを多めに、根菜をたっぷり使って、塩と香草でしっかり煮込む。朝のパンにはハチミツではなく、バターと少しの肉のペーストを塗って。
季節が変わるように、人の心も、少しずつ変わるのだと思う。
カイルが、変わった。
変わったといっても、大きくではない。朝の「おはよう」が少し柔らかくなったり、皿を洗いながら、冗談を言ったり。
ほんの少し。でも、それがとても嬉しかった。
ある日、彼がぽつりとこう言った。
「ミーナさん。俺…昔、王都の城で働いていたんです」
私は、彼の言葉を途中で遮らなかった。ただ黙って、鍋の中のスープをかき混ぜながら、耳だけを傾けた。
「侍従として、王の側で動いていました。でも、ある時…ある事件に巻き込まれて、大事な人を失って。それで…全部、嫌になってしまったんです。剣も、城も、王も。俺がいた場所すべてが、まるで嘘のように思えて…逃げるように、この村まで来ました」
そう語る彼の手は、スープの柄杓を握る手よりもずっと、震えていた。
「それでも、料理は嘘をつかないから。誰かのために作る。それが、少しずつ…俺の中の何かを、救ってくれている気がします」
私は、彼の肩にそっと手を置いた。
「なら、ここにいて。うちの厨房で、ずっと、鍋をかき回していて。私はその横で、野菜を刻むから」
言い終えたあと、自分でも顔が赤くなっているのがわかった。彼もきっと、そうだったと思う。
その夜の夕食は、鹿のローストにした。
狩人のキールさんが持ってきてくれた新鮮な鹿肉を、丸一日、塩と香草に漬け込んで、低温でじっくり焼き上げた。皮目はパリッと、肉はしっとりと。皿には、軽くソテーした根菜を添えて、赤葡萄の煮詰めソースを垂らす。
厨房の奥で、私は一皿分をこっそりと取り分けた。
それを、彼に手渡す。
「試食、お願いしていい?」
彼は、少し戸惑った顔で受け取ると、ナイフを入れた。
ナイフがすっと通る。その断面から、香草の香りが立ち上がる。
「…すごい。やわらかいのに、噛みごたえがある。香りも、塩加減もちょうどいい。赤葡萄の甘さが、肉の旨味を引き立てている」
「よかった…失敗してたら、厨房から逃げ出すところだったよ」
「そんなミーナさんは、想像できません」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
「ミーナさんの料理は、いつも誰かを幸せにしてます。俺も、そうやって料理を作れる人間になりたい。もし許されるなら…この村で、ずっと働かせてください」
その言葉に、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。
「…うん。歓迎するよ、カイル。ずっと、いて」
厨房の小さな窓から、外を見ると、粉雪が舞い始めていた。
初雪。
冬のはじまり。
でも、心は不思議と寒くなかった。むしろ、温かかった。
私は鍋の火を少し強くして、次のスープの準備を始めた。
この冬は、彼と一緒に、温かい料理をたくさん作ろう。
誰かの心を、そっと包むような味を。
そして、彼の心の奥に残る痛みも、少しずつ、溶かしていけたらそれはきっと、料理人としての、私の小さな使命だ。
香草の香りが、また一つ、厨房に満ちていった。
おしまい