第八十五話 僕たちは此処にいる
「で、何なんだ?」
「何が?」
「とぼけるな。あの無名について話そうとしてただろ」
放課後。場所はいつもの文芸部室。椅子に腰掛けながら杭瀬弥葉琉に問い質す。
嘉光こと無名は教室に私を迎えに来る事もなければ、部室で私を待っている事もなかった。授業が伸びている可能性も考えられるが、まあ深く知る気もない。分かり合わなくても人は生きられるのだ。
……いや、私とて学習してないわけでもないけどな。
「……どうしたの晴希? 私の方を見て?」
「いや、何でもない」
ただまあ、変に張り切るのもおかしいじゃないか。杭瀬との摩擦も、そんな事があったな程度に思っていればいいだろう。分かり合わなくてもいいなんていうさっきの主張も、いざって時には撤回してしまえばいい。それっぽい事を言っていればいいのだ。
「もしかして私に好意でもあるの?」
と、何故か頬を染めながら問う杭瀬。
「無い」
「良かった」
「ああ、私も良かったよ。よく分からんが」
「…………」
「…………」
沈黙。目と目が合う瞬間。
「……じゃあ私、本読んでるから」
「待てや」
その場を離れようとした杭瀬を引き留める。だからなんで頬染めるんだよ一々。
「など引き留め候か」
「どうして急に古語表現なんだ。というか本を振り上げるな。それは人を傷つけるためにあるものじゃない」
「そう、本は人と人を繋ぐもの、人を未来へと導くものなの……だからこそ、私は晴希と戦わなきゃならない。それが、私がここにいる意味」
「お前はどれだけ私を苛めたいんだ」
そもそも、何故こんなどうしようもないやり取りになったのかを考えてみる。そうだ、私が変なモノローグを入れてみて、杭瀬がそれに乗っかってきたのが問題なのだ。
「そんな事より内藤だ」
「内藤? 私よりあんな男の方が大事なの?」
「色々言いたい事があるが、それはない」
「許さない許さない許さない。今の私は阿修羅すら凌駕する存在だ」
「うっせえ。大体お前が話そうとしてきたんだろうが」
とまあ五月蠅いが、例によって本気でないことくらいはわかる。こいつは飽くまで私を弄るのが好きなだけなのだから。だから阿修羅よりこいつの方が私にとっては強敵だ。存在しないものなんて知るか。
とにかくシリアス路線に入る準備だってできている。急かすよう杭瀬に視線を送ると。
「じゃあ、言うけど」
と本題を切り出した。……やっとな。
「無名と晴希ってさ、なんか臭い約束してたよね」
「臭い言うな。自分でも分かってるから」
「一宮さんは本当にいい仕事したと思うわ。まさかあの臭い約束を録音して校内に流すなんて」
だから臭い言うな! もしかしてお前今後ずっと『臭い約束』で通してくつもりだな!?
更に杭瀬は、上を向いて胸に手を当てた状態で声を上げる。
「『ああっ、運命だの何だのをほざいておきながら、今になってこれだ! このような者にはどうしてくれようか! ああっ、こうしてくれよう!』」
「やめろ! どうもするな!」
まさか私の発言の大体を覚えているとは。どうして分かるんだ。……さてはあれだな? お前六十六話にまで戻って読み直したんだな? わざわざ調べやがって……くそ。
しかもなんでそんな宝塚みたいな口調なんだよ。私そんな喋り方してないぞ。……うん、一瞬迷ったけど、やっぱりしてないぞ。
「『ああっ、あと一度だ! あと一度! ああっ、お前のその独善的な宣言を今一度私は信じよう! 分かったか!』」
「だからやめろって言ってんだろ!」
大体そんなに『ああっ』とか言ってないだろ! いや本当に…………うん…………
……やっぱり言ってないだろ! いい加減にしろ!
「……まあ、変なコントはやめにしましょう」
「……その変なコントを今さっきまで一人でやってたのは誰だよ。まあ正論だが。いやこれ以上こっち方面に話を発展させなくていい」
変に詮索するのも時間が食われてよろしくない。作者も疲れるし読者も飽きる。適度にしておかないといい事がない。
「晴希は無名と臭い約束をしてたよね? もう一回無名の心が晴希から離れるような事があったら、晴希は無名の事を見捨てる、みたいな事」
「ああ。確かそうだったよな」
しかしもうお前の中で嘉光=無名は確定なのか。思うんだが、女子に人気云々の設定がこの場では完全に死んでるよな。
「まあ、もう手遅れかもな」
「もう無名はどうでもいいんだ」
「ああ。星ヶ丘の件が終わったら、それこそ本当におさらばだろうな」
「……文芸部からいなくなるの? あんな障害まで乗り越えたのに」
「そういう可能性もある。まあ先輩方は止めようとするだろうがな」
たとえ嘉光の記憶喪失諸々を乗り越えたにせよ、そこから得た物を活かしていかなければどうともならない。苦労をして手に入れたからと言って必ずしもそこに価値があるとは限らないのだ。
「ふうん……」
杭瀬はそれだけ言って、窓の方に顔を向けた。ううむ……。
こいつはどう思っているんだろう。
「なあ杭瀬」
「私だって止めるよ、晴希」
私が覚えた疑問を、杭瀬は先んじて答えた。
「晴希にいてほしいのは、別に無名だけじゃないよ。大曾根さんも一宮さんも、朱鷺羽もいてほしいって思ってるもの──私だって例外じゃない」
と続ける。なるほど、それはそうか。それに私自身も、文芸部を必要としていた面がある。
「それならまあ、その時にまた考えるさ」
星ヶ丘の件が終わって、それで私にとって文芸部がどうでもよくなったら、その時は私は文芸部をやめることになるだろう。
「あ、無名」
ふとそんな事を杭瀬が言った。見ると、嘉光が部室に入ってきた所だった。
「来てたんだな、あいつ」
一応気を遣い、声を抑えて話す事にする。
「存在感がないから気が付かなかった」
「……いや、設定的にお前の方がないけどな?」
片やクラスの中心の馬鹿、片やステルス能力を持った似非無口キャラだ。その差は歴然で、杭瀬が勝つにはもう一段階の進化過程を踏んだりしないと難しいくらいの溝だ。
「晴希はわかってない。クラスじゃ強い、なんてのはいわば噛ませキャラの設定なのよ」
初耳だな。それで誰にどんな風に噛ませにされるんだろうか。
「クラスの中心として存在感を放っていた内藤何某君は私たちのこの会話が終わって場面転換した時にはもう爆発四散し歴史から名を消そうとしているのよ。そうして私たちの新たな戦いが始まるの」
「えらく吹っ飛んだ方向のシリアス展開だな。あとどれだけ戦いたいんだお前は」
「人は戦い無しには語り合えないのよ」
「普通に言葉で語り合えよ」
お前それでも文芸部員か。いや寧ろこの文芸部だからこそか?
「大体あいつは殺しても死なないような──」
言いながら、嘉光の様子を伺ってみる。
すると、虚ろな目で拳を仰ぎ見て、その指の間に鉄の爪よろしくシャーペンを挟んでいた。そしてそのままウルヴァリンのように腕を交差させる。
「何やってんだよお前!?」
「ああ、晴希か……俺は大丈夫だけど、確かに日本の食料自給率は気になるよな」
「…………」
なるほど、全然大丈夫じゃないというか今まででトップクラスの危険状態だな。
「ああ、お前から声を掛けてくるってことは何だ? 髪でも切ったのか?」
「切ってない」
寧ろ伸ばそうとしてるくらいだ。
というか私から話しかけるのが珍しいのは単純に毎度毎度お前が真っ先に話しかけてくるからだろうに。
「お前は何奇怪な行動を取ってるんだ。ああ振ったなら普通は死んでるべきだろ」
「そうだな……俺達はいずれ無に還ってしまう。それでも何かを為そうと足掻くのは、生きてる限り仕方ない、言わば如何ともし難い人間のむず痒い本能なのかもな」
「…………」
罵倒も通じないか。それどころかなんか小難しい事まで言い始めている。馬鹿なのに。
「俺達は何のために生きてるんだろうな。目的もなく生まれて、狭い世界に居場所を奪い合って、でもそうやって得られた居場所に満足できるわけでもなくて、やがて他の居場所すらも手に入れたがって、一つ手に入れた時には元いた場所の事なんて忘れ去って行って、心は移ろい、全てを滅茶苦茶にしてやがて消えていくんだ。目の前に人参を垂らした馬のように、半永久的に安住の地に辿り着くことなんて出来ないのかな」
「杭瀬、ちょっとそれ一冊貸してくれ」
「うん」
「いや、もしかしたら逆なのかもしれない。俺達は何かに怯え、その何かから逃げながら生きてるんだ。まるでどこまでも追い駆けてくる自分の影から逃げるように。でも影は自分がいなくなりでもしない限り、絶対にいなくなったりしない。当たり前だ。生まれ出た時からずっと一心同体の存在なんだからな。そう考えると何も怖くない筈なのに、そんな存在から俺達は──」
「五月蠅い」
分厚い本の角を側頭部に一発、嘉光の耳障りな小話が途切れる。
「すまん杭瀬、私はとっとと帰るよ」
杭瀬に本を返し、荷物を纏めながらそう言っておく。
杭瀬は何も言わず、本を読む体勢に入っていた。私は片手で別れの挨拶を告げ、部室を出ていく。
溜息を溢しながら廊下を気持ち速く歩き、暫く進んでから立ち止まり。
「馬鹿野郎」
と吐き捨てた。