第八十二話 優しくあることを求め続けて、僕らは正しさを捨ててしまった
「……その結果が、あれだ」
昼休みの廊下にて。私はあの時の事を思い出し、溜息をついた。
「皮肉にも私は自らの持ってきた鞄で殴られ、そこで気を失った。自分で自分の墓穴を掘ってしまったわけだ。油断はしていなかったが、予期もしていなかったな」
しかし、大曽根さんはこれを果たして予知していたのだろうか? 真相は闇の中だ。どうせ本人に訊いても惚けられて終わる。混沌を愛するにも拘らずどこか冷静で、腹の底で考えている事が何なのかわからないというのは本当に厄介だ。
「……ねえ晴希」
「何だ杭瀬。文句があるなら言ってみろ」
「その話、もう何回も聞いたけど」
「……そうだったのか?」
いや、ぶっちゃけ覚えがないのだが。知らないうちに同じ文句を繰り返す、そんな幡野みたいな奴に私というやつは気付いたらなっていたのだろうか? それは嫌だな。
「まあ、真っ赤な嘘なんだけどね」
「おいじゃあ何だったんだよ今の無駄会話!」
「……尺稼ぎ?」
「…………」
閉口。苦しいってもんじゃない言い訳だぞそれ。
「けど実際、晴希は足踏みしすぎだと思う。色々と」
「……まあな」
少し困ったが、素直に頷いておく事にした。そんな事言われなくたって分かってる。
あれから星ヶ丘の心境にどんな変化があったのかなんてのはおおよそしか予想がつかないが、ともかく奴は態度を一変させ、白々しい他人行儀なキャラに変わってしまった。
やらなきゃならない、なんてのは分かってる。ただああやって星ヶ丘に拒絶されている今、何をどうすれば先に進めるのか分からないだけだ。
「本当に、ただ分からないだけなの?」
が、私の心を見透かしたかのように杭瀬が訊いてくる。
「やっぱり何も分からないって諦めるの? たったの一度はね除けられて、それだけでもうどうしようもないって決めつけるの?」
確かにそうだ。私があんな回想を綴ったのも、いかんともし難いこの状況を誤魔化すためのものとして受け取って構わない。だからと言って、杭瀬の言う事も正しくはないのだ。
「諦めちゃいないっての。私はだな――」
「私を救ってくれた晴希は、そんなのじゃなかった」
一切の逆説を遮るように杭瀬が言う。
「……そうか?」
そんな杭瀬の畳み掛けるような言葉に私は疑問を唱えた。
「大体あれは別に私が助けてやった訳じゃない。お前を追い詰めたのは私で、そんなお前を救ったのは他でもないお前自身だ」
「違う」
しかし杭瀬はそれをも否定する。
「だって晴希が私を追い詰めたように、私も晴希を追い詰めたんだから」
こいつが私にやった事か──ふむ。
「屋上の事か? 笑わせんな。あんなの私にとっちゃ屁の――」
河童、と言いかけた所で視界にお星様が見えた。思わず額を抑える。しかし何で六芒星なんだよ。厨二病か? 神城か?
「痛いじゃないか」
涙目で杭瀬を睨む。この私の額にデコピンをかますとはいい度胸だ。
「屁の、何だって?」
杭瀬がそう訊き返す。まだ目がチカチカしていてその表情は窺い知れない。
「くそ……まあいいが、じゃあ一体私はどうすりゃいいんだ?」
「真正面から行くの。そう──私の時みたいにね」
「えー」
「駄目……かな……?」
「ああ分かった! 分かったから構えた手をこっちに向けんな!」
気弱そうなセリフとは裏腹に、威力の強そうなデコピンの構えを取る杭瀬。どうやらこいつはこう見えて暴力で解決するのも苦手ではないらしい。新しく見せつけられた杭瀬の一面に私は辟易した。
……全く。
「分かった。私としては非常に億劫で不本意でやる価値も見出だせない不条理でならない事だが、お前がどうしてもと言うんだからちょっとばかり試しにやってやるよ」
物理的にも精神的にも痛む額を押さえながらそう答えた。こうなったら断る方が面倒だ。
「このツンデレめ」
「ツンデレじゃねえよ! とにかく、行ってくるからな!」
「うん」
笑顔で手を振る杭瀬。お前ってやつは……ああ、もういいや。
肩を落としつつ、私は星ヶ丘のいる教室へと向かった。
はい、余裕。
「今回も駄目だったよ」
「うん」
仕方なさそうに杭瀬は右手を閃かせた。すると、突如として視界がぶれた。そして同時に額に物凄い激痛を覚えた。
「ッ……いてええええええええ!」
「うん」
どうやらまた杭瀬はデコピンをかましてきたらしい。しかもさっきより初速が速い。
そして回復後。
「いてててて……あのなあ杭瀬」
まだ痛みの完全に引いたわけではない頭を抑え、杭瀬を睨み付けた。
「何?」
一方で杭瀬は素知らぬ顔だ。やはりこいつは無口キャラの皮を被った悪魔なのである。
「もういいや、それよりそろそろ授業の時間だ。教室に戻うおっ!」
「黙れ」
全力で持てるままの反射神経を持って首を捻ると、そこまで顔のあった場所をデコピンが通り過ぎる。目だ! 目を狙ってきやがった!
「黙れじゃねえよ! 殺す気か!?」
「働かないもの生きるべからず。晴希が何もしないから仕方ないじゃない」
今の晴希はカエルにもオケラにもアメンボにも劣るの、と杭瀬。冗談じゃない。
「私は日々面倒な連中を相手にするという仕事を請け負っているんだ。平日だけだが重労働なんだぞ。少しくらい金をくれたっていいはずだ」
と言って杭瀬の方を睨んでやるが、まるで他人事のように「そうなんだ、大変だね」とだけ返されてしまった。どうせ自分の事言われてるって分かってんだろうな。一度私との不和で見せた豆腐メンタルの杭瀬弥葉琉は一体どこに行ったというんだ。
「まあ、お金なんて出せないけど。でも出来れば続けてほしいかな、その仕事。飽くまで私の我が儘だけど」
そう言いながら僅かに微笑む杭瀬。え、何それ? もしかして告白なの? それにどうしてそんな事を恥ずかしげもなく言えるの?
「まあ前向きに検討しとくよ」
杭瀬の言葉的な奇襲に対しどう返そうか迷ったが、あえてこのように返しておく事にした。いわゆる「何も検討する気のない奴」の台詞であり、杭瀬もそれは十分分かっている事だろう。
「そう、じゃあ期待してる」
と、棒読みで杭瀬。
かくして私たちの間に、中身のスカスカな約束が成り立った。いや、果たしてそれさえも成り立ったと言えるのかは不明だが。
結局、私達は嘘の上に生きていて、そしてその嘘というのは一種のゆとりなのだ。一般的に物というのはただ硬さを求めるだけでは強い衝撃ですぐに欠けてしまうが、ある程度のゆとりをもってすれば衝撃にも柔軟に対応することができる。
それは感情や思想なんて言う概念的な事に対しても言えるわけで、故に世の中は正しいものだけが蔓延しているわけにはいかないのだ。いわば嘘は一つの必要悪──いや寧ろ必要善であるとすら言えるだろう。四角い頭を丸くしろ。さもなくば誰も救われやしない。あっという間に欠けて、砕けてしまう。
だからこそ甘えだっていい、本当に大事なのは優しさだ。人に優しくなんだ。
「さて、決着が付いた所で教室に戻るぞ」
「待って」
「……何だ」
「まだあの転校生に会いに行ってないじゃない」
「くそっ、覚えてたか」
まあ当然だろう。こいつなら「ここまでの展開を『読み直して』問題点を洗い出しました」なんていう馬鹿げた真似すらも朝飯前だろうからな。
「とはいえ晴希の言う通りでもう休み時間時間はないわ」
「ってかもう授業始まってるよな。どんだけサボってんだよ私」
このままじゃ自主休講する事になる。聞いた話だと、一度サボタージュというものを覚えた大学生は頻繁に出席日数に苦しむという。
それは嫌だなあとか、でも面倒だなあとか、でも出なきゃだめだよなあとか悩みながらも、私は廊下を歩き始めた。
「まあ五分遅刻ならまだいいか……」
「え? 十分じゃない?」
「……マジか?」
「うん、さっきので結構時間かかったじゃない」
そう言えばそうだ。さっきの杭瀬の重いデコピン──あれを受けてからの復活に私は結構な時間を要したのだ。文字にしてみれば単に「そして回復後」というだけの六文字に過ぎないのだが。
「どっちでもいい。とにかく戻るぞ」
「うん、でも晴希──」
「うん?」
後ろから聞こえる声に私は注意を向けて立ち止まる。
「気を付けてね。今日までの命だから」
「怖えよ!」
「ねえ晴希、ハーレム系の話でよく見るヘタレ主人公って毎回腹立ってこない?」
「だから死ねと!?」
「結局そういうヘタレは『告白できないと死ぬ』くらいの状況に追いやらないといつまで経ってもヘタレのままだもの」
「いやいやいやいや……」
「だからこそ、これは晴希に星ヶ丘さんを攻略して貰いたいっていう私のピュアピュアハートの表れなんだけど」
「お前まだそれ引っ張るのかよ」
どんだけ純粋な悪意なんだよ。お前以外に誰が望んでんだそれ。
「まあとりあえず、今日中に頼むから。じゃないと──」
そう言って杭瀬は私を追い抜き、その際に掌を振りかざした。その指は鮮やかに虚空を舞い、そこから振り下ろすようにその場の空間をぶった切った。そして、
「ね?」
と言いながら私の方を見る。
「お、おう……」
ゴクリと息を飲みながら、私は「確かにこれならどこのヘタレ主人公も従うしかないよな」等と納得した。