第八十一話 本当の君は何処に在る
というか私を取り巻く状況の悉くが分からない。そしてどうして朱鷺羽が未だに私の服の袖を掴んでいるのかも分からない。まあ恐らく星ヶ丘にレズだと判断された理由はそれなのだろうが。
……あれ? 何か忘れている気がする。少し引っかかるが、しっかりは思い出せない、どうももやもやとした状態だ。
「……まあ晴希はレズじゃなくてバイだけど」
「おい女好きってのは前提なのか」
が、たとえ私がそのように深く考えている間であっても杭瀬の呟きを見逃してやる気など毛頭ない。根も葉もない噂がいかに広まりやすいかくらいは承知しているので、悪い芽は積極的に潰さないといけない。
と、私の袖を掴んでいる力が強まった。
何かと思って朱鷺羽に目を向けると、それまで私の方を向いていたであろう顔を背けられてしまった。だがそれでいて袖を掴む力は弱まらず、それでいて何も言おうとしない。更にこちらが目を背けると、再びじっとりした視線を感じるのだ。何だ? トイレにでも行きたいのか? 勝手に行けばいいと思うよ。
いや、まあこいつの言わんとしている事は分かるのだ。ただそれにどう応えてやればいいのかというのが──
と、力が強まった。
「ああ分かったよ! 嫌いじゃない! 嫌いじゃないから、な!?」
私がそう言ってやるとようやく朱鷺羽は手を放してくれた。よしよし。
ちなみに嫌いじゃないというこの言葉、嘉光にも言っていた事を考えると嘉光と朱鷺羽が同レベルという見方もできてしまう。実際はどうかって? 勿論朱鷺羽の方が私の中での好感度は高い。
……ああ、そういえば何がおかしく思えたのか分かったぞ。いつもうざったい嘉光が出しゃばって来ないんだ。
であるからしてすごく快適である……と言いたい所だがまるでその穴を埋めるように星ヶ丘がいるんだよな。こういう時、いかにいつもうざったくてもあいつといるのががまだ安心できるって事が分かる。まあうざったいけど。
「……なあ、内藤はどうしたんだ?」
「嘉光なら最初からいるわよ」
それとなく杭瀬に聞いたつもりだったが、答えたのはなんと星ヶ丘だった。「ほら」と言いながら目線で指し示した先を見ると、そこには確かに嘉光がいた。
「……おう、晴希」
私と目が合うと、ようやくそんな挨拶をして来た。いつもは私から部室に来るまでもなく教室まで迎えにくるのだが。
「ああ、珍しく元気がないみたいだが相変わらず気持ち悪いな」
「心配と同時に罵倒だと!?」
「……ああすまん、つい心にもない本音がだな」
「おう、悪い……」
と頭を抱える嘉光。どうもらしくない気がする。まるで子供の頃凄く大きかった親の背中が大人になるととても小さく見えた、みたいな。心にもない本音にも突っ込んでこなかったし。ちなみに私の両親は最初から大した事なかったが。
「で、随分と仲が良さそうじゃないか、あの転校生様と」
「……ええっと、晴希さん……もしかして怒ってる?」
「怒ってない。私は元からこんな感じだ」
いや無いから。嫉妬とかしないから本気で。仮に嫉妬するにしてもあいつの見た目くらいだから。
「そう言われればそうか……確かにいつも不機嫌っぽい顔してるもんな」
何か納得されてしまった。こいつにどう感じ取られようが別にいいけど。そして、
「それで? あいつは何なんだ?」
と訊いてみた。まあ単なる好奇心で訊いてみただけなのだが、冷静に考えればここで引くべきだったのかもしれなかった。
まだ遅くはなくて、この時ならまだ無関係でいられたのかもしれなかったのだ。
「何って言われても……なあ?」
「何だよさっさと言えよ」
「……お前やっぱり──」
「怒ってない」
嘉光の質問を遮るようにすぐさま答える。逆にその気遣いに苛立ちそうなんだがもう。
──それに、おかしいのは明らかにお前の方だろうに。
「……晴希先輩」
「……何だ朱鷺羽、そして何故また袖を掴む」
「それは……それはともかく」
あ、誤魔化したぞこいつ。
「もしかしたら星ヶ丘先輩、内藤先輩の事が好きなんじゃないでしょうか……?」
瞬間、時が止まった。
ルナクロック。凍れる時間の秘法。ザ・ワールド。
私はまさかこの後輩が時間を操るという、大層な能力を所持しているとは思わなかった。恐ろしい物の片鱗を味わったぜ。
──なんて大層な話でもない、むしろ私からしてみれば「何言ってんだこいつ」みたいな一言ではあったくらいだが、
「なっ……!?」
等とあの星ヶ丘柊が動揺し、然る後に、
「まあ、そう思うのならそうなのかもしれないわね」
と開き直った。そっぽを向きながら。
そんな切り返しに朱鷺羽をはじめとして話を聞いていた連中は「えっ」と間の抜けたような声を出したが、私としては妥当な判断だと思う。
確かに嘉光なんかに好意を持っているなんて思われたくはないだろう。そんな勝手なイメージを押し付けられたくはない。とはいえ真っ向から否定すると私のようにツンデレ扱いされてしまう。そんな事故を避けるための最善の行動、それが華麗なるスルーだ。最初に動揺したのはまずかったが、うまく切り返したもんだなと感心する。
ああ、先ほどあいつは嘉光の事を下の名前で呼び捨てにしていたが、それはきっとあいつの事を下位の存在だと認識したからだろう。何せマゾだしな、嘉光。
とはいえこれで星ヶ丘の面子が保たれたかと言えば、決してそういうわけではないが。
というわけで。
「いや流石に無いだろう。こんな阿呆に惚れる事なんて」
私は助け舟を出してやった。確かに私だって嘉光とのフラグは回避したいが、だからと言って部外者の星ヶ丘に押し付ける気も毛頭ない。それが私の筋ってやつだ。
……にも拘らず、助けてやったはずの当人から睨まれているのは何故だろう。もしかして余計なお世話だったのだろうか。プライドの高い人間はつくづく面倒だ。
「だが同時にその高いプライドをへし折り服従させた時に何とも言い難い快楽を覚える──ね」
「余計な事を付け足すな杭瀬」
勿論そんな事を思った試しはない。プライドの高い人間を辱めたいと思いはするが、所詮思うだけの話だ。全く──
「私の心が浮かばれるのなんて内藤を虐げた時くらいのもんだ」
「ああ、好きな人に悪戯したくなるって言うあれですか」
「うるさいぞ上級モブ」
「微妙から上級モブ扱いですか……」
と上級モブ──またの名を菅原卜全がまるで私の真似をするように溜息をついていたが、ふと何か思いついたように口の端を吊り上げた。
「しかし秋津さんも中々隅に置けないですね」
「ああ?」
私がそう聞き返すと、その上級モブは「だってそうじゃないですか」と底の見えない微笑で言った。
「星ヶ丘さんをフォローすると見せかけて本当は自分と内藤さんの関係を守ろうとしているなんて」
「……ああ?」
「外面では反発してるのに、本当は内藤さんにもっと歩み寄ろうとしているなんてね。その不器用さ、僕は嫌いじゃないですよ」
「…………ああ?」
ちょっと何を言ってるのか分からない。え、何? お前何言ってんの? 何語なの?
「……晴希、晴希は返答のバリエーションがちょっと少ないと思うの」
「別にいいだろ、んな事」
杭瀬は何いらん心配をしてるんだ。
大体返答のバリエーションとかどうでもいいだろうに。前に咄嗟に「ああん?」とかいう実にチンピラ臭のする返事をしてしまった事もあるしな。それよりは幾分マシだ。
「ああ、そういえば」
「何だモブ原」
「また新しい呼び名が生まれましたね……それはそうと、秋津さんと内藤さんって付き合ってるんですよね?」
「は? 何だそれは?」
いや、本当はバリバリ知ってるけど。私からすれば全面的に否定してしまいたい所なのだが、設定的にはそうなっているらしい。意味が分からんが。
「まあやっぱり事実ですよね。秋津さんがこの部にいる理由だって内藤さんみたいなものですし、その逆も然りですし」
「もういいだろ菅原、お前には関係ない事だ」
私が本気の声音でそう言うと、菅原は「いいですよ」とあっさり引き下がった。
全く、冗談にも限度ってものがある。人には触れるべきでない部分もあるというのに。
──そう、たとえ何か星ヶ丘の敵意を私に向けさせなければならなかったとしてもだ。
「ねえ秋津、一体どういう事なの? 状況を説明して」
……ほら見ろ、早速星ヶ丘が食いついてきたぞ。
「お前には関係ない」
私はそう言って星ヶ丘を突き放した。確かにそっちからすれば気になる事なのかもしれないが、こっちからすればわざわざ答えてやる義理なんてないのだ。
なに、実際私がこの部にいるのなんてそれこそ単なる義理でしかないし。そしてその義理もあともう少し間違えれば切れてしまうくらいの関係だ。
だからもしこいつに関係があるとしても、それが何かしら特別な意味を持つ事なんてない。所詮知らなくてもいい下らない事だ。
……まあ、単にこっ恥ずかしいだけでそれを長々とした説明で理屈付けて誤魔化しているというのも少なからずあるのだが。
だが星ヶ丘は、
「いいから言いなさい。あたしが訊いてるのよ」
などと言ってきた。……勘弁してくれ。
「あのな、お前が訊いたから何なんだ。私がお前に全て話さなきゃならん義務なんてものはないし、なんなら奴に訊けばいい。例えば嘉光さんとやらとかな」
言い終わった後やってしまったか、なんて思ったがまあ別にいいだろう。どうせこいつが訊きたくて嘉光が話したい、というのなら私が何か言わなくても既に何か行動している事だ。
と、星ヶ丘は俯いて黙り込んだかと思うと、再び顔を上げた。その目には一種の敵意が見て取れる。何だ? やる気か? 私はやらないぞ?
「……帰るわ」
結局そう言って、星ヶ丘は部屋を出ていった。部室が暫く沈黙に包まれ、それからまた段々と騒がしさを取り戻していく。
……やれやれ。
こんな立ち去り方をして、あいつはこれからここに果たして来れるのだろうか。
「星ヶ丘先輩……」
朱鷺羽が心配げに呟いた。私としても少し心配ではあるが……それはあいつの問題だろうし、多分あいつなら大丈夫だろう。あの手の自尊心はあれくらいじゃ挫けない。
それよりも、だ。
「おい内藤」
再び嘉光の方に歩み寄り、私は声を掛けた。
「……何だ?」
「一体どういう事なんだ」
「晴希、怒っちゃ……いない、よな?」
「いや、残念ながら怒ってる」
とはいっても別に嫉妬なんかじゃない。そしてこいつが私に何も白状しようとしない事への苛立ちなんかでもない。
「こんなので良かったのか? なあ?」
お前、そんな情けない奴だったか? 気持ち悪いけどやる時くらいはやるのがお前じゃなかったのか?
それは私が勝手にそういうイメージを押し付けて勝手に失望してるだけかもしれない。でも、何か嫌なんだ。
「…………」
「ま、私には関係ないけどさ」
そう言って嘉光の席から離れる。そう、所詮はこいつの問題だ。こいつの持ってきた問題なんか知った事じゃないし、別にこいつに変な期待だって持ってやいなかった。そういう事なんだ。それが事実なんだ。
「話は終わったか、晴」
すると今度は大曽根さんが声を掛けてきた。
「何ですか?」
「いや、どうやらあのもう一人のツンデレ野郎がここに鞄を忘れちまったみたいでな。お前に届けてほしいわけだ」
「どうして私が」
「ごちゃごちゃうるせえ」
大曽根さんに反論の暇も与えず押し切られる。うん、知ってた。でも少しでも抗ってみようと思ったんだもの。
「全く、何かあったら責任取って下さいよ」
それでも私はせめてもの反抗としてそう言っておく。
「晴希! それってもしかして大曽根さんへの遠回しのプロポーズ――」
「ねえよ急に起き上がって喋んな馬鹿内藤!」
かくして私は星ヶ丘の鞄を手に取り廊下へ出た。
さて、面倒だしちゃっちゃと終わらせてくるか。