第七十九話 だけどいつかは別れるけど
という夢を見たんだ。
……いや、「そう思っていた時期が私にもありました」と言った方が正しいだろうか。
『転校生、来てるから』
「…………」
少し早めに部室に行った杭瀬から届いたメールの内容に、私は頭を抱えた。
結局火種は向こうからやってきたらしい。自らに掛かった呪いとも呼べる補正には、全くもって呆れるしかない。
──まあ、実はこれが次の日には逃げようとする星ヶ丘を追いかけるという真逆の構図になるわけだ。最もそんな事態をこの時の私は想定する事など出来なかったが。
「……さて、帰るか」
そんな私が逃げの道を選ぶのは必然だった。
だがこれはただの逃げではない。勇気の逃げ――そう、所謂尻尾を巻いて逃げるだけの勇気という奴だ。仮に八回回り込まれたら会心の一撃しか出せなくなるかもしれないが、それもそれでいいだろう。しかし何であのゲーム「めいれいさせろ」が無いんだよ。いやまあやった事ないんだけどさ。
「晴希先輩!」
等と私が心に勇気の炎を煌々と灯しつつも下駄箱に向かった時、そんな可愛らしい声と共に廊下側から朱鷺羽が駆けてきた。
「おい朱鷺羽、廊下は走るなよ」
「そんな事より晴希先輩!」
私の忠告をスルーして朱鷺羽はどこか焦ったように言った。む、そんな事とは何だ。私はいつも歩いてるぞ。主に体力不足が原因でだがな。
「どうした?」
まあ体力云々はどうでもいいだろう。私はそれだけ訊いておく。
「いえ、今日はちゃんと来いって参謀先輩が言ってたんです!」
深く息を吐き出した。くそ、それくらい読んでくるか……。
……ところで、「読んで」と「呼んで」が掛かって今のは巧いなと一瞬だけ思ったのは内緒だ。いや誰も巧い事言ってねえよ。
そしてこんな風に虚しく一人突っ込みをしてしまうのはきっと体調が悪いからだろう。健全な心は健全な体に宿るという。これは本当の事で、脆弱な私がこのようにひねくれてしまった事から考えても明らかだ。それでも廊下は走らないけど。ルールを遵守する私マジ謙虚。
「というわけで私は帰る。じゃあな、お前と過ごしたこの時間も結構楽しかったよ」
「そうですか。それじゃ…………晴希先輩」
「ああ。運命の交差路でまた逢おう」
そんな挨拶を交わして私達は別れ、それぞれの道を行く。さて、今日はさっさと家に帰って休息を取るとしよう。
完。
「……じゃなくて待って下さい晴希先輩!」
と言うなり後ろから捕まえられる。今さっき別れた筈の朱鷺羽だ。
「おいなんなんだ朱鷺羽! それぞれの道を行ったんじゃないのか!」
腰に抱きつかれ動揺しつつも抗議する。しかも顔擦り付けんな。犬かお前は。
「何ですかそれぞれの道って! いいから来てください! じゃないと──」
「そのまま抑えてて、みのり」
朱鷺羽が言い終わる前にそんな声が響き、廊下の向こう側からポニーテールをはためかせ守坂が走ってきた。ある種の殺気を纏った鋭い目をしている。やめろ! そんな目で私を見るな!
「待て待て待て! 何するつもりだお前ら!」
いや、大体分かってはいるのだが。
守坂は答えず、私の四メートル程度前方で体を横回転させながら跳び上がった。多分ゲームなら『カッ!』って必殺技カット出てる所だ。
「ああ分かったよ! ついて行きゃいいんだろついて行きゃあ!」
全身に身の危険を感じて目も開けていられなくなった私は手を上げて全力で叫んだ。
「そうですか」
恐る恐る目を開けると、守坂は止まっていた。その目にはもういつもの無愛想さしかなく、飛翔してからの回し蹴りを、私の顔から右十センチ程度でしっかりと止めている。その体勢キープしてられるってどんだけ鍛えてんだよお前。流石、実家が古武術道場は格が違う。
「すいません、晴希先輩……」
申し訳なさそうに謝る朱鷺羽。
「ああもう別にいいぞ。しかしなんでまたお前らが?」
仕方なくも部室へと歩き出しながら訊いてみる。私を見張るように守坂が真後ろについてきているが、こちらから何かしない限りは安全だろう。よって気にしない事にする。
朱鷺羽は私の横についてきているが、何故不安そうに私の袖を掴むんだろうか。こいつなりに逃がさないようにしてるのか。乙女すぎっぞ。
「ええっとですね……今日偶々来るのが早かったから部室で晴希先輩と今日は何しようかななんてずっと考えながら待ってたんですけど」
「そこに転校生がいたと?」
「はい」
まあそれは分かる。だが何故ここまでしてこいつらは私を部室に来させようとしたのだろうか。あとなんでそんなお前は思考回路が恋する乙女なのだろうか。いや事実恋する乙女なんだけどさ。
そんな事を考えていると、朱鷺羽は「ええっと……」と前置きしながら説明した。
「晴希先輩呼ばないと私が碌な目に合わないって……」
そう言いながらちらっと守坂の方を見る朱鷺羽。何故だか苦笑しているみたいだが、まあこいつにもこいつの立場があるから良しとしよう。
しかし朱鷺羽がね……なるほど。
この純粋無垢な後輩が脅かされたとあらば、真っ先に動くのは間違いなく守坂だ。そもそもあいつは朱鷺羽の味方であって私の味方じゃないからな。先輩方に歯向かうか、それが出来ないなら文字通り力づくでも私を連れて行こうとするだろう。
そしてそれを避けるために朱鷺羽は先に私を見つけて連れて行こうとしたと。
なるほど、清々しいくらいに外道なやり方だ。とても真似して学ぶべき先輩方とは思えない。よし積極的に学んでいこう。
「なんかすいません……」
「あー、別にいいぞ朱鷺羽。お前は何も悪くない」
寧ろこっちが感謝したいくらいだ。もし守坂に全力で蹴られたらなんて想像したくもない。きっとガード貫通でオーバーキルするレベルだろう。
「あはは……椎ちゃんもそこまではやらないと思いますけどね」
「嘘だろ?」
後ろを向いて守坂に確認する。だってあれ途中で止めたけど風とか半端なかったぞ? 多分あれ少しでも掠ってたらかっこいい感じに頬から血が流れてたぞ?
すると守坂は私の目を見つつ、何の後ろめたさも感じさせず答えた。
「まず顔面への一発は囮としてわざと外し、怯んだ所で胴体に軽い一発を四、五発叩き込むつもりでしたが──」
「なあ朱鷺羽、あの後輩が怖いんだ!」
怖くない方の後輩にそう訴える。親友のためとはいえ先輩にそこまで容赦のない攻撃を浴びせていくビジョンを脳内に描いている、そんな一女子高生──ああ、とんでもないな。
「椎ちゃん、晴希先輩にはもうちょっと優しくしてほしいな……」
「手加減はしてたつもりだけど……」
「いや手加減とかそういう話じゃなくて……」
朱鷺羽がそう訴えている。なんかもう本当、文芸部の良心だとしみじみ思う。
……これでレズでなきゃなあ。
そんな風に感じながら私達は部室へと向かった。