第七十五話 苦悩。苦悩。強いられた黒歴史。
「晴希先輩おはようございます! あと杭瀬先輩も……ですよね?」
と朱鷺羽は挨拶し、守坂は無言で頭を下げた。
放課後なんだからおはようって時間でもないだろうなどとは当然思ったが、それは華麗にスルーし、とりあえずは挨拶を返しておく。
「……ああ」
「うん」
ちなみに今の台詞だが私は前者で、後者はというと勿論杭瀬だ。何? その相槌がお前の中でのブームなの?
ついでに今の杭瀬についてだが、朱鷺羽にも一応は認識できるらしい。ただ、今の台詞でも微妙に引っかかった通りで、多少分かりづらいとは言っていた。一体どういう事やら分からないので、一度朱鷺羽ビジョンで見てみたいものだと思っている。
そして守坂はどうやら気力を出せば私と同様、何故か普通に認識できるらしいが、あいつとの共通点なんて少しばかり胸が慎ましいって事くらいしか思い付かない。まあそんな事を別に口に出す事はないし、わざわざ言いたいわけでもないが。
という事実を見ていると、この杭瀬の固有スキルにも案外穴があるように感じられる。しかし杭瀬はそんな状況を重々承知しておきながら別に案ずる事もなかったから、別に気にかけることもないのだろうか?……ま、杭瀬がいいならもうそれに任せてしまおう。
駄目なら後で尻拭いくらいには付き合ってやるさ。別に全部放り投げてあいつに任せたわけじゃない。私だってこの辺りはちゃんと学習できている。
「それにしても、やっぱり来てますね」
私のすぐ横に座り、星ヶ丘の方をちらっと見ながら呟く朱鷺羽。その表情からは若干複雑な様子が見て取れた──ような気がするが、正直分からん。まあ人の腹の内など気づかないなら気づかないままの方がいいのだと、昨日の朱鷺羽を思い出し、改めて私はそう感じたのだった。
「……来てるって、時代が?」
「何の時代だよ」
そしてその反対側からまた妙な事を言ってくる杭瀬に私は突っ込んだ。するとキョトンとした後にまた答える。
「何って、私の時代に決まってるじゃない」
「決まってんのかよ」
そういえばお前がこの話のメインヒロインだってさんざ聞かされたもんだな。最初聞いた時は意味が分からなかったものだが、今もやっぱり分からないのは仕方ないと思う。
「まあお前の時代が来てるのは分かった」
と言うや、机の上に謎の黒い液体の入ったカップが置かれたのに気が付いた。周りを見渡してみると、犯人と思われる後輩男子の姿が目に入った。男子にしては少し長いと思われる、首の後ろにかかる程度の黒髪で、常に不敵な笑みを湛えている。
そんなアイツの名前は菅原卜全、まあ一言で言うとよくわからん奴だ。また「特技は料理だ」と豪語しており、時たまこのように謎の賄いをしてくれる。そしてそんな菅原を私は憧れと親しみを込め、心の中で『微妙さにおいては他の追随を許さない』と評価していたりする。
……さて。
私は椅子から立ち上がり、置かれたそれをおもむろに持ち上げ、菅原の調理していたらしい所にそっと戻してやった。
「おや、調子が悪いんですか秋津さん」
「今まで私が調子いいの見たことがあったか?」
あったとしてもそれは嘉光が不幸になった時とか、嘉光が蹴り飛ばされた時くらいのものだろう。基本的に私は調子が悪いキャラなのだ。
だがしかし菅原は迷う素振りも見せず「ありますよ」と言い切った。
「……ふざけんな」
「……は?」
言っておくが、突然罵るような言葉を浴びせたのは私ではなく、普段絶対そんな事を言いそうにない菅原の方だった。それも笑顔だ。笑顔のままそんな事を言っている。そうか、なんとなくそうかもしれないと思ってはいたがやっぱり実際笑顔で怒られてもあんまり怖くはないのな。寧ろちょっとキモ──
「お前言ったよな? 私がどこにいようが必ず助け出してみせるって。必ず傍にいるって。言ったよな?」
「いや、だから何を言っているのやら──」
……と言いかけた私の頭の中でアラート音が鳴った。そして頭の中にとある映像が流れ込んでくる。走馬灯? 違う。それは別に次々と移り変わっていくんじゃなくて、飽くまでワンシーンを保ったままである。
屋上。謝る嘉光。二人。何故か体の何箇所かが疼いているらしい嘉光。叫ぶ私。気持ち悪い嘉光。気持ち悪い嘉光。気持ち悪い嘉光──
そんな情報が一気に私の頭の中に、まるで襲い掛かるかのように次々と入り込んでくる。
「あと一度だ。あと一度、お前のその独善的な──」
「やめろ! もうやめてくれ!」
必死に、ガチに私は訴えた。
「いいですとも!」
するとあっさりと引き下がってくれた。横から「菅原君凄いね……」とか「なるほど、そういうやり方も……」とかいう声が聞こえてきた。朱鷺羽はともかく、杭瀬は参考にするような口振りをやめて欲しいのだが。
「まあ、こうして見ると秋津さん結構調子いい時あるじゃないですか」
「……そうだな。少なくとも今この時点では全く芳しいとは言えないが」
「という訳でこの謎の黒い液体を飲みましょう。元気になりますよ」
「自分で謎って言うなよ」
こちらとしては最初から思ってたが、本人が言うともう駄目だろう。あとという訳って何だ。
「いや、僕なりの商法ですよ。見た所今の秋津さんは調子が良さそうに見えませんから」
「お前のせいでな。寧ろ色々と下がりそうだ。SAN値とか色々」
「僕のそれを差し引いてもですよ。大方……でしょう?」
気付かれないように一瞬だけ星ヶ丘の方を見て菅原は言った。
「当然だ」
そんな根本的なストレスに気付いた所で別段鋭くもなく、寧ろこの程度の事に気付かないのは文芸部としてどうかと思う。まあ嘉光は気持ち悪いだけに留まらず馬鹿でもあるから、当事者でなければ絶対気付いてなかっただろうが。
「僕でよければ相談に乗りますよ」
「お前は嘘っぱちしか言わないって前に朱鷺羽が言ってたぞ」
「……ガチですか?」
「ああ、ガチだ。おい朱鷺羽!」
百聞は一見に如かず。早速朱鷺羽の名を呼んだ。するとそれまで話を聞いていたらしい朱鷺羽はまくしたてた。
「はいそうです! 前に何回も絡んできて、それでなんか晴希先輩が脇役だって──」
「菅原……」
「はい?」
それでもやはり笑顔を崩さない、そんな菅原に私ははっきりと言ってやった。全く、このよくわからん後輩め……。
「……ナイスだった菅原」
「喜んで頂けたようで何よりです」
「ほら、だから言ったじゃん!……って、あれ?」
そして一人置いてけぼりにされた朱鷺羽が戸惑っていたので説明してやる事にする。嘉光みたいな奴なら放置しても構わないだろうが、朱鷺羽のような可愛い後輩をそうしておく趣味は私にはない。
「そうだな、それなら分かりやすく、図で示すとしよう」
勿論この部屋に星ヶ丘がいることも忘れてはいない。見るとあいつは今もまだ嘉光の足を何気なく踏みつけ続けていた。嘉光はさすがに痛そうな顔をしていたが、星ヶ丘の方は案外楽しそうだった。解るよその気持ち。
鞄からプリントを一枚取り出し、そこに胸ポケットから出したシャープペンで図を描いていく。左側には「内藤」、でもって右側には「秋津」と名前を書く。
「字下手なんですね秋津さん」
「晴希はいつもこうだから困るの。きっと心が綺麗じゃないから……」
「うっさいお前ら、余計なお世話だ」
菅原と杭瀬が余計な事を言ってきた。お前ら息合ってるな。別に示し合わせたとかいうわけでもないんだろ……くそっ。
「そんな事ないです! 晴希先輩の心は汚れてなんかいません! 字は関係ないです!」
などと反論する朱鷺羽だが、こっちはひどく心が痛んだ。だってまあ、思い返してみると心の中でいろいろ罵倒してたりするしな……。まあ今更変える気もないが。
そしてふと気になって守坂の方も見てみたが……。
『…………』
守坂は、菅原を睨んでいた。何となく理由は分かるが。大方自分がいない間に親友の杭瀬が弄られたのが気に食わなかったのだろう。怖いので今は触れないようにしておく。
さて引き続き書き加えていく。まず「内藤」から「秋津」に矢印を引き、その傍に「好意」と書く。本当はこの前に「半端でない」等といった単語が入るのだがそれは些か恥ずかしいし、何より気持ち悪い。よって今回は省略。
そして今度は「秋津」から「内藤」へと十分スペースが取れるような矢印を引き、その周りに「嫌悪」「気持ち悪い」「馬鹿」「存在意義がわからない」等と書き連ねていく。周りが「うわあ……」とドン引きしているが、これが事実なので仕方がない。先ほど私の心が綺麗だと宣言した朱鷺羽にも、この処遇は甘んじて受け入れて貰うとしよう。多少の犠牲は仕方ない。人生とは茨の道だ。
何もない所から「内藤」に矢印を引き、そこに「主人公」と書く。同じように「秋津」には「ヒロイン」と書き加える。
「まあざっとこんなもんだな」
ついでに「主人公」と「ヒロイン」の間に両矢印を引き、「まあここは入れ替わる事もあるが」とも説明を加えておく。
「いや待ってその理屈はおかしい」
「杭瀬以外で誰か質問はあるか」
あいつが何を言ってくるかは明白だったので杭瀬は無視する事にする。と、杭瀬は「くっ……」とわざとらしく唸った。ええ、まあ「ヒロイン」という言葉を投げた時点で貴女の反応は予測できてましたから。
手を挙げたのは菅原だった。自信満々に、地面に対して垂直に伸びている。何故か挙げていない左手はポケットに突っ込んでいる。
「………………どうぞ」
やむを得ず、私は当てた。
「今すごく悩んでましたよね。『やむを得ず』って感じで。漫画に当て嵌めるとおそらく四コマ分くらいじゃないでしょうか」
……ちっ、鋭い奴め。まあバレたからには仕方がない。
「いや、せめて三コマ分くらいじゃね」
とだけ私は答えておいた。
「悩んでた事は否定しないんですね……」
文字通り私の横で呆れてしまっている朱鷺羽。お前の定位置っぷりにも実はちょっと呆れてるけどな。
しかし菅原を無視するわけにもいかないのだ。
とりあえず一度杭瀬以外と言ってしまった以上は引っ込めないというのが一つあり、それにこの場において私の話を聞いている中で杭瀬と菅原以外といったら朱鷺羽と守坂だけだ。守坂は基本向こうからくる事はないから結局朱鷺羽一人の質問を待つだけになる。それは良くない事だ。そしてこれは飽くまで私一人の問題だが、気づいたら朱鷺羽ルートに突入しかねないという問題が発生してしまう。
……以上、改めて覚悟をし、そうして私は菅原の質問を待った。
「内藤さんって男じゃないですか。それってヒロインでいいんですか?」
「…………」
あれ、菅原の質問が想像以上に一般的で安心したぞ。
まあ、普通であるに越した事はない。平凡を求めて何が悪いだろうか。
「ヒロインって元々女主人公って意味だからな。そこから主人公に近しい女キャラという立ち位置に意味が変わっていったわけだ。
だがそのポジションにあるキャラが男だとすれば何と呼べばいいのかとなる。そして結局はヒロインだ。真っ先に思いつくのはヒーローだが、それも何か違うしな。
……以上、少しばかり長々とした説明終わり」
と私は答えた。そして微妙に素直になった菅原は説明が終わると、口を開いた。
「なるほど、つまり秋津さんも男ヒロインに分類されるわけですね」
……やっぱ駄目だコイツ。
「杭瀬と菅原以外で質問ある奴はいるか? どうやらいないみたいだな」
結局安定のスルーを決めると菅原は諦めたように肩を竦めわざとらしい溜め息をついていた。やはりあれは無視安定だ。あれに自分から出ていく気概はない。そうしてしまうと菅原卜全のキャラじゃないからだ。 これはいい情報を得たなと思いつつ、説明を続ける。
「勿論こんな凝り固まったラブコメ模様は私の望んだ道なんかじゃあない。よって何とかしなければならない」
最終的な目標は「晴なんとかさん」だ。その終着点を目指し私はこの間違ったラブコメを続けている。これがもし運命なら私は絶対にそれを変えてやらなければならない!……そう、これは私なりの反逆だ!!
なんて一人で考えたりしてみると朱鷺羽は私の方をぼんやりと見つめ、こう呟いた。
「晴希先輩、まるで主人公みたい……」
「馬鹿な!?」
全くもって心外だ。だがそれが朱鷺羽の感想である以上、私はどうにかしなければならないのかもしれない。
「……晴希はもう、どうかしてるとは思うけど」
「黙れ杭瀬」
何のフォローにもなってないぞそれ。故意だろうがな。
「でもさっきの『何とかしなければならない』って言った後の顔が完璧に主人公だったけど」
えっマジで? それ本当か杭瀬?
「うん。何て言うか、強いられてた」
私の表情を見ながら、杭瀬はそう言った。マジか……。
だがこれはいっそ気にしないほうがいいかもしれないとふと思い、誤魔化すように私は続けた。
「いいか、これは好機なんだ。あのビッ……星ヶ丘が現れたなら、ここで流れをあいつの方に持って行く以外の選択肢はない」
「……今何か言いかけましたよね?」
「ははあ、やはり秋津さんも根に持っているんですね」
不思議そうに訊いてくる朱鷺羽と、事情を察して何故か嬉しそうな菅原。当然だ。今私だってあのビッチへの怒りを抑えようと努めている所なのだ。
「しかしどうしたものか……」
状況は早速にして詰みかけている所だった。
決意を新たにしたものの、あいつには最初の最初から警戒され、間合いを取られてしまっている。
「……まずは邪魔な内藤先輩を取り除くというのはどうでしょう」
と、今までずっと菅原に敵意を向けていただけの守坂が口を開いた。
……なるほど、障害があるならまずはそれを取り除くと。王道中の王道じゃないか。思わぬ所からいい意見が――
「――いや、八つ当たりはやめろよ」
感心だと思ったらそうでもなかった。お前何だかんだ言って腹いせに嘉光蹴り飛ばしたいだけだろ? 顔に「蹴りたい」って書いてあるぞ。
まあ、嘉光をどうにかしたくなる気持ちはすごく分かるが。