第七十二話 報い
「なあ、おかしいとは思わないか」
朝。大柄の男子生徒、幡野克剰は私の机の前で仁王立ちし、そんな事を言い始めた。一息ついて引き続き喋り始める。
「そりゃああの騒動を終わらせたのはお前とあの影の薄い……なんだっけなあれ……」
杭瀬な。
「……まあいいや、あいつの働きが大きいだろうさ。だがそれは結果論だろ。頑張ったにも拘らず結果論だけで何もしなかったというのは暴挙だ」
結果論は暴挙──なるほど、それは尤もだ。
私も体育の授業は大抵見学だが、それをサボり呼ばわりされる言われはない。体力不足は免罪符などではなく、運動すると本気でダウンしてしまうレベルなんだから。確かに見た目だけは運動能力ありそうとか言われるが、これは仕方がない事だ。まあ別にそういうオーラを出している気は一切ないので、似非ではないと思う。
「いや、そもそも元から俺は仕事を完了していたと思うんだ。俺の仕事はお前のSOSを新聞部に伝える、それで終わりだったんじゃないだろうか。その後の事は言わばアフターサービス、俺の心優しい気遣いだ」
ほうほう、それは感心だ。
言われた事だけでなくその後の事も手伝ってくれるとは。新聞部は文芸部に負けず劣らず残念だが、その分いい奴らだったりもするんだな。お前の気遣いって所には若干引っかかるが。
「それに約束も確かにした筈だ。俺が仁科さんにそれを伝え終わったら、あれの終わった後にちゃんと報酬をくれると」
うん、確かにした。
ちなみに仁科さんってのは新聞部の部長だ。独特の交渉術を得意とするらしいが、生憎私にとっては一々水道水を勧めてくるのがうざったいだけである。
「秋津、約束を守る事は大切だよな?」
当然だ。場合によりけりだとは思うが、約束するって事はその相手に大なり小なり自分の尊厳を預ける事だと思う。それを守ろうとしないのは何より自分の為にならない。約束をするとはそういう事なのだ。そう言えば一年の時に嘉光と何か約束した気もするが……まあきっと気のせいだろう。
「……それで、結局お前は何が言いたいんだ?」
呆れつつも本題を問うてみる。実を言うとこいつの今の話を聞くのは一度目ではない。というか毎日言われてて、本当にうんざりとしていた所なのだ。
「だから!」そこで幡野は体制を低くし、机を殴りつけ、こう叫んだ。「大人しくエロ本を俺に渡してもらおうか!」
…………。
「お、おう……」
はっきりと言わせて貰おう。引いた。えらく引いた。
「何でだよ!?」
「だって……なあ?」
何を言うかと思ったらエロ本を渡せときた。これに引かない奴が果たしているといるのやら……いや、本当にいるからそんな驚いたのか。流石新聞部だな。
「いやだからエロ本って先に言ったのはお前じゃん?」
「あのな」
そんな訴えをする幡野に溜息をくれてやり、私なりに諭してやる。
「下手な言いがかりはやめろ。あれは確かにくれてやったじゃないか」
「あれは!」再び机を殴る幡野。さっきから本当に五月蝿い。「俺の求めていたのとは全然違うじゃないか!」
何を言うか。貰った時に感動してそれから一歩も動けなかったくせに。
「そんな事言ってしっかり読んでんだろ? 分かってんだよ」
「表紙でアウトだったわ! 何だあれ!」
表紙? と言ってもあれはどっからどう見てもごく普通の……
「いやだから……男の聖典だろう? それ以上でもそれ以下でもない」
「確かに間違ってはいないが何かが致命的に違うだろ! 普通の男子高校生がガチホモ見せられて喜ぶと思ったのか!?」
「……そういえばそうだな」
いやあ、盲点だった。
思えば私が報酬だと言ってくれてやったのはまあ、ウホッでアーッな奴だったわけだ。普通のエロ本は兄が何ともまあ余計なお世話で私に買ってきてくれるんだが、中学時代のクラスメイトから半ば押し付けられるような形で貰ったものがあり、それが幡野にくれてやった物だ。上手く使えよ。
だが確かにこいつの言っている事は正しいな。完全に廃棄物のつもりで流してたから全くもって気付かなかったよ。
「だからさっさとエロ本を寄越せ。自分がされて嫌な事はするんじゃない」
そんな風に色々と台無しな事を言う幡野。そしてその言葉は前後が矛盾以外の何物でもないと思う。少なくとも私はエロ本貰っても嫌なだけだぞ。そもそも男子高校生じゃないからな。
「まあそんな事はともかく、結論から言えば何だ?」
「エロ本が欲しい」
「……素直でよろしい」
……いやまあ、本音を言えば全然よろしくないんだけどな? 当然だが。まず一女子高生がエロ本の話をしている時点でどこかがおかしいと思う。
「分かった。面倒だから適当な時にくれてやるよ。どうせ私には不要だ」
「と言うと……使用済みか?」
「死ね」
そう言って、とりあえず手に持っておいたシャーペンを幡野の拳に突き刺しておいた。
……ああ、随分とアレな話をしてたもんだな。
「おはよう晴希……って、幡野君は何やってるの?」
と、そこに現れたのは邦崎綾女だった。
「さあ? きっと体のツボか何かを刺激してんだろ。ほら、シャーペンが刺さってるだろ?」
「うん……」
何だか違和感を覚えつつも、邦崎は納得している様子だった。
……本当に危なかったと言わざるを得ない。
この邦崎という五年の付き合いのクラスメイトは一般的に言う所の親友キャラに当たるんだろうが、いかんせん似非だ。いつもいつでも、何かあればすぐに絶妙な間合いで私を困らせてきたのである。そんな奴に今のエロ本の話なんぞを聞かれたら……やめておこう。そんなの想像もしたくない。
「それはそうと、大変な事になったんだよ!」
「……どうしたいきなり」
「内藤君のクラスに、転校生が来るんだって!」
……あっそう。知らなかった。だがそれがどうかしたか。わざわざ強調してまで言うもんじゃ──
「何……だと……!?」
……と思ったら幡野は項垂れ、床に膝を着けていた。何なんだその驚きようは?
「もしかして、何か知ってるのか幡野?」
「いや……全然知らなかった……これでも新聞部員なんだぜ……?」
何だ……何かと思えばそんな事か。それで自分の情報量の無さに落ち込んだと。
「折角毎日部室に来て、モンハンをしてたってのに……」
「…………」
……ああ、うん、それは仕方ないんじゃないのか? 寧ろそれでよく自分の情報量に一人前の自信が持てたもんだな。そんなんだから情報弱者などと言われるし、ノーマルなエロ本を手に入れたつもりがガチホモ系統のやつだったりするんだよ。この情弱め。
しかしまあ、一宮さん達はどうせこの事を知ってたんだろうな。結果的に知らされなかったという点では私と同じか。
……と、ふと誰かの携帯のメロディーが鳴る。幡野は屈みこんだまま「ああ、俺のだ」と言いながら応答した。
「……もしもし? どうしたんですかそんなに慌てて……えっと、転校生が来たって? いえ、知ってますけど」
反射的に携帯をひったくった。
「もしもし?」
『もしもし……もしかするとその声と突っ込みは秋津さんですか?』
「……何でその判断基準なんですか。第一今の一言のどこに突っ込みがありましたか?」
『やっぱり秋津さんですね』
落ち着きながらも推測が当たったからなのか少し嬉しそうな声。電話の相手はさっき言った新聞部の部長、仁科由宇さんだった。
「……まあ色々と言いたい事はあるんですが、一つだけ教えてもらえますか?」
『はい?』
「もしかしてさっき初めて知ったんですか? 転校生の話」
『…………』
「…………」
そうしてやっていられない沈黙が続き、やがて電話がプツンと切れた。
駄目だこの部……何かもう色々と……。
「幡野、悪かった」
そして私は幡野に携帯を奪った事とさっき情弱と心中で罵倒した事、二つの意味を込めて謝罪し、携帯電話を返してやった。