第五十二話 完膚なきまでに私は
屋上への扉を閉め、階段を下る。そうして肩の力を抜き、ゆっくりと深呼吸した。
本当はこう見えても大変だった。「お前は楽でいいな」なんて晴希は言うけど、でもそんなことはない。確かに晴希も大変そうだけど、私も楽ってわけじゃないし。むしろ私の方が……いや、そんなことは言っちゃ駄目かな。
「……あらま、疲れてるみたい」
降りる際にそんな気の抜けたような女子生徒の声が聞こえた。
……関わりたくない。
そう思ってすぐさま横を通ろうとすると、私がさっき晴希にした時のように遮られた。後輩相手だったし私ならこんなの通り抜けられるはずだったけど、でも出来なかったのはなんでなんだろう。
だから私は、せめてもの反抗として沈黙を保った。
「……む、やっぱり何も言わないんだ」
肩をすくめ口をへの字にしながら言う。
「さっきまではすっごい饒舌に喋ってたのにね先輩。こう本持ってバーンって振り上げてさ」
あはは、と奪った本を振り回す。それを取り上げると「あはは、先輩怖いよ」なんて笑っていたけど、やっぱり私は黙っていることにした。
「先輩のおかげで文芸部のやることもみんな台無し。ほんと、残念もいいところだよ」
飽きてしまわないかと思うくらい彼女は笑っている、そんな振りをしている。それはまるでさっきの私と晴希のようだった。
「ねえ先輩、先輩のやったことはすごいよ。頼ってくる人が気に入らないからって騙してさ」
……いや、違う。私と晴希はそうじゃない。決して今この瞬間みたいな関係じゃない。
晴希は言った。「お前には分からんだろうな」なんて。「お前は楽でいいよな」なんて。
だからそう、これは私一人の反抗なんだ。
「ありがとうね先輩」
「……違う」
「ん?」
「私は──」
私は、あんたなんかにお礼を言われる筋合いなんてないっ!
話を持ちかけられたのは昨日あの時、階段でのことだった。
晴希が先に戻っていくといって階段から廊下に出て、記憶喪失になってしまったであろう嘉光とぶつかったときのことだ。
「っと、ごめんな! ごめん! 俺が悪かった!」
廊下の方からそんな声が聞こえてきて、私はそこで何が起こっているのかを把握した。見てみると、やっぱり嘉光。
──でもおかしい、ずっと(少なくとも本人の感覚では)逢えなかった晴希と再開したのに、まるで嘉光の反応じゃない。
と、そう思った。何も言わないがきっと晴希も同じ考えだと思う。
と、
「あらら、遭っちゃったか」
階段の下──というか奥の方からそんな、どこか気の抜けたような声が聞こえた。それほど興味のなさそうな口調だったし軽い野次馬のようなものなのかな──という考えを、私は思い浮かべですぐさま振り払った。
今の言葉は、私に向けられていたんだから。
晴希もいつも言ってると思うけど、私は晴希とか以外には無口で地味な人間で、他人に認識されること自体がない。晴希も密かに私にこんな状況下でも文芸部との梯子を頼んでいたから、その辺りでどんなものかは分かってると思うけど。
だけど、この娘は普通に私を見て、普通に私に話しかけてきた。今にして思えばそう、多分調子が悪かったんじゃないかと思う。典型的な言い訳かもしれないけど、今の私にはそれくらいしか考え付かない。もちろん他に何かあったのかもしれないけど。他人事みたいな言い方でごめん。
「どうして」
「む?」
「どうして、ここにいるの?」
私はそう聞いてみた。まず彼女がなんなのかも気になるけど、結局はこれが一番の疑問だった。
「トイレだよ、トイレ」
「本当のことを言って」
「あれひどいなぁ。後輩を信じてくれないの?」
信じるわけがない、そう心の中で毒づいた。トイレに行くために階段移動、そんなことするはずがないし、野次馬だったとしてもごく普通に私に関わってくる時点でそれは普通じゃない。特別なんだ。私も彼女も。
「わかったわかった。ちゃんと話すから」
やっとのこと、そう言ってくれた。と──
「んじゃ、綾女も待ってるかもしれないんでな!」
「…………ああ!?」
晴希と嘉光の、そんなやり取りの終わりが来たらしい。
「それじゃあ、細かいことは後で話すから」
だから待っててね、という言葉を残して階段の方に消えていった。
「と言うわけで早速説明をしてくれ、杭瀬」
「……そこで丸投げ?」
無理もないだろうけれど、晴希がいきなり困惑した顔で私に説明を丸投げしてきたときはさすがに呆れてしまったのだけれど……。
とりあえずさっきの嘉光の様子とか『綾女』についての発言とかを鑑みてみると……。
とそこで、階段の方にまだ気配が残っているのに気がついた。
「……どうした杭瀬」
「……なんでも」
「……そうか、ならいいが」
晴希はこの気配に気付いてなかったみたいだった。多分彼女が、私にだけ気付かせたのかもしれない。
「……とりあえず、お前の考えた理論を適当でもいいから纏めろ。私が突っ込んで叩いて出来れば原形をとどめず完膚なきままに潰してやるから」
晴希はそんな優しくないことを言い放ち、私がさっさと説明をするのを待った。
──さっさと晴希との話を終わらせて、あの後輩の話を聞こう。「待っててね」と言っていたから、向こうもそう催促しているみたいだし。