第四十五話 いっそ溺れてしまうなら
秋津晴希が死んでいたその頃、一年の守坂椎乃もまた死んでいた。当然ながら両方とも比喩表現だ。
その授業の間、どう米無しで生きていくかという深い悩みの中に守坂は浸かっていた。この状態が長引くといずれは溺れてしまうだろう。どうせ溺れるなら米の中で溺れた方が百倍いい。米を食べられない人生など死んでいるのと同じだ。
ならばどうするか。またみのりに分けてもらうしかないのかもしれないが、それは少し気が引ける。前にも分けてもらった上、それに対し自分は何もしてやれていない。これでは面目ない。
だが焦りは禁物だ。まだ自分が動くべき時じゃない。ここで焦って動いたら、今までの文芸部達の努力も水泡と帰す。
だから待つ。自分の動くべき時が来るまで。
自分は別に秋津晴希が、内藤嘉光が、文芸部がどうなろうが興味はない。大切なのはただ米と、親友だけだ。自分にはそれだけしかない。そしてそれだけでいい。
……しかし、米が欲しい。米が無いと何を食べても……正直言って断食に等しい。
こちらが何度謝ろうと、母親は決して許してくれなかった。そこまで玉子和食説に拘るのか?──否、母の事だからこのような事態にどう自分を律するか試しているのかもしれない。そういう親なのだ。この騒動が終わる頃には何とかなると、守坂椎乃は何となくだがそう予測していた。
今黒板に数式を綴っている一年目の若い教師の声など聞こえないまま、何気なくノートに鉛筆を転がしながら考える。ちなみに守坂家ではシャープペンシルなど使わず、当然の如く彫刻刀で鉛筆を削っている。
「いつまで待てば……」思わず考えた事が口から漏れる。誰かに聞かれたかもしれないが、今更どうでもいいだろう。「どこかで爆発でも起きれば……」
その時、爆音が聞こえた。
いきなりの爆音に生徒達は──平然としていた。強いて言えば朱鷺羽だけはおろおろとしていたし、普段こんな事で驚かない守坂も自分が何気なく放った一言が本当に起きてしまった事に内心驚いていた。
誰の仕業か、と聞かれればクラスの大半は答えられるずだ。いや、逆に知っててもしらばっくれるかもしれないが、いずれにせよあの文芸部のおかしさは誰もが知っている事である。現在の一年生も違った意味でおかしいが。
が、平然としてると──そう思ったのもつかの間、生徒達は顔を見合わせ、一斉に机から筆箱を落とす。そうして教師が驚いている隙に全員教室から出て行った。授業をしていた教師が何か言おうとすると生徒の一人が「今から抜き打ちの避難訓練なんですよね! 早く外に出なきゃ!」と言い残していくが、勿論避難訓練などではない。
同じ一年の別クラスも同じ考えだったようで、多くの生徒達が騒がしく廊下を走っていた。避難訓練といいながら押さない・走らない・喋らないの三つは悉く無視。
そうして教室に残されたのは頭を抱えながら唸る教師と呆然とした朱鷺羽、そして米を断たれた守坂の三人だけだった。
そんな教師を尻目に、守坂の席の方へ朱鷺羽は向かう。その朱鷺羽に守坂は口を開いた。
「それで」
「うん?」
「何かあったの? あの文芸部が何か言ってた?」
「あ! すっかり忘れてたんだけど──」
朱鷺羽は昨夜の事をやっと思い出し、それを守坂に話した。本当は学校に来たらすぐ話そうと思っていたのだが、久しぶりに晴希に会ったという事もあり、記憶から抜け落ちていたのだ。
「それにしても早い……これが文芸部……」話を聞いた守坂は感心しきってしまった。
「そうだ椎ちゃん!」
もうそこに教師などいないかのように朱鷺羽は叫ぶ。
「私たちも早くしないと……」
だがそこで「何もなかったので落ち着いてください。決して教室から出ないで下さい」といった内容の放送が聞こえてくる。これではもう自分たちは出れないだろう。どうせ他のクラスメイトは鞄を取りに来るまで帰っては来ないだろうが。
「……先輩たち、大丈夫かな」
「さあ、今は分からない」
朱鷺羽の問いに、守坂は答えた。
「……確かに、放課後になって先輩たちに訊かないと……そうだ!」
「今度は何?」
「椎ちゃん、放課後にうちの部室に来てよ!」
親友の言葉に、守坂は頷いた。今日は予定もないし、文芸部と接触してそれがいいほうに働くなら、断る理由など何もなかった。
ちなみに、授業をしていた教師はその精神的ダメージにより学校に休養を申請したが、聞き入れて貰えなかった。