第三十六話 ハーバーとオストワルト
いや全く、呆然唖然とするしかなかった。
文芸部員である私が困っているのだから、新聞部が手を貸してくれるくらいはいい──いや、是非とも手を貸すべきである筈だ。
それなのに一新聞部員に過ぎないこいつから出てきた言葉は「やなこった」の一蹴だ。こんなの誰が納得できるだろうか、いや、誰も納得出来やしない。
「いや待て、『駄目だ』ならまだ考える余地があったが、『嫌だ』って何だよ!」
我を取り戻し、慌てて私は反論する。
幡野は半分シリアス、半分笑みの器用な表情で答えた。
「そりゃお前、こんな面白い……大変な事、俺らが手出せるもんか」
「おい今面白い言ったよな? 訂正の余地が無いほどはっきり言ったよな?」
「そんな状況をどうにかするなんて俺らにはめんどくさい……荷が重過ぎるっての」
「おい今度はめんどくさい言ったよな? これまた訂正の余地が無いほどはっきり言ったよな?」
やはりただの惰性と好奇心だった。……お前はそれでいいかもしれんが、私はそれじゃ良くないんだよ。
「いい加減にしろ」
軽く、それでいて私が出せるだけの殺意を込めて言葉を放った。
「私は嫌でもやれと言ってるんだ。これはお前の好き嫌いじゃない。単純に義務の話だ」
「すまん……俺、他に付き合ってる子がいるんだ」
「……この期に及んでその口は何のジョークをほざくんだ?」
そう言ってやると、この野郎も流石に反省し──
「あーはっはっはっは!」
──なかったようだ。くそ、その笑顔が憎たらしい。そしてうざったいぞ。
「やれやれ、どこにでもいそうなある新聞部の一員こそが天下一純粋であるというごく単純な摂理さえも人は覚えちゃいないのか。狂った世界だ」
確かにとち狂っているな。多面的な意味で。
「百歩譲ってそれを認めたとしても、純粋さが時に悪となるというのも覚えておいた方がいいぞ。道徳の授業でもあまり習わんだろうがな」
「すごく反省しているのに(笑)」
「ここまで誠意の無い反省は稀に見る」
というか、反省じゃない。
「日進月歩、切磋琢磨、血の滲むような努力の結果として人間いじりに特化した厨性能を手にいれたんだよ(笑)」
「なんて迷惑千万なコンセプトの新人類だ。しかも誇らしげに」
「そうだ、この力を持ってすれば非現実が現実になる(笑)」
「勝手に意味も無くダークサイドに落ちるな」
両の拳をグッと握り締める幡野。お前は涼宮ハルヒの如く世界を引っ掻き回したいのか。モブキャラの分際で。
「これからは『チートのハタノ』とでも呼んでくれ(笑)」
「天地が崩壊しても呼ばない。そして(笑)をやめていい加減に話を進めさせろ。シャーペン突き刺すぞ」
「それは困るな」
一転。思いつめた表情の幡野。何か事情があるのだろうか。「何が」と私は訊いてみた。
「尻にシャーペンを突き刺されるというのは困るだろ、そりゃ」
そこだったのか。しかも誰も尻とは言ってないのに。
「……まあいい、ちゃんとやれ」
実は尻じゃなくて首筋で一撃必殺狙いだったことも、まあいいだろう。
しかし尻を突く拷も──処罰も良さそうだ。ただそのアーッの代償にシャーペンが消耗品になるというのが大きな問題か。
「わかった。自重する。サーセンw」
まあ──よくないな、これは。
「いや、草も生やさないでくれ」
「はあ? 草なめんな!」
《楽》→「草について触れる」→《怒》。どんなメカニズムだ。新手の化学反応か? お生憎様、私はハーバー法もオストワルト法もよく知らんのだが。
「いつ誰が馬鹿にした」
「いつもそうやってペチャクチャと卑怯な手を! そうやって詭弁を吐いてばかり!」
「いつもっていつだよ! 私がいつどういうプロセスをもって何を騙──」
「文芸部屈指の腹黒キャラが何言ってんだかな!」
言い終わらないうちに返された。腹黒ってのは嘉光が勝手に言った事なんだが、ちょっとカチンとくる。いかんいかん、冷静になれ。
そうして私が思考している間に、再び幡野が喋りだす。
「秋津……思えばお前は昔からそうだったな」
「お前昔の私なんて知らないだろ」
確かに物心ついたときから私は歪んではいたが。ついでにその頃からひ弱ではあったが。
「イメージだイメージ。オーラを見れば分かる」
「オーラなんて見えないだろ。出鱈目はお前だ」
「そんなあなたに、このパワーストーン。今ならたった20万円で、この騒動が──」
「収まらないから後でその小石を捨ててこい」
私の真摯な突っ込みに、幡野は──
「んだと!?」
逆ギレした。
……皆さん、これが現代のキレる若者でござりますよ。