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天下の一大事

作者: 真魚

明かり障子がすっと開くなり、蝉の鳴き声が大きくなるのが分かった。

 鳴き声とともに光が射しこむ。

 鮮明(けざや)かな夏の陽射しだ。

 崇源院(すうげんいん)は眩しさに目を細めた。

 光の中に背の高い白装束の娘が立っている。


 白は喪の色だ。


 まだ十八にしかならない娘が早くも寡婦として夫のために喪に服しているのかと思うと、母としての崇源院の心は痛んだ。


御母様(おっかさま)――」


 娘が流麗な仕草で障子を閉めると、片膝を折って深々と頭を低めた。

「御久しゅうございます。御達者そうで何よりじゃ」


「うむ。於千(おせん)もの」


 挨拶を交わしてしまうと沈黙が戻った。

 障子の向こうの蝉の声が大きさを増す。


 崇源院は十一年ぶりに見る娘の姿に驚きを感じた。

 最後にみた七つの童女の頃からは想像もできないほど背が高くなっている。


 ――この母よりも大姉様に似ているようじゃ。


 そう思うなり、崇源院の心は錐で刺されたように痛んだ。


 目の前の娘は何も言わず、片膝を立てて坐ったきり、ただじっとうつむいていた。


 ――この()はきっと出家を願いに来たのじゃろう。


 崇源院はそう思おうとした。

それがこの娘にとっては最も良い道であるはずだからだ。

崇源院は徳川二代将軍秀忠の正妻である。

娘の於千は将軍の姫だ。

この姫は七つで大阪の豊臣秀頼に嫁ぎ、今、実の祖父と父の手で大阪を攻め滅ぼされて、こうして若い寡婦として江戸へ戻ってきたのだった。


数日前、於千が人払いをして会いたいと申し出たとき、崇源院は内心で胸をなでおろした。

自ら出家を願ってくれるなら何よりだ。

身内に夫を殺されたうら若い寡婦が生きながらえて新たな夫を持てば、世間が何とはやし立てるか知れない。


――大姉様もそうじゃった。あれほど誇らかで情の深い姫が、永らえて老いた太閤の妻とされたばかりに、太閤の晩年の凶行はみな大姉様のせいのように言われた。


崇源院の長姉の茶々は大阪で討たれた秀頼の生母である。

その姉は大阪で息子とともに死んだという。


――この娘も夫に殉じておれば、貞女として称えられたのだろうが……


崇源院がそんなことを思ったとき、娘がぐしゃりと顔を歪めた。


「――御母様、そのような目で見てくださるな。今のこの身の浅ましさは、千がよく知っている」

「浅ましいなどと!」と、崇源院は慌ててとりなした。「於千、そのように卑下することはない。落城のおりに生き延びるのは乱世にはままあることじゃ。この母とて二度の落城を生き延びたのじゃぞ?」

「しかし、御母様はほんの童だったではないか!」と、娘が言い返してきた。「この千はの、七つの齢から十一年間、ずっと大阪で育ったのじゃ。大阪は千には名字の地も同じ、落城のおりには秀頼さまのお供をしようととうに心を決めておった」

「そうだったのか?」

「そうだったのだ」

「ならば、なぜ生きて戻った?」

 崇源院は我知らず咎めるような声を出していた。

 於千がきっと顔をあげ、まっすぐに視線を向けてくる。

「大阪のおふくろ様から内密の(ふみ)を預けられたからだ」


 そう言い放つ於千の顔は誇らしげだった。


 崇源院は疑わしげに問い返した。


「大阪のおふくろ様とは、大姉様の――秀頼さまの御生母たる淀の御方のことか?」

「そうだ」

 於千が堂々と応え、白装束の懐から赤い絹の守り袋を引っ張り出した。

「この文には天下の一大事が記してあると、おふくろ様は仰せられた。秀頼様を御一人で逝かせるのは忍びないゆえ御身は大阪に残られるが、この千は生き延びて必ず江戸の御母様に届けよと申し付けられたのじゃ――」

 於千はそこで言葉に詰まり、堪えかねたようにしゃくりあげると、細い首を俯け、守り袋を開いて、幾重にもたたまれた白い紙片を引き出そうとした。


 ――ああ、大姉様じゃ。


 崇源院は唐突にそんなことを思った。


 今の娘の仕草が、遠い昔に目にした長姉の仕草とそっくりに見えたのだ。


 ――大姉様もいつだかこんな風にして文を引っ張りだしておった。天下の一大事――そう、天下の一大事と言って……


 そのとき、崇源院の心に、幼いころの情景がありありと蘇った。


 もう三十年以上も昔、母の再嫁した柴田の家をまたしても伯父に攻め滅ぼされた後で、生き永らえた二人の姉たちとともに、伯父の本拠たる尾張へ連れ戻される旅の途中の夜だった。

 その夜、三姉妹は荒れ寺の堂宇に休んでいた。

天井の破れ目から月明かりが零れて床板に点々と白い斑が落ちていた。

十歳の崇源院は――その頃はまだ於江と呼ばれていた姫は落ちる身の余りの心細さに褥のなかで咽び泣いていた。

すると、そのとき十四だった長姉が、ちょうど今の於千のように守り袋から文を取り出して秘密めかして囁いてきたのだ。


 ――のう於江、そう泣くな。大事な秘密を教えてやる。我らは天下の一大事を預かっておるのじゃ。

 ――天下の一大事?

 ――そうだ。落城の前に御母様に秘かに呼ばれての、ここに天下の一大事を記した文があると。二夫を亡くしてなお生きるのはもう草臥れてしもうたゆえ御身は御自害なさるが、娘らは必ず生き延びて大野の叔母上へ届けるようにと。御母様の仰せではこの任は順送りじゃ。

 ――順送り?

 ――この姉が死んだら於初に、於初が死んだら於江に任が巡ってくるということじゃ。だから死んではならぬぞ。母が死んでも姉たちが死んでも、於江は生きねばならぬぞ……



「――御母様。この文じゃ。これをおふくろ様から託されてきた」

 目の前の娘が誇らしげに告げた。

 崇源院は妙に心拍が昂ぶるのを感じながら受け取った。


 三十余前、三姉妹は誰一人死なずにことなく尾張に着いたため、あのとき聞かされた内密の文に何が記されていたのか、崇源院は結局最後まで知らないままだった。


 ――御母様は叔母様になにを御知らせになったのかのう? 大姉様がいま御知らせになるのと似たようなことであったのかのう……


 天下の一大事。

 十八の娘の誉れを穢してまでも伝えたかった一大事とは、一体何なのだろう? こんなちっぽけな紙の切れ端で、どれほどの大事が伝えられるというのだろう?


 訝りながら紙片を開くなり、崇源院は絶句した。


 紙は白紙だった。


 天下の一大事どころか、書き手の名さえ記されていない。


 呆然と目を見開く崇源院を見上げて、於千が眉を寄せた。

「御母様、おふくろ様は何と? それほどの大事が記されていたのか?」

 身を乗り出して訊ねてくる娘の顔は若々しかった。

 頬は豊かに丸く、唇は活き活きと赤く、つややかな髪は若駒の尾のように輝いていた。


 ――ああ、この娘は今が盛りじゃ。今まさに咲き誇る花の盛りの齢じゃ。


 こんな美しい年頃の娘を、どうして死なせられよう?


 そう思った瞬間、崇源院は亡き長姉の心を理解した。

 同時に亡き母の心も。


「そうさの。まさしく天下の一大事じゃ。これほどの大事は他にない。大姉様はよう思い出させてくれた」


 わざと重々しく告げてやるなり娘が破顔した。

崇源院は笑って労った。

「――於千、よう生きて戻った!」

 言葉にするなり涙が溢れて紙に落ちた。


            


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