出立
ページを分けた方がわかりやすそうだと判断し、分けて編集し直しました。
投稿内容は以前と変わりありません。
編集し直しに伴い、サブタイトルを付け直しています。
「君に仕事を用意した。引き受けてくれれば君が大人になるまでの生活費のすべてを私が請け負おう。引き受けてくれないだろうか」
季節が一つ過ぎたころ、何度目かの面会の時間。私を買っていなかったお兄さんがそう私に言ったのが五日前。うなずいたのが四日前。それからすぐに、立派な車に乗せられて、お仕事の場所に連れられている。
馬が二頭もついた、流れる水の柄がついた車は、前におじさんにつかまった時乗せられた車よりずっと乗り心地が良かった。破れたクッションは私の体を少しも守ってくれなかったし、雨が降れば屋根から雨漏りするような車だった。思い出すと、身体が過去に戻るような、今いるここが夢のような。そんな気持ちになる。
「お嬢さん、こちらを見れるかい?」
ゆっくりと、少し低い声が車の中に響いた。前を見れば、先生が私を見ていた。うなずけば、ふう、と先生は息を吐く。
「気分が悪けりゃいつでも言っておくれ。本来あたしは車酔いよりそっちが専門なんだから」
先生は何回もカーテンの外からやってきた。痛いこともつらいこともしない。心の傷を治す先生だと言っていた。
「お嬢さんも、馬に運んでもらったことはあるだろう?凍山のあたりは、それ用の馬を飼う人も多いと、聞いたことがある」
先生の言葉にうなずく。お山でみんなと遊んだ後、馬養のおじさんたちはいつも私たちを迎えに来てくれた。がたがた動く荷車も、私たちには楽しい遊びで、車輪が石にひっかかって跳ねれば、はしゃいだ悲鳴と笑い声でお祭り騒ぎになる。うるさい! なんておじさんたちに怒られたあとは、口をふさいで目を合わせて、くすくすと笑いあう。そんな当たり前の日々。この車は、荷台よりよほど座り心地が良くて、車輪が弾むことは、一回もなかった。
「お嬢さん、もうすぐだよ」
先生の声に顔を上げれば、遠くに大きな建物が見えた。とても大きいお屋敷だなと思った。
お屋敷に着くと、先生が案内してくれた。寝るところと、ご飯を食べるところと、たくさんの本が並んでいるところを教えてもらった。
「まずはここに慣れるのがお嬢さんの仕事さ。起きたらここで過ごすといい。慣れたらまた別の仕事を任せる。だってさ」
先生の言葉にうなずくと、先生は部屋から出ていった。部屋は他にもたくさんの人がいる気配がして、その気配だけで恐ろしくて。私もすぐに部屋を出た。扉の外で先生と目が合うと、先生は笑った。
「白いカーテンを用意しておくよ。そのほうがお嬢さんも安心だろう?」
先生の言葉にうなずけば、先生もうなずき返してくれた。そのあと先生と一緒にご飯を食べて、部屋まで送ってもらって眠りについた。ベッドは、今日もふかふかで、お日様のにおいがした。
「頼斗、明日から頼んだよ」
「承知いたしました。孝治郎様」
「邏ォ闍」
名前を呼ばれて振りむけば、ばあさまがいた。
「ばあさま!」
近づいてハグすれば、ばあさまも私をぎゅっとしてくれる。
「よく覚えておきなさい。流れ移ろうこの国で、名前だけが唯一不変のものとされているんだよ。自分を知られても良いと思った人にだけ、名前を教え、自分の名を呼ぶことを許しなさい。」
ばあさまが何度も教えてくれたことだった。家族以外の人の名前を、私は知らない。子ども同士で名乗り合うのは危険だと、大人はみんな言っていた。名前を呼んでくれるのは、家族だけだった。
「邏ォ闍」
もうどのくらい、名前で呼ばれてないんだろう。毎日家族が名前を呼んでくれるのに、なんでか、そう思った。
「なあに、ばあさま」
「だいすきよ」
「私も大好きよ」