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骨食みクイールに手向けの花を  作者: 伊森ハル
2 愛しき妻に真なる終わりを
6/13

002


 幼い頃から、自分(・・)は病気がちだった。

 あるときは肺を(おか)され、あるときは熱に浮かされ、死の淵をさまようことさえ珍しくはなかった。

 病状が和らいだかと思えば、翌週には新たな(やまい)が身体をむしばむ。年齢が五を数えるまでの人生は、まさに闘いと呼ぶにふさわしいだろう。闘病という表現は決して大げさではない。

 幸いにして生家は裕福で、だからこそ自分は生きることができていた。薬代にもあえぐような家であったなら、早々に見切りをつけられてしまっていたはずだ。

 ただし、『生きながらえている』ということと、『充実した人生である』ということは別だ。

 幼少期の記憶はベッドから見る自室の天井と、窓の外から聞こえてくる楽しそうな笑い声に多くが占められていた。

 夢か(うつつ)か、身体の感覚さえもが曖昧なまま、輪郭(りんかく)のぼやけた音を聞く。町医者の薬は苦く、副作用にもしばしば悩まされた。


(――なんて、長い。彼女(・・)にとって、こんな時間は重要でもなんでもないだろうに)


 そんな〈自分〉――ミアの中にあって、クイールはそう独りごちた。

 時間の流れが緩慢(かんまん)に過ぎる。彼女にとって闘病生活が相当な負荷になっていたことは、それだけでうかがい知れた。

 しかし、病は快方に向かっているのか、あるいは彼女の身体が病の負荷に慣れたのか――年を経るごとに場面の切り替わる頻度は高まっていった。とはいえ、ベッドに伏していることに変わりはないのだが。

 大きな転機があったのは、ミアが十歳になる夏の走り。

 わりあい体調が落ち着いていたこともあって、かねてより話に上がっていた『家族旅行に出かけよう』という計画が実行に移される運びとなった。

 行き先はすぐ隣の町で、旅行というにはひどく短い移動だった。しかし、これも体調を崩したときのことを考えての苦肉の策だったのだろう。

 母の手料理を(たずさ)えて向かったのは、隣町からほど近くにある小高い丘。平凡で見る物も無いような場所だったが、それでもミアの目には新鮮だったのか、高揚した声で両親に呼びかけていた。


「ほら母様、見て? あの木、たくさん実がなってるわ!」

「あらあら、ミア、そんなに走らないで。それに、あれは食べられませんからね」

「でも、鳥は食べているのね。不思議だわ。あっ、父様! あっちに変な色の虫がいるわ!」

「おいおい、そう気軽に触るものじゃないぞ。落ち着きなさい」

「だって、とっても楽しいんだもの。ベッドで寝ているより、ずっとずっと!」


 その言葉に両親は胸をなで下ろした様子だったが、楽しい時間はそう長く続かなかった。

 浮かれて身体を動かしすぎたのが良くなかったのだろう。夕方にもならないうちに、彼女は大きく調子を崩してしまった。

 携帯薬はあったものの、容態は安定しない。かかりつけの医者まで連れて行く余裕は無く、両親は近場の診療所へと助けを求めた。


「おや、これはいけませんな」


 出てきたのは、穏やかな顔つきをした壮年の医師。

 彼の処置は的確で、翌日には容態が随分と良くなっていた。

 予後を見るべきとの話を受けて、病室のベッドに横たわっていると、不意に扉が開いた。

 部屋に入ってきたのは二人。医師と、少年だった。


「あなたは……?」

「あらまあ、息子さんですか?」

「これはシルハです。娘さんと同い年ですな」

「……どうも、はじめまして」


 水瓶とグラスを運んできた少年は、素っ気なく挨拶を返した。そのまま出て行こうとする彼を、医師が呼び止める。


「おおい、こらこら、どこに行くんだ」

「……だめ?」

「ご両親に娘さんのご病気について説明をするから、ここで彼女と話でもしていなさい」

「いや先生、いけません、娘の病気がうつったりしたら……」

「なに、大丈夫ですよ、そういった(やまい)ではありませんから。詳しいことは別室で」


 言われるがままに両親は隣の部屋へと出て行く。

 あとに残された少年は、小さなため息をついてからベッド脇の椅子へと腰を下ろした。


「あちらのお医者様は、あなたのお父様なのね」

「……まあ、そうだね」


 反応の鈍い彼に、ミアは首をかしげた。


「なんだか嬉しそうじゃないのね? 人を助けているのよ? 本当に、すばらしいことだわ」

「うん、そうかもしれない。……たまには、ね」

「いつも、ではなくって?」

「父さんは時々、元気な人にも薬を渡してるから。あれこれ理由をつけて、必要のない薬を出すこともある。お金持ちの人には、特に。……嘘つきなんだ」

「まあ、そう悪く言うものじゃないわ。確かに嘘をつくのはいけないことだけれど、あなたのお父様のおかげで助かっている人だっているんだもの」

「どうかな。……君のご両親に渡した薬、三つあるうちの一つはただの固めた粗糖だよ」

「……本当?」

「疑うなら、いちど水を使わずに舐めてみるといい。二つは恐ろしく苦いだろうけど、ひとつは単なる甘い玉だよ」

「私、甘いものは好きよ? あまり多くは食べられないけれど、油砂糖(ユイレンゾ)とか」

「……変な子だ」

「あら、そんなことないわ。確かにアレは涙が出そうなほどに甘くって、いっそ甘すぎるくらいだけれど、立派なお菓子なんだから」

「そういう意味じゃあないんだけど……」


 毒気を抜かれた様子の少年は、楽しげに笑う少女の顔を見て、それ以上言葉を重ねるのを諦めたようだった。



◇◆◇



 そこから先は加速度的に時間が進んでいった。

 例外は二つ。新たな病の急性期と、シルハに会う日だ。

 距離の問題もあり通院は(おこな)っていなかったが、両親はシルハの父を随分と信頼しているらしく、ミアの容態が安定期に入る頃には所見を訊きにいくことが常となっていた。

 ミアがそれを密かな楽しみにしていたのは、時間の流れからも明らかだ。年頃が近い子供と会うことの少ない彼女にとって、それは貴重な瞬間であったのだろう。

 幾度か顔を合わせるうち、彼はよく笑うようになった。談笑の時間も延び、両親にも彼の話をよく聞かせるようになった。

 ひと月かふた月に一度の検診を、ミアは心待ちにしているようだった。

 ――そうして季節は一巡し、同じように医師の元を訪れたある日。

 シルハが、こっそりと病室に忍び込んできた。


「見せたい物があるんだ」


 そう言って笑う彼の表情は、どこか大人びていて。しかし、悪戯(いたずら)をしかける子供のような無邪気さも備えていた。


「でも、怒られてしまうわ」

「調子は良いんだろ? そんなに遠い場所じゃない。まだ昼を回ったところだし、日が傾く前に戻ってこられるよ」


 彼はいつもより少しだけ強引で、ミアはしばらく迷っているようだったが、結局は病室を抜け出すことに決めた。

 夏の気配を帯びた日差しが、空からさんさんと降ってくる。それを帽子で(さえぎ)って、少女はゆっくりと歩みを進める。

 視線の先には、軽い足取りで歩く少年の後ろ姿。時折(ときおり)こちらの様子をうかがいながら、彼は町の外へと進んでいく。

 木柵の壊れた一角を抜けて、さらに町から離れていった。そのまま茂みへと分け入っていく。


「町を出るなんて聞いてないわ。怒られるわ、絶対に怒られるわ……」


 はらはらと背後を振り返りながら、少女は今更になって後悔するような言葉を吐いた。


「そんなに離れてないよ。せいぜい、数分のことだ」


 言葉の通り、数分も東へ移動したところで茂みを抜けた。切り立った崖が行く手を塞いでいたが、シルハは満足げにこちらを振り返った。


「うん、もうすぐだ。この先だよ」

「何もないようだけれど」

「そう思うだろ?」


 言いつつシルハが足下の砂利(じゃり)を払うと、小さな石板(せきばん)が顔を出した。

 墓石のように地面へと埋め込まれた、厚い御影石(グラナイト)。どうやら人工物であるらしく、表面には(つや)があった。


「……文字、かしら?」


 シルハの肩越しに、ミアは不思議そうな声を上げる。

 石には二重円が彫り込まれており、二線の間を這うように記号らしきモノが並んでいた。


「多分ね。擦り切れちゃってて、ぜんぜん読めないけど」

「見せたいものっていうのは、これ?」


 答える代わりに、シルハはポケットから小ぶりのナイフを取り出した。皮の鞘を外して、刃を親指の腹へと当てる。

 制止の間もなく、彼は刃を滑らせた。ぷっくりと浮き出た血のしずくが石へと落ちる。


「なにを――」


 一拍遅れて声が出た時には、既に(こと)が始まっていた。

 血痕を起点として、かすかに石板が発光する。脈動のように幾度か薄い明滅を繰り返し――やがて、ひときわ強い光を放った。


「わ」


 思わず目を閉じる。


「大丈夫。危ないものじゃないから」


 優しげな声。まぶたを開くと、シルハの微笑が近くにあった。

 彼は拳を握って傷ついた指を押さえながら、もう一方の手で背後を指した。

 そこにはぽっかりと穴が空いていた。大人ひとり程度であれば並んで歩けそうな幅の洞窟だ。


「動いたの?」

「というより、はじめから穴が空いていたんだ。壁があるように見えていただけ」

「へえ、不思議ね」

「そう言う割には、あまり驚いているように見えないけど?」

「お父様が扱っている商品にも、似たようなものがあったから」

「古物商っていうやつかな」

「そう呼ぶのかしら? ええ、きっとそうよ」


 ミアの生家は〈遺物〉を専門とした商取引で大きな富を得ていた。

 今使われた〈遺物〉は光学詐術の一種だ。〈聖代の遺物〉としては珍しい部類ではなく、記憶の中でも何度か見たことがあった。主に父がミアを喜ばせんと商品の中から見つけては、目の前で作動させていたのだ。

 もちろん、穴をまるごと覆うほどの規模となれば、それなりに数は限られるのだが、そんなことを二人は知るよしもない。


「こっちだよ」


 シルハは先導として洞窟の中へと入っていく。


「だめよ、そんなところ。危ないわ」

「向こうまでは長くない。ほら」


 言って、彼は一度(いちど)身をどかす。穴の向こう側は近いようで、中はそれなりに明るかった。


「怖がるほどじゃないでしょ?」

「……え、ええ」


 手を引かれるままに、ミアは少年へとついていく。

 先ほどから時間の流れがまったく速まらない。シルハとの時間が彼女の記憶に強く刻まれていることは、それだけで明白だった。

 闘病生活と同等、あるいはそれ以上に、ミアにとって彼の存在は重要だったのだろう。

 ほどなくして反対側へと辿り着く。

 予想に反して開けた空間に出た。周囲を見回すと、一方には少し距離を置いてから森が、他方には、もう一つの洞窟が口を開けていた。


「あれのこと?」


 洞窟を指したミアの問いに、少年は否定も肯定も返さない。ただ笑ってそちらへ歩き出した。

 のぞき込んでみると、奥は意外にも広い。広間のほか、小部屋にも似た区画がいくつか存在しているようだった。共通しているのは、壁の随所に不可思議な文様が走っている点だ。


(なんだろう。大昔の言葉に、似てはいるようだけれど)


 赤黒い塗料で描かれた幾何学的な線の連なり。文字のように見えなくもないが、いかんせん遠く、なにより暗すぎる。解読には至らなかった。

 ただし、その異様さは一瞬で理解した。


(――血だ。間違いない)


 あれを描くのに使われている塗料は、血液だ。

 材料(・・)となったのはヒトか、獣か。どれほどの年月が過ぎたのは知るよしもないが、経年劣化に耐えているところを見ると、もっと特異な存在の血かもしれない。

 二人はその禍々しさに気づくこともなく、好奇心のままに中へと入り込んでいく。視界は依然として悪かったものの、広間の奥に一際大きな模様が記されていることがわかった。

 冷ややかな暗所の空気は、遺骨の安置所にも似て。しかし、二人が交わす言葉の調子は、場に似つかわしくない明るさだった。


「ここ、探検してるときに偶然見つけたんだ。他にはだれも知らない」


 秘密の宝物を見せるような、かすかに得意げな声音。ミアはそれに対して、素直に感心した様子を見せる。


「町から離れているわけでもないのに、わからないものなのね」

「隣町――きみの家とは逆の方だから、そのせいじゃないかな」

「へえ。でもこれ、なんなのかしら。不思議な場所ね」

「たぶん、大昔には人が住んでいたんだと思う。いや、もしかしたら――」

「……もしかしたら?」

「神様、かもしれないね」


 おどけるような彼の言葉に、ミアは軽やかな笑いをこぼした。


「笑うようなことかな」

「ふふ、ごめんなさい。あんまり急だったものだから」

「まあ、いいんだ。ここはただのおまけだから」


 言いつつシルハは踵を返し、出口に向かって歩き出した。


「行こう。本当に見せたいのは、あっちなんだ」


 少女は彼を追いかけていく。足取りは相も変わらずゆっくりとしていたが、不思議と身体は重くなかった。

 先ほどの奇妙な〈住居〉とは別な方向。木々が濃く立つ森の中へと分け入っていく。

 彼は何度か通っているのか、獣道のようになっており、歩くのはわりあい容易だった。そうして進んでいくうち、かすかな甘い香りが鼻腔をくすぐったことに気づく。


「これ……」


 シルハがこちらを振り返って、悪戯(いたずら)げに笑う。

 ミアは少年の肩越しに、その光景を目にした。

 白く小さな花が、無数に咲いていたのだ。

 中ほどにまで入り込んでから、周囲を見回す。

 広葉樹に囲まれながら、ぽっかりと空いた天然の花壇。足首ほどの高さに群生する花は、まるで夜空に瞬く星々のようだった。

 足下の花冠にそっと手を添えて、少女は口元をほころばせる。

 子供の掌に収まってしまうほどに小さなその星は、白絹にも似た光沢を帯びていた。


「ね? 良い場所だろ? 誰にも邪魔されたくないとき、よく来るんだ。なんていうか、気持ちがすっきりするから」


 少女が触れている花を指さして、シルハは得意そうに話しかける。

「これは春の花らしいんだけど。この場所にだけは、夏になっても咲き続けてるんだ。涼しいからなのか、もっと別な理由なのか――」


 と、それまで饒舌だったシルハの声が、不意に途切れた。


「綺麗……とっても、とっても綺麗ね……」


 こちらを(のぞ)き込む少年が息を呑んだことにさえ気づかないほど、彼女は花々に見入っていた。


「……あ、ごめんなさい、どうしたの?」


 視界の中心に、ようやくシルハが入る。

 彼はいつになく真面目な顔つきで、こちらをじっと見つめていた。


「――ここしばらく、ずっと、思ってたことがあるんだ」

「なあに、改まって」

「……最近、父さんが嘘をつくことが増えた。お金持ちから、お金をたくさん取るようになったんだ」


 告解にも似た、痛切な響き。

 自分自身にも言い聞かせるように、彼はゆっくりと話し続けた。


「よく『もう長くない』なんてことも言うようになった。こっちは、嘘じゃないんだと思う」

「その……お父様も、ご病気なの?」

「前からね。父さんは今、きみを()ているけど、いつまでも診られるわけじゃない」

「……お別れを言うために?」

「違うんだ。……そんなことじゃないんだ」


 言葉に詰まるように、シルハは視線を切った。


「うまく、言えないけど、それは嫌なんだ。すごく、すごく嫌だ」


 自分の中にある感情を探すように、彼は自分の掌を見つめる。少しの間、そうして黙り込んでいたが、やがて意を決するように顔を上げた。


「約束、させてほしい」

「約束?」

「うん、そうだ。そうすればいい」


 一人で納得したようにうなずくシルハを前に、ミアは首をかしげた。


「――ぼくがお医者様になって、きみのことを助けてみせるよ」


 不意にそんな言葉を受けて、驚きのあまりに胸が痛んだ。

 頬が熱くなる。それは、病気の熱とは明らかに違っていた。


「……ほんとうに?」


 かろうじて絞り出せたのは、短く小さな問い返し。


「ほんとうだよ。……嘘はつかない」


 ぼくは嘘が嫌いだ、と、彼は決心するように唱えた。


「だから、きっと――いいや、絶対だ。きみを助ける。約束だよ」


 そう言って差し伸べられた手を、自分はただうつむいて取ることしかできなかった。



 ――診療所に戻ってからは、案の定『子供だけで勝手に出かけるものではない』とひどく叱られた。しかし、自分(・・)は謝りながらも、穏やかな笑みを浮かべていたのだった。



◇◆◇



 シルハがミアを連れ出した一件から五年。

 何度か危うい場面はあったものの、ミアはなんとか命をつなぎ止め続けた。いくつもの病に身体をむしばまれながらも命脈を保ち、ついには成人を迎えたのである。

 やがて二人は婚姻を結び、それを機にシルハはシトフイク――ミアの生家へと移り住んだ。

 貧者にも惜しみなく知識と薬を提供する町医者として、彼が周囲の信頼を得るまでにはそう長い時間はかからなかった。

 ほどなくして互いの親が他界したあとも、二人はしばらく幸せな生活を享受していた。

 しかし――いつまでも病魔に勝ち続けていられるほど、ミアの身体は強くはなかった。

 彼女が二十五歳を数えた年、それまで罹患した経験のない種類の病魔が彼女を襲った。

 病弱な彼女の助けにならんと(シルハ)は労力を惜しまなかった。金にも糸目をつけることなく、高価な書物を買いあさっていた。

 それらを参考にしながら資産を食い潰す日々が続く。時折ミアはその行為を(いさ)めていたが、シルハは(がん)として聞き入れようとしなかった。

 ――もはや、長くはない。

 これまで幾人もの最期を体験してきたクイールは、自身(・・)の健康状態をそう判断する。これまでとは比べものにならないほど、体力が失われていた。

 ミア自身も理解していただろう。おそらくは、それを間近で治療していたシルハでさえも。無論、諦められるかどうかは別として、だが。


(あれは――)


 ベッドに伏せるミアの中で、クイールは視界の端に写った本へと意識を向けた。

 その多くは何の変哲もない医術書だ。医術にも満たないような、拙い内容の物さえ混じっていた。しかし、なかには本物(・・)が含まれていたのもまた事実である。

 それらは概してエルムスの教えに背く禁書のたぐいだった。〈聖代〉に生み出された、禁忌を犯す厄災の書。

 ミトラ国民の例に漏れず、彼ら夫婦もエルムス教の信者だった。であるにもかかわらず、シルハはみずから進んでその規範を破らんとしていたのだった。

 ただし、禁書を得たからといって、その術を扱えるようになるとは限らない。

 書物に記載された不老長寿の霊薬を精製しようとしてはことごとく失敗し、自身の寿命を他者へ分け与える秘術を会得せんとして自傷を行うことさえあった。本物であるかさえ疑わしい秘術書(・・・)の内容を、愚直に再現しようと彼はもがき続けた。


「どうしてだ。どうしてこれも成功しないんだ……? また嘘をついているのか、あの商人か、それとも、これを書いた医者か……」


 ミアが新たな病気に伏してから、およそ一年。彼は医業をたたみ、財産を食い潰しながら妻の看病と治療へ心血を注ぐようになる。

 その手に(たずさ)えるのは、ほとんど古文書に近い〈聖代〉の医書ばかりだ。シルハはもはや、現代の医書を開くことさえしなくなっていた。

 無論、従来の投薬を()ったわけではない。しかし、現代医療と〈聖代〉医療の両面から治療にあたっても、ミアの体調は上向くどころか、日を追うごとに悪化していった。


「この形は、どこかで……? いや、こんなものは求めている情報じゃあない。もっと、もっと効果のある薬を……」


 もはや研究と評しても差し支えのないほどに、彼は医術書に没頭していた。自身の体調を崩してもなお、ミアを助ける道を探し続けていた。

 ――だが、時間が圧倒的に足りなかった。


「ミア! そんな、まだ、まだ手はあるはずだ……! 待ってくれ、もう少し、もう少しで、君を助けることができるはずだ!」

「もう、いいのよ。あなたは、じゅうぶん、やってくれたわ」

「そんなことを言わないでくれ、頼むから、そんな……それじゃあ、まるで……」

「……ふふ、ねえ。覚えて、いる? あなたが連れて行って、くれた」

「覚えているとも! 何度だって、またあの場所に行こう。だからまだ……逝かないでくれ、ミア……!」


 彼の言葉に笑みがこぼれる。胸は苦しく、四肢さえも満足には動かなかったが、彼女は力を振り絞るように、シルハの頬へと手を伸ばした。


「暑くなって、きたけれど、きっと、まだ咲いているので、しょうね」


 シルハがその手を固く握りしめる。顔をゆがめて、こちらを見下ろしていた。


「ああ、そうだね。きっと綺麗だ。そうだ。この病気が治ったら、また一緒にあそこまで行こう。弁当でも持って行って、あそこは昼寝にも良いんだ。言ってなかっただろ? それだけじゃない。秋には少し進んだ場所に、たくさんコケモモがなるんだ。だから――」

「そう、ね。いつか、また、あなたと二人で、行けたら、素敵ね」

「……なんてことだ、助けてみせると、約束したのに。そのはずなのに、ぼくは……!」


 頬の上に、熱い(しずく)が落ちる。

 ひとつ、ふたつと触れる熱は、冷たくなっていく身体に染み入るようだった。


「ねえ、シルハ。わたし、は……」


 視界が闇に沈む。舌の先に死を感じる。それ以上の言葉は、紡ぐことができなかった。


「……まだだ。まだ、ぼくは諦めない。ミア、大丈夫。これで終わりじゃないよ」


 手を握られていることさえ、わからなくなりつつあった。

 薄れゆく意識の中、最期に聞こえたのは、暗く冷ややかなシルハの声だ。


「――きっと、きみを助けてみせる」


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