96.魔の者と黒いもの
予定通りの行程を進み、ここを通る旅人が利用する山小屋に無事に辿り着いた。
翌日、小屋の地図でみんなでルートを確認し、出発する。
狭い山道がほぼ一本道で、迷う危険はそれほど高くはない。
「以前より、魔の者が多少多い心持ちがいたします、十分に用心して進みましょう」
イーゴリは出立のとき、そう言った。
イーゴリがこっちの方面へきたのはもう何年も前だから、状況も多少変わっているかもしれないと付け加えて。
今は黒いものの問題もあるし、魔の者への影響は不明だが、関係ないとは言えない。
魔の者は昔からいるのに、その生態の研究は進んでいない。
多分、実体がないがために捕らえることができないからだろう。
一行が進んでいくと、それほど経たないうちに、また魔の者がやってくる。
「確かに、多いな」
ナターリヤが切り払いながら言った。
「こんなに多くちゃ、チーム組まなきゃ無理だろ。
大将、一人でここ通ってたんでしょ?」
「そうだ、こんなに頻繁には出ないはずだ。
……この道は今はまずいかもしれん」
魔の者を始末し終わり、イーゴリは厳しい顔になっている。
「姫さま、殿下。ここまでご足労いただいたのに、申し訳ございませぬ、
様子が普段と違いますゆえ、この道は避けた方がいいと判断します。
少し戻り、麓の農村地帯に変更しましょう」
「私は構わないよ。イーゴリがそういうのなら」
「これ以上深入りしないほうがよさそうだな、確かに」
ヴィクトルも同意する。
小屋の方面へ戻りかけたときーー
イーゴリが振り返って、魔の者の攻撃を剣で受け止めた。
獣型でも人型でもない、球体につのが四方に生えたような、生き物らしくない型だ。
そういう魔の者の記録は、あるにはあるが、大変珍しい型として扱われている。
触手のようなものを投げかけてくる。
黒いもので経験済みなのがこれ幸いと、イーゴリは何本も繰り出される触手を鮮やかに切り払い、魔の者を真っ二つにした。
と、そこから吹き出したのは、黒いもの。
イーゴリは素早く飛び退いた。
「イーゴリ」
「姫さま、お下がりを、旋律で対処いたします」
イーゴリは言うなり、旋律を出して浄化し始めた。
それにしても、あの魔の者の大きさに比べて、黒いものの量が異様に多い。
魔の者は既に消されてしまったが、残った黒いものは、地面に落ちて漂い始めた、
5メートル四方はありそうだ。
「おい、浄化より、逃げた方が良さそうだぜ」
ヴィクトルの声に振り向くと。
いつのまにか、同様の魔の者にぐるりと囲まれている。
ざっと数えて、10体以上。
これに全部黒いものが入っていて、かつあの量なら、取り込んだらまず意識が飛ぶ。
あとどれだけ現れるかわからないのに、意識を失ってしまうのは危険すぎる。
「殿下、ナターシャ。姫さまを間にして旋律の結界を」
「おう」
「私があの方向を突破します。
開いたら姫さまを連れて急いで抜けてください」
「イーゴリ、何するつもり」
ナターリヤに肩を組まれながら、サーシャはイーゴリの方へ体を乗り出そうとする。
「姫さま、ご心配なさいませぬよう」
そう言うなり、イーゴリは取り囲んだ魔の者の一角に切りつけた。
魔の者は真っ二つになり、同様に黒いものが吹き出す。
同時に、周りの魔の者から、イーゴリに向かって触手が何本も飛んできた、
イーゴリは旋律を剣にまとわせ、黒いものも魔の者の触手も次々切り飛ばしていく。
圧倒的な剣技。
魔の者は次々黒いものと化し、地面に広がっていく。
イーゴリが黒いものを切り開いた、
「行け!」
ナターリヤがサーシャの肩を抱いたまま、走り出す。
「待って、ナターシャ、イーゴリが」
「行くぞ」
ヴィクトルもサーシャの背を押し、共に走った。
3人は黒いものを通り抜け、そのまま少し離れたところまで走り切る。
「イーゴリ!」
サーシャはナターリヤを振り解くようにして後ろを向いた。
ナターリヤは肩から手は離したが、まだサーシャの腕を握ったままだった。
「ナターシャ、黒いものを取り込まないと、あれを細切れにして」
「私も浄化する」
イーゴリの方へ向かおうとーー
イーゴリの周りを漂っていた黒いものが、突如イーゴリを包み込んだ。
「イーゴリ!!
ナターシャ、早く、私が取り込む!」
「くそ、結構な量だぜ、サーシャ」
「おい、まだいるぞ!囲まれる」
ヴィクトルの声がする、
「ナターシャ!姫さまを連れて離れろ!」
黒いもののドームの中からイーゴリの声がした。
「大将!任せろ、出てきてよ!」
ナターリヤは言うなり、サーシャの腕を掴んで、ヴィクトルの方ーーイーゴリと反対方向へ走り出した。
「ナターシャ!待ってよ!イーゴリが!」
サーシャの叫びもむなしく、ナターリヤは容赦なくサーシャを引き連れて走る。
「ナターシャ、俺が足止めする、抜けてとにかく小屋を目指せ」
「頼んだぜ、ヴィーシャ」
ヴィクトルが魔の者に切り掛かっていく。あっという間に魔の者は黒いものを残して消え、ヴィクトルが旋律を勢いよく投げかけた。
その横を、ナターリヤがサーシャを引っ張るようにして駆け抜けていった。
…………
…………
サーシャの頭は混乱していた。
今までの指揮力はどこへやら、何も考えることができない。
頭はイーゴリのことで一杯だったのだ。
どうしていつもこうなのか。
意識を失う恐れがあるから、イーゴリが危ないというのに、何もできず逃げることしかできない。
何が、黒い神の資格だよ。
何もできない、ヴァシリーサ史上最悪の非力じゃねーか。
何度思ったことだろう、この怒りの感情がそのまま力になるなら、あっという間に全ての問題が片付くだろうに、と。
ナターリヤに引っ張られるまま、走り続ける。
ナターリヤの手を、振り解くこともできないのだ、ヴァシリーサ軍でもトップクラスであるナターリヤの力は、その辺の男軍人よりも上回るのだから。
ナターリヤが、現れる魔の者を切り捨てながら走っていたことにも気づかないほど、サーシャは混乱で見えていなかった。
やがて魔の者の出現地帯を抜けたようだ、ナターリヤが走るのをやめる。
ふと気付くと、少し先に昨日泊まった小屋が見えた。
「はあ、はぁ……なんとか抜けた……マジでやべぇな、この道」
ナターリヤは肩で息をしていた、サーシャも息を切らしている。
サーシャは初めて、ナターリヤが剣を抜いていたのに気付いた。
「サーシャ、立て直して助太刀に向かおう。
待ってくれ、回復魔法を……
……サーシャ?」
ナターリヤは、サーシャの表情が虚ろになっているのに気付く。
「サーシャ!しっかりしろ!
今から行けば間に合う!大将がそんなに簡単にくたばるかよ!!」
ナターリヤは、サーシャの肩を掴んで揺さぶった。
「くそ、弱気になってんじゃねーよ、気を確かに持て、サーシャ!」
サーシャの頬を軽く叩く、
王女に対しあるまじき行為だが、ナターリヤには王女かどうかなど関係なかった。
「ナターシャ……私は、何もできない」
「ふざけんな!今までどんだけのこと、貴様はやってきたと思ってんだ!
実績があるじゃねーか!
そんなこと考えてる暇があったら、さっさと反撃するぞ」
「結局限界があるから、ここぞってときに何の役にも立たない」
「今から巻き返しゃいいだろ?今できることをやれ!
ほら、行くぞ!
……無理だってんなら小屋に戻ってろ。私が行ってくる」
ナターリヤは、サーシャを睨み置いて、サーシャに背を向け来た道を戻っていった。
* * *
体が動かない。
イーゴリをすぐにでも、助けに行きたいのに。
気持ちだけが暴走している。
何で、体が動かない!?
行かなきゃいけないのに!
頭の中だけが激しく渦巻いていて。
ナターリヤの言う通りに救出に向かえばいいのに。
私は、イーゴリがいないと、動けもしない。
今までのこと?
イーゴリが側にいたからできただけ。
私一人じゃ、結局ーー
ここへきて。
イーゴリを取り込んだり、しないで。
私なら、受け止めてあげられるから。
目を閉じて、呼びかけた。
私は、何もできない。
何もできない自分が、本当に嫌になる。
私が意識が飛ぼうが、もうどうでもいい。
イーゴリさえ無事だったら。
意識が飛んだ後に黒いものが出たって、今までも眠りながら浄化してたらしいから、黒いものの中に倒れてればいい。
「我が主……我が主よ」
この声。
黒い神のしもべ。
「我が主よ。素晴らしき絶望の感情でございます。
我々の力となり、いずれは我が主のお力となりますでしょう、
絶望を恐れる必要はございません」
貴方の声が聞こえるって、
私、意識飛んでるの?
黒いもの、ここにはいなかったのに、取り込んでるの?
どうなってんの?
「黒いものは、地中を伝うこともできますので。
貴女様の呼びかけに導かれたのですよ」
えっ?
じゃ結局私が取り込んでんのか。
イーゴリは、無事なのか……
黒いものを体に感じた。
イーゴリの気配は……ない。
なら、きっと。きっと、無事なはずだ。
体から力が抜け、その場に座り込んだ。
黒い神のしもべ……呼び名がないと不便だな。
貴方、名前は?
「しもべに名などございませぬ。
人間であらせられるがゆえの習慣でございますね。
どうぞ、貴女様のお好きなようにお呼びくださいませ」
まだ黒い神じゃないんだし、貴方の主ってわけでもないけど。
じゃあ……
「オレグ。オレグと呼ぼう」
「はい、我が主よ。
名を賜りましたこと、この上なき栄誉でございます」
「貴方に会うには、こうやって黒いものを取り込んで、意識が飛ばなきゃ方法はないのか」
「ええ……私が、まだ現世に顕現できませんもので。
可能性があるとすれば、貴女様の夢でお会いできるかもしれません。
黒い神たる資格をお持ちの貴女様ならあるいは、という可能性でございます。
ただ、気をつけていただきたいのは、夢と同様にお目覚めになられるかどうかという点です」
「それはたしかに……
じゃあ、気軽にできないな。
貴方に聞きたいことはたくさんあるのに」
「私も、貴女様に知っていただかなくてはならないことがたくさんあります、
ですがもう、貴方様はお目覚めになるでしょう、ひとつだけお伝えしておきます。
魔剣クラデニエッツはたしかに、白い神の地に存在します。
現世に伝わっております通り、コシチェイを倒すための剣です。
ですがそれを扱えるのは白い神、あるいは白い神の眷属のみ。
そして白い神のものたちは、クラデニエッツを使うべき今、動いておりません。
白い神のものたちに、なんらかの力が働いているせいでしょう。
我が主よ、お分かりかとは存じますが、十分にお気をつけ遊ばしますよう」
「うん。ありがとう。
私も聞きたい、オレグ、クラデニエッツは、白い神の地は、こっちの方向で合っている?」
「はい。
貴女様がお聞き及びのように、現世におきましては東端に。
しかしそこに、我々にも把握のできぬ存在がございます。
我々と同等の存在とみてよいでしょう、どうか慎重にお進みくださいませ」
「うん。
オレグ、貴方も、気をつけて」
オレグがサーシャに深々と礼をするのを見ながら、意識が浮上していくのを感じた。




