87.黒い渦
ヴィクトルとナターリヤは、触手を払いながら、黒い渦の前まで到達した。
ヴィクトルはすぐに渦に切ってかかる。剣に力をまとわせて、刀身を魔法で伸ばし、その先にまで旋律を巻き付けた状態で、渦を切り裂いた。
切り落とされた渦が、黒い塊となって海に落下する。
それにすかさずナターリヤが旋律を投げかけて、浄化していく。
浄化しきれなかったものは、波にのって浜辺へと漂い、その浜辺ではヴァシリーサとイヴァンの警備兵たちが旋律で浄化する。
ナターリヤの仕事は、落ちてきた渦の断片をさらに細切れにすることに変わった。
どうも、黒いものはまとまりが小さくなるほど、触手を出す危険が減るようだ。
それにしても、ヴィクトルの力は改めて、すごいと思う。
渦がみるみる細くなり、時間にして10分も経過していないだろう、すべて、黒いものの断片と化した。ナターリヤと共に渦の断片をさらに細切れにし、旋律を出して浄化作業まで行う。
「よし、一旦陸に戻ろう。浄化は全員でできるしな、結界維持も労力になる。
ナターシャ、サポート、助かった」
「お安い御用っすよ、王子様」
「だからそれはやめろ、イーゴリの姫さまと変わんねぇじゃねーか」
軽口を叩きながら、二人は急いで氷と結界の道を走って浜辺に戻った。
氷と結界を作っていた警備兵たちがひと息つき、海は元通りになる。
後は、波に乗ってくる黒いものを浄化していくだけだ。
「しかし、黒いもの自体は、どれほど続くんだろうな、あっちの沖までずっと黒い」
「流出は、止まっていない、か。
早めに国中で脱出するしかないかな。
避難している者たちの脱出は、できているのか?情報がほしいな」
ヴィクトルは、部下を一人呼び、ペルーン中枢部へ伝言を頼もうとーー
「で、殿下。……あれを」
部下に言われて、海を見ると。
再びあの渦が、波間から浮き沈みし、高さを増していく。
「……マジかよ……」
ヴィクトルが思わず呟いた。
しかも、その少し隣に、もう一つ渦ができてきている。
「……嘘だろ。
これじゃ、どんだけ崩しても、キリないじゃん」
ナターリヤも、呆然としている。
「もう少し、足止めをする。
ペルーン首相に、全員退避を伝えろ。国全体の退避だ。
橋ではなく転移門での脱出と伝えろよ。早く、行け!」
ヴィクトルは、部下を向かわせた。
「ナターシャ。もう少し、付き合ってくれるか」
「アンタが私に頼む?命令すりゃいいだろ、アンタは王族なんだから」
「ああ、そうだったか。……だがお前は俺の部下じゃないだろ、命令を受ける義務はない」
「王族は守る義務があるだろ?
アンタなら誰だって服従させると思ってたのに、意外に気ィ遣いなんだな?」
「フン、王族以外で俺にそんな口を聞くのはお前だけだからな。
お前は対等だと思ってんだよ、命令なんぞする気はない」
「褒め言葉と受け取っとくよ。
……さて、もういっちょ、頑張るか」
こんなに規模が増してしまっては、自分たちだけでどうにかなるものでは、もはやない。
だが、もう少しだけ。
この国で務めを果たしている者たちが一人でも多く逃げ果せられるように。
自分たちも退避するつもりだが、
もう少しだけ、頑張ろう、そう決めて。
どちらからともなく、互いに腕を伸ばし、
拳を、触れ合わせた。
そしてーー
飛んでくる触手を、剣の特に優れた、ヴィクトル、ナターリヤ、そして護衛のルカが切り払い、
残りのものは触手の切れ端を旋律で浄化していく。
もう交代要員を呼ぶ余裕もない、そうするくらいならいっそ全員で退避した方がいい。
時間が経つにつれ、触手の数が増してくる。
そろそろ、退避やむなしか。
ナターリヤが、ヴィクトルにそう言おうとしたとき、馬の足音が聞こえた。
「やっべぇな、これ」
思わずその声に振り返った、
馬から降りてきたのは、サーシャとイーゴリ、セルゲイだった。
* * *
サーシャは、特に動揺も焦りも見せず、浜辺にやってくる。
イーゴリとセルゲイが、剣に旋律をまとわせ、サーシャの身辺を用心深く守っている。
「サーシャ。大丈夫か」
「一応、薬で頭痛抑えてるから」
「退避しなかったのか、どうして」
「この子たちは、私が受け止めないと」
「この子たち?」
ナターリヤは、サーシャの言い方に疑問を覚えた。
黒いものが、身内であるかのような言い方。
初めて聞いた気がする。いや、確かに初めてだ。
「黒いもののこと」
「なんか……生き物じゃないのに、親しそうな感じだな」
「ああ……そうな、なんか身内みたいな感じがしてる」
どうなったらそうなるのかよく分からないが。
黒いものをずっと取り込み続けて、そうなったのか?
「ナターシャ、ヴィーシャ、状況を教えて。
セルゲイ、触手に気をつけて、ルカと触手を払って」
「かしこまりました」
セルゲイが前に出て、ナターリヤはサーシャとイーゴリに状況を説明した。
ヴィクトルも一旦戻ってくる。
「ああやって黒いものの渦ができてるんだ。旋律を使ってるから、反動じゃないとは思うんだが、理由はわからない。もう退避しようとしたところだ。もう私たちの手には負える量じゃねーぞ」
「サーシャ、お前は退避したと思ったのに。お前がこの状況を打ち破る必要はないんだぞ」
「うん、でも、この子たちをこのままにしては去れないから」
この量なのに、サーシャは至って普通の表情だ、むしろ、優しい表情をしている。
サーシャは、ヴィクトルとナターリヤの間を抜け、段々黒いものと化してきた海に近づいていった。
「殿下、危険です!結界を張ります」
ヴァシリーサの警備兵が進もうとしたが、
「あ、結界いらない」
サーシャが止める。
警備兵は、訳がわからず、きょとんとしてサーシャを見ていた。
サーシャはその横を通り過ぎ、そのまま波打ち際まで進んだ。
イーゴリがサーシャの少し後方で、サーシャの背中を油断なく見張っていた。
サーシャが、足首辺りまで黒い海に入ると。
すぐに、黒い光がサーシャの体から立ち上る。
サーシャはしばらくの間、そこへ立ち尽くしているようだった。
だがヴィクトルも、ナターリヤも、少し経って、触手が数を減らしたのに気づいた。
……少しずつ、収まって、いる?
量が目に見えて減っているわけではないが、サーシャが少しずつ、沖に足を進めていることから、それがわかる。
サーシャは時間をかけて、今は膝かさくらいまで、黒い海に浸かっていた。
ほどなくして、渦が一つ、しぼんでいき、波の上から姿を消した。
「……嘘だ……サーシャ……」
ナターリヤが、思わず呟く。
ヴィクトルも、いつになく驚いたような表情で、目の前の光景を見つめている。
「サーシャは……あれは人の可領域を超えてるとしか……
神の末裔だからって、人は人だ、
……ヴィーシャ、サーシャは、どうなるんだ……」
「俺に聞くな……
だが……何だこれは……同じ親から生まれたのに、神の末裔である俺なのに、
あいつに、畏敬の念が沸くとは……」
何かを超越しているように感じられてしまう、
なんとも、奇妙な感覚だった。
その先を見てしまうと、まるで別の空間に囚われてしまいそうな、そんな感じに襲われる。
互いに見失わないよう。
ヴィクトルとナターリヤは、無意識のうちに手を取り合い。
己の存在を、確かめ合う。
…………
…………
いつしか触手は止んでいた。
だがセルゲイは、隣で構えるルカと共に、油断なくサーシャとイーゴリも含む、一帯に注意を払い続ける。
サーシャが結界も旋律もなしに黒いものの中に入っていったのには驚いた。
黒いものは人を取り込むと聞いていたのに、イーゴリはサーシャを止めないし、サーシャは黒いものに取り込まれも貫かれもしなかった。
サーシャが黒いものを取り込んできたということが、ようやく本当に理解できたのだ。
渦が収まっていく、黒い光が立ち上るサーシャの背中は、なんというか、神々しい。
まるで、女神ヴァシリーサのような、
いや、もしかしたら、ヴァシリーサよりもーー
「大丈夫か」
声をかけられ、我に返る。
今、一瞬、意識が飛んだ?
気づくと、ルカがこちら見て、自分の腕を掴んでいた。
「ルカ、殿」
ルカが言葉を発するのは、そういえば……初めてだ。
彼は全く、喋らない。
ヴィクトルが話しかけていても、僅かな相槌や礼などをするだけで、言葉は発さないのだ。
ヴィクトルはその状態を許しているようだ。
だが、なぜ今、言葉を発したのだろう?
「倒れかけていたぞ」
「……かたじけない。失礼ですが、貴殿が話されるとは思いませんでした」
「なぜかはわからんが、お前には言葉が出るみたいだ」
ぶっきらぼうな言い方だが、嫌な感じはしない。
「見ろ」
ルカの視線を追って、振り向くと、イヴァンの兵も、ヴァシリーサの兵も、皆倒れている。
「まさか、黒いものに……」
「違う。触手は飛んでないし、黒いものに貫かれてもいない。
……当てられたんだろう、王女の何かに」
「殿下の……確かに僕も、殿下のお姿に吸い込まれそうになった。
貴殿は大丈夫だったのか」
「自分は王女をそこまで凝視していなかったからかもしれない」
見れば、ヴィクトルとナターリヤも倒れてはいないが、二人で支え合って、なんとか意識を保っている様子だ。
「殿下は……あれは、なんなんだ……」
意識を取られないように、セルゲイはサーシャから目を逸らす。
イーゴリも、倒れてはいない、だがその表情はどうなっているのか、その背からはわからない。
渦がもう一つ、姿を消そうとしている。まだ黒いもので沖は黒いが、波は穏やかになっていた。
気づくと、全身に鳥肌が立っている。
手が震えそうな気がする。
自分も、殿下のお力に当てられたのか?
「気を確かに持て」
ルカが、セルゲイの側に寄り、そう囁く。
心強い、と思う。
一人では、あの力に飲み込まれてしまいそうだ、倒れている警備兵たちと同じように。
「ちょっと、頼りにしてもいいですか、ルカ殿……」
ルカが振り返り、黙って手を差し出してくる。
そして互いに、手首の辺りを握り合った。
これでなんとか、意識が引き込まれずにすみそうだ。
サーシャを護衛するどころか、その場から動くのさえ、ままならない。
セルゲイはルカの腕を握りしめて、必死に意識を保つだけだった。
* * *
この量を取り込むのは、いくらなんでも無理がある。
さっき、眠らされてた間にどのくらい取り込んだのかわかんないけど、
あれであんな頭痛だろ?
こんだけ取り込んだら、頭ヤバいんじゃね?
文字通り、頭割れるかも。
でも、この子たちを残していくか?というと、
そんなことはできない。
置いていったら、怒って暴れるでしょ。
ああ、もう、
北まで行っちゃってる。
北から逃げていった連中を、橋の途中で、取り込んだでしょ?
まぁ、仕方ないか、
奴らも自ら呼び寄せたようなもんだ。
だからいいよ。
さて、どうしよ?
コシチェイの一部になるのは、苦痛なのが、さっきなんとなく分かった。
それにしても、この量は、いけるもんなのかな。
もちろん、私が大丈夫な限りは、還してあげるけど。
…………
…………
後ろで、警備兵たちが倒れ、ヴィクトルやセルゲイたちが必死で意識を保っている間、
サーシャはただただ、黒いものを取り込みつつ、黒いものと意識の中でやりとりをしていた。
さっきナターリヤに言われて気付いたのだが、
いつから、黒いものを身内みたいに感じていたのだろう?
身内、というか、自分の一部、または、自分の庇護するもの、そういった表現がいいだろうか。
自分でもよく分からないままだし、理由も分からないが、黒いものを取り込む量が一定量以上になったとさっき言われたし、何か自分の中で変化があったのだろうか。
コシチェイは、しばらく放っておくほうがいいかもしれない。
受け入れようと思ったけど、反発したから。
でも、刺激しなければ、何も起きないんじゃないかな。
この国の人にとって、活火山を近くに抱えてるような、不安要素ではあるけど。
ーー我が主よ、思うようになされませ。
貴女様なら、大丈夫です。
また、あのしもべの声。
え、黒いものを存分に取り込めばいいってこと?
じゃあ、おいで。
黒いものに呼びかけた、その瞬間、目の前が暗くなった。




