86.留まるものたち
ヴィクトルは、浜辺を見渡す。
確かに、波に乗って、沖から黒いものが押し寄せ、浜辺を覆っていた。
部下たちに旋律を出してもらい、浄化を試みている。
訓練はしているが、訓練よりも実戦の方が精神力を使う。
部下たちの気力、体力にも注意しておかなければならない。
ルカはいざというときに備え、側に控えさせている。
ルカには、万が一があれば自分を運んでもらわなければならないかもしれないからだ。
サーシャはあれからはもう1時間ほど経ったから、そろそろ目が覚めただろうか。
サーシャがどういう判断を下すか分からないが、サーシャが来るか、知らせがあるまでは、この黒いものを広げずに保っておきたいところだ。
黒いものは、まだ少しずつ量を増してきている。
「よし、大使館に交代を伝えてくれ。要員が到着次第、引き揚げて休め。それとヴァシリーサへ伝言を頼む、人員の余裕があればよこしてくれと」
「かしこまりました、殿下!」
部下が一人、大使館に向かった。
「お前ら、もう少し頑張れよ」
「もちろんです、殿下」
「殿下こそ、お力は最後にとっておかれませ。ここは我々にお任せを」
国から選別された部隊だ、ちょっとやそっとでへたり込む者たちではない。
「ヴィーシャ!」
声がして、振り返った、
走ってきた馬が止まり、その背からひらりと降りてきたのは、
頼もしき近衛隊長、ナターリヤだ。
「おい、応援に来たぞ。どんな具合だ、黒いものは」
「応援だと?お前はサーシャについておかなきゃならんだろうが、俺の手助けなんかしてる場合か」
「んだと、せっかく助太刀に来てやったのに!
大将が行ってこいって言ったんだよ、それにサーシャは……」
術をかけられて1時間経っても、目覚めないという。
イーゴリに言われている、いざとなったら退避をすることも、ナターリヤは伝えてきた。
「何なんだ、サーシャ……
つーか、その、ヤジのせいじゃねーか。しかもその連中が真っ先に逃げてるって?
本当、救いようがねぇな」
「まったくだ」
ナターリヤはヴィクトルに報告しながらも、早速旋律を黒いものに投げていく。
「サーシャの様子がはっきりするまで、力を使いすぎるなよ」
「わかってる」
「ぶっちゃけ、旋律ももう気休めでしかねぇな、サーシャがあんな量を取り込みだしたから」
「確かに。旋律でできる量なんて、たかが知れてる」
* * *
イヴァンの交代要員が到着し、ヴァシリーサの警備隊からも応援が来た。
皆で旋律を紡いでいたのだが……
波に混じる黒いものの動きをヴィクトルが見つけた。
「動きがある。注意しろ、少し下がるぞ」
ナターリヤも、波に混じって黒いものが高さを得ているのを確認した。
次第に黒いものが盛り上がり、海の上で、渦を巻き始めた。
海の上に竜巻が発生したかのようだ。
周辺の波も荒くなり、風が起こる。
海の上の黒い渦巻に、触手のようなものが見え隠れし始めた。
「やばい、あれは飛んでくる可能性がある。
お前ら、私より前に出るなよ!」
ナターリヤは、旋律を巻きつけた剣を構えた。
ヴィクトルとルカも、同様にする。
触手が何本も蠢き、長く伸びて、こちらへ飛んできた、
各々、旋律をまとわせた剣で切り払い、切り落としたものを旋律で浄化していく。
「旋律で結界を張れ、なんか黒いものが増えてねーか?」
「ああ、増えてるな、急に暴れ出した」
触手が数本まとめて、飛んでくる、
ヴィクトルが旋律の結界を飛び出し、向かってくる触手を迎撃した。
ヴィクトルの剣に刻まれて落下してくる触手の破片を、警備兵たちが旋律で浄化する。
ひらりと身をひねり、ヴィクトルはナターリヤの横に降り立った。
「さっすが、王子様」
「んなお世辞、いらねーよ、王子様はよせって言ってんだろ」
軽く言い争うが、緊張感を紛らわすための軽口だった。
「渦を止めないと、触手はいくらでも出てくる」
「コシチェイの本体……じゃ、ないっぽいよな、あの規模じゃ」
「じゃないだろう。だがこれじゃ防戦にしかならねぇな」
渦まで、100メートルの距離といったところか。
「よし。ミーシャ、お前は氷系の魔法が得意だったよな。あの渦に向かって、水を凍らせて道を作れるか?」
「正直厳しいですが、やりましょう」
「任せたぞ。ヤーシャはその氷の上に結界を張ってくれ、結界の上を行くなら薄氷でも多少持ち堪える」
ヴィクトルは、次々に部下に指令を出し、渦に向かって道を作らせる。
イヴァンの国のエリートたちの魔法は、実に強くて見ていて安心感を覚えるほどだ。
「ナターシャ。これで渦まで突っ切るぞ」
「突っ切って、その後どうすんだよ?」
「俺があの渦を細切れにする。お前に片っ端から浄化を頼みたい。
あいつらには結界の道の強化と、後で黒いものを一気に浄化する旋律を頼もう」
「ヴィーシャ……
サーシャを待たないのか」
「睡眠術から覚めたばかりの体じゃ、動けやしない。
あいつが何とかしてくれることを待ってていいもんか。
黒いものの責任は、あいつにはない。義務もない。
違うか?ナターシャ」
「……そうだな。違わない。
サーシャに、世界のことなんか考えさせないさ」
「そうだろ。
分かったら行くぞ……1、2、3!」
ヴィクトルとナターリヤは、一気に、黒い渦に向かって走り出した。
* * *
川沿いの道を駆ける馬が2頭。
一頭にはイーゴリとサーシャ。
もう一頭にはセルゲイ。
この辺りはほぼ海との境なのだが、河の中に、見るからに黒いものがある。
そして前方に見える海は、沖の方が黒く染まり、
それが海辺にまで流れてきているようだ。
一目見るだけでも、取り込むにしては、あまりに厳しい量だ。
頭痛も薬のおかげでようやく軽くなったところだというのに。
ていうか、結局コシチェイ討伐って、クラデニエッツがいるんだよな?
まだないし、今無理じゃん。
そんなことを考える。
西の橋に近づくと……
橋の傍に入国ゲートがあるのだが、そこが大混乱に陥っているようだ。
西の橋を通ってキイ王国へ逃げたい者たちが殺到しているのだろう。
だが、ヴィクトルからのペルーンへの指示で、西の橋は通行止めにしてある。
河口に近いこの西の橋を渡れば、河川にいる黒いものに襲われる危険性が高いからだ。
橋の下道を進もうとした、そのとき、橋の手前で爆発音がした。
「イーゴリ。止めて」
思わず馬を止めさせる。
「爆発音だった。鎮めた方がよさそうだ」
「急いで浜辺に向かわれた方が、よろしいのでは」
イーゴリが言うが、サーシャは、さっさと馬を下りてしまった。
「イーゴリ。ここで橋に人が流れて、黒いものが襲えば、こっちの負担になる。消せる火種は消しておきたい」
「……かしこまりました」
サーシャに言われて、確かにそうだ、と思い直した。
黒いものによる犠牲者が出れば、黒いものが増え、サーシャの負担が増えるということなのだ。
セルゲイも馬を下りて、イーゴリの馬と2頭を曳き、サーシャの後に続く。
…………
…………
西のゲートを、群衆ーー平民も、軍人も含むーーが取り囲み、
ゲートを通さぬよう、制服を着たペルーンの職員が武器を手にして構えている。
両者の間には、魔法か何かがぶつかったらしき跡があり、煙が立ち上っていた。
「開けやがれ、俺らを閉じ込めて殺す気か!」
「危険故にこのゲートは開けるわけにいかんと言うのが分からんのか!」
力づくで通ろうというのか、ペルーンの職員に斬りかかろうとする軍人がいた。
ペルーンの職員が、必死で応戦している。
「セルゲイ、先導を。あと打ってくるやつは黙らせろ」
「はっ、お任せを!」
サーシャの命で、セルゲイは端の方の群衆をかき分け、サーシャに道を開けた。
ペルーンの職員に、どこかの軍人が再度、切りかかってくる、
それをはね返したのは、セルゲイだ。
軍人は、自分のかけた力をそのまま返され、勢い余って後ろに吹っ飛んだ。
「貴方は、ヴァシリーサの……」
セルゲイの制服に、ペルーンの職員は気付いたようだ。
セルゲイの後ろから、サーシャがイーゴリに厳重に守られながら姿を現す、
ペルーンの職員たちも、取り囲む群衆も、それに気づいた。
「……ヴァシリーサの王女!」
「何しにきたんだ……」
サーシャはゲートの真前まで来ると、ペルーンの職員を背に、群衆に体を向けた。
「ペルーンから通達があったように、この橋を渡ると襲撃される恐れがある。
諸君は避難所のペルーン会議施設に速かに避難せよ!」
サーシャの小柄な体躯から出るのが不思議な、威厳ある、太い声。
一瞬、群衆はたじろぐがーー
「何言ってやがる!
この国にいるのが危ないんじゃねぇか!
一刻も早く国外退去して……」
「橋を渡れば間違いなく襲われるぞ?
避難所にいる方が、まだ時間の余裕がある。
どうする、犠牲になるつもりがあるなら、橋を渡ってみるか?」
そう言われて橋を渡ろうとする剛のものは、ここにはいないようだ。
勢いが良さそうだった軍人たちが、面白いように目を伏せている。
「その制服は……ムーロメツ国のものだったか。
貴様の主君はもう脱出したとか?」
「……っ……王を真っ先に逃すのは、当たり前だろ……
北の門から、もう脱出されたんだよ!王と、上位貴族の連中はな!」
「う、うちもだ、王は北から避難された」
「オレのところも。だが大使館の人員は、最後まで残らなきゃならないと定められてる」
「北の橋は混雑していて通れない。ここしか脱出できる可能性がない!」
群衆には、大使館の職員も多数混じっているようだ、
王が逃げ果せたので、下のものたちも、大使館を棄てて逃げようとしているのだ。
「だから、待て!
橋の方が危険だと言っている。
いいからこの国内の高所に避難しろ。
何なら、ヴァシリーサの大使館に行くといい、
受け入れ態勢は整えている」
サーシャは、言い放った。
「う、嘘だ、そんなわけがない!」
「神の末裔に我が王が逆らったからって、下っ端を処刑するのか!?」
「貴様らを処刑なんかして私に何か得があると思うのか?
心配ならペルーンの会議施設に避難するといい、中立だから処刑なんかない。
私がこれから黒いものを収める。
それまでの間そこで待っていろ、わかったら、早く行け」
群衆が、顔を見合わせる。
彼らは、黒いものというのを初めて見たのだ。
それが危険だと王から告げられており、
だが目の前の王女である少女が、その危険なものを収めに行くという……
王女の傍らに立つのは、セルゲイとイーゴリ、
下っ端の彼らでも目撃したことのある、ヴァシリーサの有名な武官たち。
そんな彼らが、いまだこの国に留まって、対処しようとしている。
自分たちの主君は、とうに退避したというのに。
主君がヴァシリーサを悪く言っているのは皆知っている、だが、自分の目でそのヴァシリーサの者を見ると。
金に汚いと聞いたが、そんなことより、お役目を果たそうとされているじゃないか、
王女も、部下もーー
「ペルーンの皆さんも、ここは危なくなってきています。完全封鎖して、高所、建物の3階以上に避難してください」
王女が、後ろにいるペルーン職員にそう言っている。
職員たちは、もう群衆に襲われることはなさそうと悟り、ゲートの封鎖作業を開始した。
「早く、行きな!
忠告したから、後は知らねーぞ、ヴァシリーサでもペルーンでもいいから、とにかく高い所に避難しろ。
イーゴリ、セルゲイ、ここはもうこれで、出発だ」
サーシャはさっさと踵を返して、セルゲイがつないでいた馬の方へと向かった、
セルゲイとイーゴリも続く。
3人ともすぐに馬にまたがり、拍車をかけようとしたーー
「ヴァシリーサの王女様!ありがとうございます!」
群衆から、そんな声が飛んでくる。
「なぜ、我らが主君が無礼を働いたのに、助けてくださるのですか!」
サーシャは振り向き、群衆を見下ろして言う、
「黒いものの犠牲になったら、こっちの負担が増えるから、やめてほしいだけだ。
別に人助けのつもりじゃない。
私は別にいい人なんかじゃないからな」
イーゴリが拍車をかけ、馬は走り出した。




