84.眠る王女
イーゴリは、サーシャの部屋の扉をノックした。
顔を見せたのは、ナターリヤだった。
「大将。まだ、起きてない」
「……そうか」
「入る?」
「いや。……シャワーを浴びてくる」
「もちろん。……収まった?」
イーゴリは返事の代わりに肩をすくめて、ナターリヤに背を向け、自室に向かった。
ナターリヤは少しの間、兄の背を見送り、そっと扉を閉める。
兄が怒りを剣で発散したいのは分かっていたから、サーシャをベッドに寝かせた後、自分がサーシャを見ておくと、兄に自由にしてもらっていたのだ。
途中、セルゲイがイーゴリに頼まれたからとサーシャの様子を見に来て、
裏庭でイーゴリが鬼気迫る勢いでアルセニー始め警備兵たちと剣を交えていた、と教えてくれた。
さっきのイーゴリはだいぶ落ち着いた感じだったから、ある程度は気が鎮まったのだろう。
「あれは、連合諸国の連中だよな」
「間違いございませんでしょう」
「……うちは、結構嫌われてるみたいだな?」
「……その昔、我が国に侵略を試み、撃退された国家ではないでしょうか?
神々の末裔の国々に反発する形で発生した国家も少なからず存在します。そういう国々は、必ずしも神の末裔に敬意を払うとは限らないようです。
……大臣閣下の受け売りですが」
「なるほどな」
「大臣閣下も又聞きだそうですが、ヴィクトル様ご懐妊の折、そういった国々からだいぶ誹謗中傷があったそうですから」
「神の末裔など恐れない、って感じか。
ちょっとキズができると、揚げ足取りで一気に非難するってやつだな。
……やれやれ、あの連中が大将よりも潔白なわけないだろうに」
セルゲイも同意する。
また様子を見に来ます、といって、一旦引き下がったのだった。
サーシャもイーゴリに対して気が立っているかもしれない。
目覚めたとき、イーゴリより、自分がいた方がいいだろう。
ナターリヤは寝室のドアを開け、サーシャの様子を伺う。
サーシャは、それは静かに眠っていた。
午前中だけの会議だったが、そこまで消耗したのだろうか?
イーゴリのかけた睡眠術は、そんなに効果が持続するものではないはずだ。
三十分もすれば目覚めるはずだったが、もう一時間くらいにはなる。
……起こしてみた方がいいか?
「サーシャ」
声をかけて、肩を叩いてみる。
反応はない。
イーゴリが、術に力を込めすぎた?
サーシャも暴れていたし、強めにかけたのかもしれない。
術で眠らせたのを、また覚醒術で起こすのはよくないとされているから、しない方がいいだろう。
目覚めるのを待つか。
ナターリヤは、一旦寝室を出た。
* * *
しばらくして、イーゴリが再び姿を見せた。
「姫さまは、まだお目覚めにならないのか」
「ああ、うん、まだっすよ。
さっき起こしてみようと思って、呼んだけど、反応なくて」
「……おかしくないか?もう一時間過ぎた」
「ちょっとおかしいと思ったけど。
大将、強めにかけたりした?」
「いや、はっきり言えるが、本当に軽くかけたんだ」
「……もう一回、起こしてみよう」
二人で寝室に入った。
サーシャは微動だにせず、変わらず静かに眠っている。
「姫さま」
イーゴリが、呼びかける。
反応はなかった。
「姫さま!」
イーゴリの表情が、やや険しくなる。
「ナターシャ。姫さまのお手を取ってくれ、反応を確かめたい」
「了解」
ナターリヤはサーシャの右手を取り出し、イーゴリに渡す。
イーゴリがその手を握り、また呼びかけた。
「大将、なんか、外が騒がしい気がする。ちょっと見てきます、ここは開けておく」
ナターリヤが寝室の扉を開けたとき。
「ナターリヤ殿!緊急事態です。
国の南端、浜辺にて、黒いものが出たとの報告が入りました!」
知らせに来たのは、セルゲイだった。
「黒いもの!?マジか!
……っ、サーシャがまだ起きない……
セルゲイ、詳しい情報はあるのか?それと、ヴィー…… ヴィクトルには連絡がつくか?」
「ヴィクトル様が知らせて下さったのです。
殿下は今、知らせを受けて、黒いものが出たという現場に向かわれております」
「……私も向かった方がよさそうだな。
大将、聞こえましたか?」
イーゴリが寝室から出てきた、さすがに若干の焦りが見える。
「聞こえた。俺はここで姫さまの様子と状況を見る。
ナターシャ、お前は殿下の護衛に向かえ。
お前なら引き時も分かる、状況を見て殿下と退避しろ、いいな。絶対に無理はするな」
「もちろんです、大将。
サーシャを頼みましたよ」
ナターリヤは部屋を出て行く。
「セルゲイ殿、医術師殿をお呼びしてくれ。
多分、術は切れているはずだ……それを確認してもらいたい」
「かしこまりました、すぐに」
セルゲイも出ていった。
……黒いものの出現と、関係があるんだろうか?
尚もサーシャに呼びかけながら、ふと、そう思った。
イヴァンの国で黒いものを取り込んだとき、ペルーンの手前で倒れたとき、黒い空間にいた、とサーシャは言っていた。
いずれも、今のように静かに眠っていた。
……もしかして、その、黒い空間にいらっしゃるのか。
これだけ呼びかけに反応しないのは、明らかに異常だった。
医術師が部屋に来た。
ヴァシリーサの国は代々女王だから、王家専属の女性の医術師が、城と大使館それぞれにいる。
サーシャの状態を、医術魔法を用いて素早く診察して、怪訝な表情を浮かべた。
「姫さまの御身に、魔法痕はございません。イーゴリ殿のかけられた魔法は確かに、もう効果を消失していると判断して間違いないでしょう。
ただ、妙なのが……
わたくしも、こんな状態は、実は初めて見るのです、おそらくどの研究書にも載っていない。
……お心とでもいいましょうか、意識といいましょうか、意志を司る部分が、見当たらないのです。
何か、心当たりは、イーゴリ殿」
イーゴリは、黒い空間にいたというサーシャの話をした。
その可能性は、医術師の診察により、さらに確信を増している。
だが、どうやってサーシャを引き戻せばいいのか。
医術書にも載っていない状態など、当然、治療法など誰も分からないのだ。
「……今までは、私の呼びかけに反応してくださっていた。呼びかけているうちに、目覚められた。
今回もそうするしかないと考えております」
「……では、お任せしてもようございますか。
わたくしがこの場にいても、これ以上お役には立てませんでしょうから。変わったことが起こりましたらすぐにお知らせくださいませ」
医術師は、サーシャの部屋を辞した。
「姫さま。……お目覚めください」
こうするしかない。
サーシャの手を握って、何度も、呼びかける。
……黒い空間にいらっしゃるとして、何をなさっているのだろう?
以前、黒い空間で、コシチェイに対峙したとおっしゃっていた。
コシチェイと、戦っておられる?
仮にそうだとしたら……
ここで俺にできることは、何か。
イーゴリは、サーシャにかけられているシーツをどけた。
ベッドの端に腰掛け、サーシャの体を起こし、いつも眠るサーシャにするように、抱きかかえる。
力の入らないサーシャの体が、イーゴリの胸に寄りかかってくる。
サーシャの体に腕を回して、抱き寄せた。
「姫さま。黒い空間にいらっしゃいますか。
……戻ってきてくださいませ」
ずっと、話しかける。
サーシャを支えて、呼びかけるだけ。
自分が黒い空間に行けない以上、サーシャに対してできることは。
安心できるところに置いてやることだけ。
自分のところなら、姫さまは安心してくださる。
包み込んで差し上げるだけ。
「……サーシャ……」
思わず、そう呟いていた。
「……戻ってきてくれ……」
心から、絞り出すように。
そっと、呟いた。
そのとき、サーシャの腕に、わずかな反応を感じた。
「姫さま。姫さま!」
我に返って呼ぶ。
サーシャの指先が、少しだが、明らかに動いた。
「姫さま!お戻りなさいませ!」
きっと、目覚めてくださる!
サーシャを抱きしめ、呼びかけ続けた。
* * *
辺りは、真っ暗だった。
……え、また、黒い空間?
黒いものをたどったわけじゃないのに。
何があったっけ?
思い出そうとする。
……イーゴリに、掴まれてて。
急に、気を失ったんだっけ……?
私、怒ってた?
何に?
…………
ああ。
イーゴリを侮辱した奴がいた。
その前に、お母さまを。
自分のことはどうでもいい。
お母さまを、イーゴリを侮辱するのは、何をおいても許せなかった。
何もできないのに、自分を見失って、キレてたな。
黒いものに飲み込ませてやろうか、みたいに思った。
そうだ。
イヴァンの国で処刑したみたいに、黒いものを操れるような気がして。
実際にそんなこと、できやしないのに。
……で、黒い空間にいる?
何でここにいるのか、ちょっとつながらないんだけど。
どうしようかな?と思って、しばらくそのまま、じっとしていた。
戻り方もわかんないし。
何も、いないし。
そのうち、目が覚めるかな?
一旦意識が途切れたからなのか、侮辱に対する怒りは、今は収まっている。
多分、対峙したら再燃するだろうけれど。
以前はこの空間が怖くて不安だったが、
今は、一息つけるくらい落ち着けている。
黒いものはいっぱい取り込んできたし、馴染んでいるのかもしれない。
…………
…………
ざわついてる?
上の方が。
何だろう。
黒いもの?
上の方を意識してみる。
何か、漂っている気がする。
やっぱり、黒いものか?
上に向けて手を掲げ、意識を向けた。
黒いものなら、こっちへ来い。
漂うしかないだろ。
私しか、受け入れられないんだろ。なら、おいで。
掲げた腕に、黒いものがまとわりついてきた。
何だか、熱い気がする、
……ああ、怒りかな、これは。
私が怒ったから、周辺にいた黒いものが反応したのか?
怒りをもつ黒いものたちは、苦しそうで助けを求めているように感じた。
ごめんね、怒って。
大丈夫だから、こっちにおいで。
いつものように、自分の体から黒い光ーー真っ暗な中で輝いて見えるのに、黒い光と言っていいものかどうかわからないが、黒い光、という表現が一番しっくりくるーーが立ち上っていく。
イーゴリは、側にいるだろうか?
呼びかけてくれるだろうか。
まず自分を放っとかないとは思うが。
取り込みすぎて、ここで意識が途切れるのもまずいし。
そんなことを思いながら、しばらくの間、取り込み続けていた。
意識は、まだ問題なさそうだ。
というか、もう、意識がない状態だからか?
……背後に、何か大きなものを感じた。




