7.王女の一面
少しずつだが、黒いもののかさは増えている。
足首までだった黒いものは、足首を超えてきた。
アレクサンドラにはまとわりつかないのだが、なぜかナターリヤには這い上がろうとするので、
ナターリヤは剣で払いながら進み続けた。
だが、剣で払っても払っても、水を切るのと同じで、黒いものはすぐ払われた空間を満たしてくる。
剣が効くと思ったが、払っているだけで、消えてはいないのか。
とにかく正体が全く分からない状態だ。
魔法も試したいが、人々が逃げ惑う中魔法をぶっ放しては混乱が増すばかりだろう。
途中で面倒になってきたナターリヤが、結界を張ったまま走るという方法を思いついた。
試しにやってみると、黒いものが結界に阻まれ、船が波を切るように進むことができる。
魔力の枯渇には気を付けなければならないが、
もう少しで城だし、剣を振り続けるよりは楽だろう。
結界は効くようで、少しばかり安心だった。
街から逃げてくる人の多さも増え続けている。
無理もない、女神ヴァシリーサの国は世界有数の大国で、城の前方にある王都は住人のみならず、商人や旅人でいつも賑わっているのだ。
しかも今は生誕祭の期間中である、
市中は普段より活気を増していたはずだ。
馬や馬車で逃げれば間に合いそうだが、自力で逃げようとする人々は大丈夫なのか。
水のように低地に溜まっているから、とりあえず高いところに逃げればいいのだろうか?
この黒いものは、どこから。
なぜ。
誰が。
アレクサンドラは、母やイーゴリに尋ねたいことを頭に浮かべながら、ナターリヤについて走った。
…………
…………
何とか、城の外門が見えるところまでたどり着く。
城からは、馬車が次々に出てきている。
城の敷地内には、王立学校や学生寮、使用人の宿舎、軍隊の宿舎などが揃っているが、
外門は鋼鉄製の柵でできていて、黒いものを堰き止めることはできない。
多分、学長や寮長が城から退避の指示を受けたのだろう。
馬車なら早く、走るよりは安全に脱出できると思う。
ちなみに内門は壁で外とは遮断されているから、大丈夫だと思いたい。
でもこの調子で黒いものが増えてきたら、城は水攻め状態になるのか。
黒いものがどこまで、いつまで増え続けて、どうやって引くのかもまったく分からない。
籠城は、おそらく得策ではないだろう……
城内の様子を把握でき次第、城は棄てる覚悟をした方がよさそうだ。
そのとき、女性の悲鳴が響いた。
少し前で、馬車に追い越された勢いで女性がふらつき、黒いものの中に転倒した。
すると。
黒いものが女性の体を這い上がり、みるみる全身を覆っていく。
「なっ、なんだ、ありゃ」
「ナターシャ、助けるぞ。できるだけ周りの奴をそぎ落としてくれ。私が引っ張り出す」
「おう!」
ナターリヤは、剣で女性の体すれすれのところまで、まとわりついているものを切っていった。
アレクサンドラがそこから女性を引っ張り出し、自らの結界の中に引き入れ、黒いものを手で払った。
自分たちの姿が見えなくては逆に恐ろしいだろう、
ナターリヤに言って、魔法を解いてもらって姿を顕現させる。
「お……王女様?ナターリヤ様!?」
混乱して何も見えていなかったようだった女性がアレクサンドラに気づき、驚愕した。
「大丈夫か?……貴女は、城の使用人だったか?」
「は、はい、ミーナと申します、
あ、あの、ありがとう、ございます、助けていただいて……」
「いい。話を聞いてもいいか?分かる範囲でいい」
「は、はい、何なりと」
「城のものはもう避難を開始しているのか?」
「はい、大臣様がたは避難を開始されたと聞いています」
「国王陛下は城内に?」
「いえ、陛下は、出陣なさったと聞いておりますが……」
出陣?
お母さまが?
……なぜ?
「嘘だろ、陛下御自ら出陣だなんて!
んなバカな!」
ナターリヤが横で驚愕のあまり声を上げた。
ミーナが、その剣幕に怯えたようになる。
「ナターシャ。待って。
ミーナ、城で指揮を執っているのは誰か、分かるか?」
アレクサンドラは、ミーナをじっと見据えて、
有事とは思えないほど落ち着いた声で問いかける。
「総司令官、イーゴリ様だと……
あ、あの、私、直接見たわけではなくて、先輩から話を聞いて……
その先輩が、先に逃げるように言ってくださって」
「城の使用人は、まだ残っているのか?」
「はい、メイド長や先輩がた、軍の皆様はまだお城で……」
「そうか。
みんな避難しているということは、城から裏山に入っていいと許可が出たということだな?」
「はい。高いところに逃げるようにと、お達しがございました」
ヴァシリーサの神殿のある山は、国が一般人の立ち入りを禁じている。
それが、立ち入り許可が出たと、
そして、高いところに避難せよと。
どこまでこの黒いものの正体が解明できたのか分からないが、やはり水のように、低い方へ溜まっていく可能性がある。
「ミーナ。情報ありがとう。
今ならまだ走り続ければ逃げ切れるはずだ。
弱いが、疲労軽減する魔法をかけてやる。転ばないよう、気をつけて」
「お、王女様!お城に戻られては、なりません、王女様こそ、お逃げください!」
「いいんだ、ミーナ。
私は大丈夫。早く、行け!
私たちも行くぞ、ナターシャ」
「おう、サーシャ」
アレクサンドラはミーナに魔法をかけると、ミーナに背を向けて、ナターリヤと共に城へ向けて再び走り出した。
* * *
外門は完全に開放してあり、門番もいない状態であった。
普段なら門番がいるはずだが、立ち止まっていては黒いものがまとわりついてくるのだ、
門番がいたらまとわりつかれて、ミーナのように覆われてしまうのだろう、
今に限っては門番がいなくて正解である。
城のものがいたら、アレクサンドラは捕まって逃げさせられるだろうから、
アレクサンドラは再びナターリヤに魔法をかけてもらって姿を隠し、外門をくぐった。
城の敷地内にも、黒いものは漂っている。
足首くらいだった深さが、足首を上回ってきている気がする。
まだ、増え続けているのか。
これでは結界の使えないものは、黒いものに捕われてしまいやすくなるのではないか。
もう一旦城の上階へ避難して、転移門などでの脱出に踏み切ったほうがいいのでは。
内門が遠目に見える。
門は閉ざされていて、やぐらには火が灯っていることから、見張りはいるのだろう。
「ナターシャ。
もう、外へ逃げるより、城への避難に切り替えた方がよさそうだ。
ヴァレーリヤ将軍かドロフェイ将軍がいれば、転移門ができるだろ?
このまま黒いものが増えるなら、いずれ城を棄てることも考えてる。
本当にお母さまが出陣されたのか、状況を把握しなければ」
走りながら、ナターリヤに提案する。
「……分かった。
ああ、クソ、アナスタシア様が出陣ってマジなのか、どういうことだよ……
ほんとに、何がどうなってやがる」
アレクサンドラは、隣で走るナターリヤの腕を取った。
「ナターシャ、心配だろうけど、お母さまのことは置いといて。
必要なのは今城がどういう状況なのかだ。
そしてどんな策が必要かだ。
貴女は心配しなくていい、私の指示を聞いてくれたらいいから」
…………
…………
アレクサンドラの言葉を聞き、ナターリヤは感服せざるを得なかった。
アレクサンドラが、信じられないほど落ち着いて、状況を見ていること。
アレクサンドラが従軍経験はあるにしても、自分の方が明らかに魔の者討伐は言うに及ばず、実戦経験も豊富なのに。
近衛隊長として、隊員に指示を出してきてもいる。
それにもかかわらず、今状況判断が上手くできていないのは自分の方だった。
道中も、道は無視してとにかく最短で城に向かえるようにルートをとり、適切な魔法の指示を出す。
まるでイーゴリ大将と戦に出たときのように、スムーズに事が運ぶのだ。
城の者を助けたときも、大混乱に陥っているであろう彼女から、情報を的確に聞き出して、落ち着かせていた。
こんなに指揮官にふさわしい行動をするアレクサンドラを見た者は、誰もいないだろう。
あるいは、アナスタシア王やイーゴリ大将なら、知っているかもしれないが。
ーーそのアナスタシア王が出陣らしいという、普通に考えてあり得ない事態に、
娘であるアレクサンドラがこんなにも落ち着いていられるとは。
そして、自分がこんなにも動揺してしまうとは。
アレクサンドラに腕を取られたとき、気持ちがすっと落ち着く感覚を覚えた。
そして、心配しなくていい、という一言。
ずっと、自分がアレクサンドラにかけてきた言葉だ。
まさかここで、こんな風に返されるとは。
その上、アレクサンドラがいれば大丈夫だ、と根拠もないのに思えるとは。
剣術や魔術の威力がそれほどでないということから、王女をどこか上から目線で見ていたのだな、と初めて気づいた。
王女を守るように常に言われているし、王女の剣となり盾となることが自分の役目であった。
いや、王女の剣であり盾であることは変わらないのだが、ただ庇護のためというのではなく、王女の手足となる、ということに、意味が書き換えられた。
王女は守られるだけの微力な存在ではなく、重要な中枢部、頭脳なのである。
この方は、間違いなく、女神ヴァシリーサの末裔なのだ。
肚の底から、そう体感した。
間もなく、城の裏門が見えてきた。
城の右翼から煙が上がっているが、どうやら中心部は無事のようだ。
魔法で爆発が起こった可能性が高い。
「まだ堕ちてはいないようだ、突っ切るぞ」
アレクサンドラはナターリヤの前に出て、門へと駆けた。
* * *
ミーナは、逃げ惑う人々の流れに逆らって進んでいくアレクサンドラ王女の背をしばらく見つめていた。
使用人の一人でしかない自分。
それも、王族の身の回りの世話をするような身分ではない。
王によっては、道具でしかないと思われてもおかしくはない。
なのに。
ーー私が城の使用人だって、気づいてくださった。
顔を覚えてくれていたのだ。
王女とすれ違ったことくらいは何度かあるが、特に話したこともなく、接点があったわけでもなんでもないのに。
顔を覚えてくれていたのは、たまたまかもしれない。
それは置いておいても、こんな混乱の最中、一使用人をあそこまで気遣ってくれるなど、
普通の王侯にはできないのではないだろうか。
はっと気づくと、足に黒いものがまとわりついている。
払うようにして飛び上がり、そのまま、城に向けて、走り出した。
何の力も持たない使用人の自分ができることなど、何もないのに。
でも。
最後まで、あの方のために、あの方のおわすところでお仕えしたい。
その思いに突き動かされていた。
将軍たちが王女を出涸らしと言っていたが、とんでもない。
ーー剣や魔法の実力が、王の資格なんかじゃない。
この人格こそが、
命を投げ出してでもお守りしたいと思える方でいらっしゃることこそが、
王とお呼びするのにふさわしいお姿なんだ。
私は、アレクサンドラ様のために、命をかけたい。
…………
…………
鍛え上げている王女と近衛隊長に追いつけるはずはない。
それに、王女を追って戻ったなどと知られる必要はない。
逃げ遅れたふりをして、城に入れて貰えばいいのだ。
見知った顔ーー同僚や、先輩の使用人たちーーが逃げ惑っているのを横目に、
ミーナは城の内門へと、脇目も振らずに向かった。
ボーイズラブ要素は、当分先の予定なので、タグを一旦外しました。