58.友の支え
黒いものが、サーシャの腕から流れ込んでくる。
今は、意識が保てる範囲で取り込むつもりだ。
目を閉じて、黒いものを全身で感じていく。
黒いものの声は、聞こえるだろうか?
……いや、多分、こんな細々と取り込んでいたのでは聞こえてこないんだ。
でも、今全身で取り込んだら、危険を犯すことになる。
というか、出会う黒いものの量が、毎回増えてる気がするな。
一体どれだけ、黒いものはーーこぼれたと言ってた、こぼれ出たんだろう?
湖の底を覆い、その先の町までーー?
考えてみれば、イヴァンの国からあっという間にヴァシリーサの国へ到達したのだ、
あれから2ヶ月、距離にしたら相当先まで進んでいておかしくない。
町まで、さらにその先まで行っているような気がする。
ーー湖から、川が伸びている。
町を通り、農地へと。
マジかよ。
世界中に広がっていってんじゃん。
ヤバい、これは。
そう思ったとき、黒いものから、何かざわざわとした気配を感じた。
どうしたんだろう?
「姫さま!退避を!」
えっ?
突然、イーゴリの声が聞こえ、目を開けた。
目の前で黒いものが激しく波打ち、サーシャの周りを囲もうとしている。
ヤバい!
でも、どうして急に?
逡巡している間に、イーゴリがサーシャの肩を抱く、
そしてそのまま階段を駆け上がらされた。
「サーシャ!早く!」
ナターリヤが扉のところで長と待っている、サーシャが扉をくぐると、ヴィクトルが正面に旋律で壁を作り、長が扉を閉鎖した。
「宮殿の入り口を閉鎖しろ。窓があるなら全て閉鎖だ」
イーゴリが長に指示する、長は慌てながらも、全ての出入り口を魔法で閉じる。
「急に暴れ出したな」
「何がきっかけでもあったのか」
ヴィクトルとナターリヤが話している。
「姫さま、ご体調はいかがですか」
イーゴリが聞いてきた。
サーシャは、瞑想状態から突然現実に引き戻されたために、頭が事態に追いついていない、焦点が定まっていなかった。
「……大丈夫……多分……今、何が……」
「少し、お休みなされませ」
「……うん……」
目の前がぐらつき、すがるようにイーゴリの腕にしがみついた。
イーゴリが慌ててサーシャの肩を抱えて支えた。
「長よ、休むところを貸していただきたい。姫さまがだいぶ消耗しておられる」
「はい、ではこちらへ。
……後で結構ですが、我々にも、今何が起こっていたのかお話くださいませんでしょうか」
「そうだな……では後で話そう」
陸では高いところに避難すればよかったが、水中では、黒いものはどう動いてくるのか、未知である。
ヴィクトルとナターリヤが、用心しながらサーシャとイーゴリに続いた。
* * *
地響きのような音が、宮殿中に響いている。
外で、黒いものが荒れ狂っているようだ。
ときどき、揺れさえ感じるほどの勢いだった。
「大丈夫ですか、姫さま」
「あー、頭回り出した。大丈夫」
サーシャは横になっていたソファーから起き上がった。
「怒ってるな」
サーシャは呟いた。
ヴォジャノーイの長が、ときどき心配そうに辺りをみる。
「宮殿はそんなにもろいのか?」
「い、いえ、そういうわけではありませんが。
一体、何が起こっているのでしょうか」
「……黒いものの行く先を、追ってみた。
湖の端に、川がある、そこから町の横を通り、農地に抜けている。
黒いものは、その水に流れて、町や農地へと至り、そして海へ出て……世界中に広がるだろう」
「確かにこの先には町があって、川が近くを流れていたな。農地とは馬車のルートの方面だ。
お前、初めて来るんだったよな?
黒いものでそんなことまで分かるのか」
「そうだね、黒いものに意識を合わせていくと見えてくる。
私、黒いもの取り込んでるから、何かつながれる部分があるのかも」
「恐れながら、あの黒いものを取り込む、とは」
長が尋ねてきたので、サーシャはこれまでの黒いものとの戦いを簡単に話した。
長は驚くばかりである。
「……それは人間が扱い得る力を超えているとしか言いようがありません。貴女様は、一体……」
「女神ヴァシリーサの末裔とは言われてるけど。
湖の北西に位置するヴァシリーサの国の、王女だ。魔法は使えないんだけど」
「おお、なんと……では本当に神々の末裔でいらっしゃったのですな。それならば、納得です、
昨晩は大変無礼なことを致しましたこと、深くお詫び申し上げます」
「この人がルサールカを一体消してしまったから、帳消しとしよう。
それよりも今後のことだ、また籠城になっちゃったな」
「全くだ、サーシャ、今黒いものが怒ってるって言ったな、何がどうなってんだ」
「……何がいつもと違ったんだろう」
サーシャは考え込む。
いつもと、違うこと。
…………
「……黒いものに対して、ヤバいって思ったな。
黒いものの行き先を追っていて、世界に広がっていってるって思ったら、
ヤバいって思って。
……ああ……そうだ……黒いものを、受け入れられてなかったからか」
サーシャは、深いため息とともに、誰にともなく言った。
イヴァンの国で大量に取り込んだせいなのか、
黒いものが感情である感覚を忘れかけていた。
イヴァンの国を救ったからか、
自分が黒いものをなんとかしなければ、世界が危ない、という思いも、知らないうちに抱えていたようだと気づいた。
ーーつまり、黒いものを敵だと認識していたことになる。
黒いものは、サーシャに抱かれたいと、受け止めてほしいといつも求めてきていたのに。
脅威と感じてしまったから、黒いものは拒絶の意志を感じ、荒れ狂ったのだ。
聞こえ続けている外の轟音が、嘆きの声であるかのように思えた。
「サーシャ……大丈夫」
ナターリヤが声をかける。
サーシャの隣に座って、肩に手をかけた。
「サーシャ。世界のことなんか考えるな。
貴女自身と、貴女の大切なもののことだけ考えていればいい」
ナターリヤが、サーシャを抱き寄せながら言った。
「貴女は誰かの危険を放っとけない人だ。
城が襲撃されたときも、
お父上の国が囲まれていたときも、
そして今も。
できることはやったらいいけど、
できないことをやろうとしなくたって……いい。
黒いものがどう暴れようと、貴女の責任じゃない。
てか貴女の責任であってたまるか。
黒いものの対処について貴女に文句を言う奴がいたら、私が叩っ切ってやる」
ナターリヤの言葉は、いつも勇ましい。
ときに極端とも思えることだって、遠慮なく口にする。
ーーだから、深刻な物事が深刻じゃないような錯覚に陥るのだ、いい意味で。
黒いものを取り込めるのは、私だけ。
でも、一人で背負うこととはまた違う、
つい背負いそうな責任を、ナターリヤが撥ねつけてくれるのだ。
今までに何度、そうやって助けられてきただろう?
ナターリヤの肩に、頭をもたせかける。
ーーナターシャが懐深く感じるのは、やっぱりイーゴリと兄妹だからなのだろうか。
性格は全然違うと思うのに。
城でもよく言ってくれていた、
剣も魔法も上達が遅く伸びなくて、王位なんか継げない、と弱音を吐いたとき。
「サーシャに逆らう奴は私が叩っ切ってやる。何も心配するな」
むしろ、切るなとこちらがなだめたほどだった。
だが、心配はいつも薄れていった。
イーゴリには全てを預けているが、
ナターリヤも……なくてはならない、大切な人。
「ナターシャ。みんなでちょっと寝よう。
疲れを取らないと、黒いものに対処できない」
「この揺れと轟音の中でそういうこと言う?
貴女は相当神経図太いよ」
ナターリヤは呆れたように言ったが、サーシャが大丈夫だと態度で悟った。
「イーゴリ、全然寝てないでしょ。
ちょっと寝させてもらいなよ、でないと私の援護ができない」
「大丈夫ですが、ではお言葉に甘えましょう」
「じゃあ俺が見張っといてやるよ、みんなで寝てな」
「変わったことがあったらお知らせしましょう。この部屋でごゆっくりお寛ぎください。
飲み物を準備させます」
ヴィクトルと長が言い、サーシャたちはそれぞれ、大きく柔らかなソファーに寝転がった。




